先のブログで開智小学校に触れた。
小学校の沿革を見れば、毎年のように金管バンドなる演奏クラブが長野県代表として各種コンクールに出場、活躍している。
開智小学校卒業生の森恵美子さんの話では、夕方に近所を歩けばどこの家からも子どもの弾くバイオリンが聞こえたという。何十年も前の話である。
松本は音楽が盛んだ。
1992年以来毎年松本で開かれる音楽祭、セイジ・オザワ 松本フェスティバル(2015年までサイトウ・キネン・フェスティバル松本)は有名である。
バイオリン教育のスズキ・メソードの本拠地も松本。
松本市民芸術館の隣に、幼児教育の「才能教育研究会」と合わせて、国際スズキメソード音楽院がある。
2012年3月、松本文化会館で開かれた生理学会の帰りに創立者、鈴木慎一の旧宅に寄った。
2012-03-29 15:03
いまは記念館になっている。
「どの子も育つ。育て方ひとつ」
鈴木は名古屋出身、父親がバイオリン製作会社を創立。
バイオリン奏者となりベルリン留学、アインシュタインなどとも親交。
戦時中は鈴木バイオリンの木曽福島工場長。
戦後松本の文化人らが音楽学校の設立を計画、1946年松本音楽院開設。
鈴木は院長に迎えられ松本に移住、
同年、全国幼児教育同志会を結成、本格的に才能教育運動を開始した。
「スズキ・メソードは、コダイ、ウォルフ、リトミックと並んで世界四大音楽メソッドの一つとも言われ、いまや世界46カ国で40万人の生徒が学んでいる。もっとも浸透しているのはアメリカで、30万人が学ぶ。発祥地の日本よりも世界で知られた音楽教育法といえるかもしれない。
日本においては現在2万人弱の生徒が学んでおり、卒業生には桐朋学園学長を務めた江藤俊哉、里見弴の小説『荊棘の冠』のモデルになった諏訪根自子といったヴァイオリニストに始まり、パガニーニ国際コンクールやジュリアードコンチェルトコンクール、ロン=ティボー国際コンクールで上位賞を獲得する演奏家が数多いる。」
(原子物理学者・早野龍吾氏インタビュー)
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/7784
自宅応接間
スズキメソードの母体、才能教育研究会の第5代会長に就任した早野氏もここでレッスンを受けた。
見学者は誰もおらず(普段もあまりいないのではなかろうか)、
係の人にじっくり親切に教えていただいた記憶があるが、すべて忘れてしまった。
皆スズキメソードなのだろうか。
松本は3つのガクトを目指すと自称している。
楽都、岳都、学都である。
1970年で16万人、大合併した今も24万人しかいない地方都市にしては大風呂敷である。
(楽)の音楽はいま述べた通り。
(岳)については、もともと西の北アルプス、東の美ヶ原への玄関口であった。
近年、合併によって上高地、穂高、槍ヶ岳まで市域に含まれた。
もっとも市民にとってはこれらの山々より、手前にそびえる常念岳のほうが馴染んでいるだろうが。
(学)については、
松本は明治以来、教育県長野の中心になってきた。
47都道府県で国立大学が県庁所在地にないのは弘前と滋賀(彦根)と松本だけ。
今も信州大学、松本大学、短大2、専門学校13、公立高校7、私立高校6。
人口24万人にしては多い。
ここへきて開智学校が国宝となり、松本高校記念館を母体にした旧制高校記念館を整備している。
・・・・・
2012年3月31日、学会が終わって信州大学医学部・芙岳寮、さらには旧制松本高校跡地に寄り(別ブログ)、駅に向かった。
途中、わき道にそれると湧き水のある小さな公園があった。
源地水源池。
さらに暗渠のような細い道をいくと、まさに市中に
源智の井戸
江戸時代から飲用に使われており、いまも230リットル湧いているという。
市内には多くの湧水、井戸がある。このような市街地に今も残って使われているのは珍しいのではなかろうか。
3つのガクトより、こちらの方がすごいと思った。
松本の底力を感じた。
松本は地形的にも、文化的にも長野県の中心であろう。
松本に県庁をおいた筑摩県が庁舎火事をきっかけに1876年、長野県に統合された。県庁が北のはじ、長野にあるのは中信、南信のものにはまことに不便である。
さらに真田10万石の松代ならともかく、善光寺しかない商人の町に置かれるのは、誇り高き松本の士族たちは納得できなかったであろう。
だから長野県においては松本を中心として、分県運動、県庁移設運動が、明治、大正、昭和とずっと続いてきた。
分県、移庁が無理でも、各県に一つしかない機関は長野と誘致合戦を争い、多くをものにした。
全国10番目の日銀支店や護国神社は長野でなく松本であるし、陸軍第50連隊も松本(今は信州大学新キャンパス、松本美須々が丘高校、旭町中学、松本文化会館)。尋常中学、旧制高校、近いところでは1978(昭和53)年の国体主会場も長野でなく松本。
国体は戦後始まり、人口200万全国16番目の長野は昭和30年代に開かれても良かったが、主会場で長野と松本が引っ張り合い、この時まで開催できなかったという。
2012-03-31 17:22
この日、埼玉には帰らず、北信濃・中野の実家に帰ることにした。
篠ノ井線の各駅停車で長野県を二分する中央の山塊をぬけた。
姥捨駅までくると、善光寺平を中心とする東北信が眼下に広がる。
鉄道のなかった昔は、中南信のものにとって県庁に行くのはさぞかし不便であっただろう。
ホームのベンチは線路でなく景色の方を向いている。
私は北の長野市文化圏であるが、松本諏訪にずっと憧れている。
県歌「信濃の国」を残すためにも、県庁は移しても良いが、分県だけはしないでほしい。
(今の松本の発展具合をみると、コンクリートの臭いのする県庁、行政機関などは無いほうが良かったのではなかろうか)
風土というものだろう。
文化人は多すぎて列挙しきれないが、花いっぱい運動、宴会の料理廃棄を防ぐ30・10運動なども松本発祥であることを書いておく。
別ブログ
20191129 松本2・信大芙岳寮、幻の九高と旧制高校記念館
20191125 松本1・お城と開智学校
千駄木菜園 総目次
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