2019年4月11日木曜日

全生園2なごみと花見

4月7日、東村山スポーツセンターでダンス競技会。
この日は錦糸町すみだ産業会館などでも大会があり、そちらの方が近かったのだが、あえてここに来た。

シニアIIスタンダードA級で14組中5位。
表彰式が終わって、本来の目的地に向かって歩いた。
15分ほどで到着。
国立療養所多摩全生園。

門や守衛所など何もなく、地域の人も通り抜けに使う気楽さで出入りしている。
かつてハンセン病患者の隔離施設が東村山にあったこと、とうの昔に完治された方でも引き続き住んでおられることは最近まで知らなかった。

もともと多摩地区に土地勘がなかったこともあるが、
差別、補償問題などでテレビにうつるのはたいてい瀬戸内海の長島愛生園などだったから。

ところが昨年、仕事で東久留米に行ったとき、たまたま地図に国立ハンセン病資料館というのを見つけ、足を延ばした。
あいにく月曜であったから資料館は休館日。
しかし、すぐ裏に広大な、ここだけ時間が止まったような世界が存在することに驚いた。(→リンク
帰宅後、調べたら敷地内を見学できることを知る。

・・・・
再訪したこの日、季節はお花見になっていた。
右の南側の方に行くと宗教施設が並ぶ一角があった。

日蓮宗、浄土真宗、英国聖公会、カトリック、秋津教会、大師堂。
きれいに手入れされたさまざまな堂宇が並ぶ。

付き添いの人と散歩している元患者の方が遠くに見えた。
ハンセン病の後遺症なのか老いによるものなのか、歩みはゆっくり。

築山
前回のブログにも書いたが、この文章を書いた方は誰だろう。
どの説明版を見ても感心する。

雑木林を患者たちが苦労して開墾し農園にしたのは、この辺りだろうか。

旧図書館。いまは理髪店になっている。
上野の帝室博物館が鉄筋コンクリートに建て直されるとき、宮内庁に頼んで解体木材を払い下げてもらい、患者たちが作ったとか。
「開所(1909年)して二年ほどの間に亡くなった約80人の患者たちは、このあたりの松の根元に埋葬された。はじめは土葬であったが、しばらくしてからは野天で焼かれた。松の木は墓標代わりに植えられた小松が成長したものと言われるが、ここに埋葬されていた遺骨はすべて1930年に発掘されたから、これらの松の木は改めて植えなおされたものかもしれない。・・・」

向こうにみえる更地は学校(全生学園)の跡である。2008年まであったらしい。

現在の住民の居住区

利根、牡丹、樫、柿 の各寮が並ぶ

お食事処「なごみ」
定食700円から。

樹木希林は名演技で知られるが、意外なことに主演映画は1本だけである。
「あん」は、どら焼きやの求人募集の貼り紙を見て、そこで働くことを懇願する老女が現れる話。彼女の作る粒あんはとてもおいしく、店は大繁盛するのだが、彼女がかつてハンセン病であったという噂が出て店はぴたりと客足が途絶える。

この食堂はじめ全生園がロケ地となった。
彼女の施設時代の友人に市原悦子。
食堂にあったロケの時の写真

樹木希林は2018年9月15日に亡くなった。市原悦子も後を追うように2019年1月12日に亡くなり、そのときのニュースに「あん」の映像が背景に出た。説明が何もなかったから、私も昨年来ていなかったら、そのまま見過ごしていただろう。

 
餡子の上にソフトクリームを乗せた「旅する小豆たち」500円。
まあ普通の味だった。
食べ始めてすぐ、資料館には16時までに入らないといけないことに気が付き、慌てる。
ゆっくり味わえず残念。

浴場
閉館時間が気になり足早に過ぎる。

北西の端まで来ると花見で賑わう一角が。
桜の真下でゆったりと柔らかな草むらの上に座るもの、子供とキャッチボールをするもの、バドミントンをするもの、上野などと比べるとずいぶん居心地の良い空間だが、こんな場所で楽しんでいいのだろうか、と少し罪悪感。


国立ハンセン病資料館は見ごたえがある。
不自由な体でも大量の包帯は自分たちで何度も洗濯して使い、農場では野菜、家畜はもちろん、養蚕、鯉の養殖、実験動物の飼育までした。その様子が写真で分かる。もっとも彼ら彼女らの心の中は写っていないが。

全国のハンセン病施設が日本地図に示されていた。
各施設の在籍者数も併せて示されている。
九州の菊池の221人を筆頭に、多摩全生園は166人、全国で1338人だが、
その数字の部分だけ貼り紙で更新できるようになっている。毎年減る一方の数字であるが、その更新というのが退所でなく高齢による死亡というのが何とも言えない。
平均年齢は83.9歳である。

16:30すぎに資料館から出てくると、まだ明るく、相変わらず花見客も多かった。


永代神社
彼らはこの施設から一生出られなかったから、年に一度のお祭りをしたり、お願い事をする神社は大事な場所であっただろう。

資料館では撮影禁止であったが、貴重な冊子をいただいた。
 とくに「全生病院を歩くー写された20世紀前半の療養所」に貴重な写真がある。
なお、全生病院が多摩全生園に改称されたのは1941年である。
1909年

拡張前の全生病院

一番下の写真から、逃亡防止の空掘と土塁の様子が分かる。

1947年 ほぼ今の形。
今もある野球場は現在地域の人が使っている。

親は何とか発症した子供を隠そうとしたが、密告されると警察が来た。
「無らい県運動」というものが正義であり、当局は競うように見つけて送り出した。どんなに幼く泣きわめいても、涙する親から引き離されて強制隔離された。
感染力は弱くとも、一般大衆の不安感というものが後押しした。

薬のない時代、施設でそのまま死ぬものが多く、戦後、運よく新薬プロミンが間に合って完治したものも、近所の差別が家族にも及ぶことを恐れ、ふるさとには帰れなかった。

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