2019年11月29日金曜日

松本2・信大芙岳寮、幻の九高と旧制高校記念館

(松本での続き)

生理学会、3日目の最終日は雨だった。
本町通りから女鳥羽川を渡ると大手門の跡。
その手前、いかにも観光用に整備された縄手通りを東へ歩く。
2012-03-31 9:04 四柱(よはしら)神社
南総堀を埋め立てた地に、明治天皇行幸に合わせ建てられた。
すなわち縄手通りは総堀と女鳥羽川の間の堤である。

1977年、芙岳寮に泊まった。
翌日、由井克之は自転車を押して、二人はこの川に沿って駅まで歩いてきた。

川をみて無性に行ってみたくなった。
午後、学会が終わって急ぐ。
2012-03-31 14:37 信州大学医学部・芙岳寮
芙岳とは富士のことだが、ここからは見えない。

1977年はこんなに車などなかった。
自転車かバイクが並んでいて、ここで由井とキャッチボールをした。
彼を座らせカーブの練習をした。
夜は外食してきてから由井の部屋で彼の好きなワインを飲んだ。
二人部屋だったが、相方が帰省中でそのベッドを借りた。

35年後の2012年、寮の周りは住宅が立て込み、当時の雰囲気はなくなっていた。

・・・・・

このあと南下し、市の南東部にある旧制松本高校跡地にいった。
今はあがたの森公園になっている。
北に蚕糸記念公園、松本県が丘高校、南に松商学園がある。


2012-03-31 15:03 
道路に面して旧制松本高校本館。

四角形の角を玄関とし、90度の二辺に校舎が伸びる形。
一高などのナンバースクールは中央の玄関の両脇、180度に校舎が広がる形であるのに対し、その後の松本や新潟、浦和高校などは、この変わった形になった。

2012-03-31 15:04 

松本はもともと教育熱心な土地であった。
その象徴が開智学校であり、また旧制松本高校の誘致である。

旧制高校は、1886年の中学校令により設立された第一から第五、それに藩閥による山口、鹿児島の7つの国立高等中学校のうち、鹿児島を除く6校を1894年に高等学校令によって改組したことに始まる。
すなわち第一から第五と山口高等学校である。(山口は1904年、高等商業学校に変わった)
記念館にあった模型

旧制高校はそれぞれの地方の人材を帝国大学へ送り込むための大学予科的な存在だった。
1897年になって京都にも帝国大学ができることになり、高等学校の増設も計画された。文部省の計画では2校。うち一つは広島との誘致合戦を制した岡山に六高が決まる。

そこで長野県は七高の誘致を目指し、県内出身者で文部省に顔のきく伊沢修二(高遠、音楽取調掛、雑司が谷霊園)、辻新次(松本、開成所化学教授手伝並から初代文部次官、薬学会会員、本郷弓町に屋敷)、湯本武比古(中野、文部省編輯局、東宮御用掛)らが中心になって運動した。
このとき長野県は松本の他に長野、上田、中野も名乗りを上げ、県内で統一できないまま、1901年、文部大臣樺山資紀の出身地、鹿児島造士館が七高となってしまう。
(わが中野が立候補した理由は、オックスフォード、ケンブリッジのように学校は静閑の地を選ぶべきという、冗談のような理屈である)

なお、鹿児島造士館は最初の7高等中学のひとつであるが、熊本に第五高等中学があったため、生徒が集まらず1896年廃校になっていた。それにしても国立の学校に藩校の名前を冠し、強引に七高をもってくるとは当時の薩長の力はかなりのものだ。

七高の芽が消えた後、松本の運動は実を結ばず、1908年八高は名古屋に。

次の九高は失敗は許されないと、松本出身の2人、辻新次(のちに帝国教育会長)と沢柳政太郎(文部次官から京都帝大総長)に協力を依頼した。ライバルは新潟。
松本市長の小里瀬永はひそかに文部大臣小松原英太郎を訪れ松本設置を依頼した。小松原も賛成し、小里も「九分九厘まで新潟に勝ちを得たるや」(信濃民報)となったが、桂太郎内閣が総辞職。次の西園寺内閣が行財政整理を優先したため、松本九高は流れてしまった。
(中村勝美「信州南北戦争」)。

大正期に入ると好景気を反映し、全国的に高校の誘致熱が高まった。1918年(大正7)新しい大学令と高等学校令が公布され、新たに4校の高校の新設が決まった。

松本は新潟、山口、松山と同時であり、もはや第九高等学校というナンバースクールにはならず、地名を冠することになった。松本と新潟はいずれも自分を第九高等学校と称したらしい。

古いけれどもきれいに掃除された本館の中。
驚くことに、戦前のこの校舎は記念館、資料館ではない。
今も使われている公民館(あがたの森文化会館)なのだ。

15:10 ただし復元された教室もある。
ここで市民講座など開いているのだろうか。

なぜこんなにきれいに残っているかというと、松本高校の後身である信州大学文理学部が1973年(昭和48)、旭町キャンパスに移るまでそっくり使っていたからである。

案内のポスターなどは公民館そのもの

本館の向かいにある松本高校講堂
閉館しており、中には入らず。

信大のおかげで、乱開発を免れ、かつての敷地はそっくり保存された。
今はほとんど何もない公園になっている。
なお、旧制高校の寄宿舎だった思誠寮は、60年経った昭和58(1983)まで存在した。

松本高校本館(現公民館)の並びに、鉄筋コンクリートの旧制高等学校記念館があった。
松本市立の博物館として1993年、開館。
1981年に本館内につくられた「旧制松本高等学校記念館」をうつし、その後全国から資料を収集した。
旧制高校は東京、仙台、京都、金沢、熊本、岡山、鹿児島、名古屋のあと、
1919年の松本、新潟、山口、松山の4校をはじめ、
20年水戸、山形、佐賀、弘前、松江、
21年大阪、浦和、福岡、
22年静岡、高知、
23年姫路、広島、まで毎年作られ、
40年旅順、43年の富山(県立から移管)まで国立が26できた。

修業年限は3年だが、成蹊、成城、武蔵、甲南の私立、東京高校、東京府立高、浪速などの公立は中学教育も合わせた7年制だった。
こうした数ある旧制高校の中で、その記念館がなぜ松本か?

当時の校舎や敷地がそっくり残り、かつ空いていたのが大きいだろう。
駒場の一高などももちろん現存するが、現役の大学として使われ、記念館など作る余分なスペースなどない。記念館を作ろうという意思のある主体もない。
ここは松本高校記念館が既にあったおかげで、資料を集め拡大するだけで良かった。

2012-03-31 15:37
いや、一番の理由は、ここが松本市だからだろう。
明治以降の地域文化を誇りに思い、大事にする。
そういうものにこそ税金を使うという意思がある。


千駄木菜園 総目次

0 件のコメント:

コメントを投稿