2020年5月9日土曜日

御殿坂から猫又橋、砂利場坂の千石まで

白山台地の東の縁をたどり、蓮華寺坂、伊賀坂を上り下りして先端の戸崎町、旧細川男爵邸(現白山閣)まで来た。

別ブログ
20200504 千石緑地、明化小、白山通りの工事
20200508 指ケ谷と戸崎町、白山閣

 
国土地理院のHPから

明治42年
昭和7年
昭和32年

白山台地の南端をぐるりと西に回り込み、今度は台地の西縁を北上する。
右(東)をみながら坂を探す。

2020-05-02
台地に向かう坂道はあるが、白山閣から続く崖のため行き止まりが多い。
右は中山紙工

臨済宗妙心寺派、天長山是照院わきに私道と坂がある。

片側にアパートがある路地の奥は階段。
40年前、谷中に住んでいたころも狭いところに自転車を止めていたな。

最後は行き止まり。出窓に猫がいた。
私道だが眺めがいいので是照院坂とする。
2020-05-02
緑は小石川植物園だろう。

東へ細い路地が何本もあり、どれも崖で行き止まりというのは菊坂のようだ。
コロナで暇を持て余す子供と親が野球をしていた。

崖と坂から離れて念速寺に立ち寄ったが、別ブログで書く。

2020-05-02 白山雲母保育園
雲母という文字を久しぶりに見た。
黒っぽく光り薄くはがるれケイ酸塩の鉱物、小中学校の理科を思い出す。

しかし「えっ? ウンコ幼稚園?」と聞き返されるのではないか? 
この名前はないだろう。

何気なく検索したら、きらら保育園と読むらしい。
子どもたちは当然キラキラネームが多いだろうが、保母さん、預ける母親もキラキラネームが好きなのかな。
とおもったら、「きらら」はちゃんとした言葉のようだ。もちろん漢字は雲母とかく。
字づらと音感が違いすぎる。最初からカタカナで書けばいいのに。
きららという音が欲しかったのに、漢字で書いたら泥臭くなる。

漢字の読み方というのは、まず話し言葉があって、そのものを表す漢語がきたとき、その話しことばが読み方になる。訓読み、音読みはこうしてできた。だから「きらら」も悪くないのだが、小中学校で習わないと違和感が出る。

初めて知ったのだが雲母保育園は、モード・プランニング・ジャパンがチェーン展開しており、東京を中心に47か所もあるという。

なおも北に歩くと、ようやく白山台地に上がれるちゃんとした坂道に出た。
しかも江戸時代からある。
2020-05-02 御殿坂
ここは昔舘林藩下屋敷があり、藩主は家光四男綱吉。
そのため白山御殿と呼ばれ、坂名はそこから。
そのご幕府の御薬園と松平駿河守(伊予今治3万5千石)下屋敷となり、いまは東大理学部付属植物園。

植物園の塀の中に蔦の這う宿舎があった。
無人で荒れている。

2週間ほど前に訪ねた網干坂、氷川坂の下を過ぎ、台地下の道を北上する。
坂道はない。
崖上の武家地と崖下の田んぼでは行き来がなく、道も必要なかった。

左に太田胃散の本社ビルの裏を過ぎると
立派な門柱のマンションみたいなのがあった。
見れば矢橋大理石(株) 千石第一寮
建物前に衝立のように大理石のパネルが立ち並んでいる。
それだけでなく、門、地面、建物、すべてが商品見本のようだ。

2020-05-02 雄和紙工(株)
大理石御殿の反対側は昔ながらの建物。
白山台地の西の低地には印刷業、紙工業が多い。

坂道がないまま、千川の暗渠をたどると不忍通りに出た。
猫又坂
確か説明版があったはずだが、と道路を渡り小さな緑地にいってみたがない。

「猫又橋際公衆便所」と名前がついている。

ふと見ると歩いてきた南側に見えたので再び道路を渡った。
猫又橋の親柱の袖石という。
親柱も袖石もよくわからず、イメージがわかない。

昭和7年(1932) 
暗渠になる前の千川(小石川)に猫又橋がかかっている。
木の根っこの股で橋を作ったから根子股橋、あるいは妖怪の猫又が出たからともいう。

池袋の西、豊島区千早、要町辺りから始まり、谷端川、千川、礫川といくつも名前を持つ小石川は、文京区随一の大河、宅地化で水田が消えてから大雨でよく氾濫した。
洪水対策のため下流部を鉄筋コンクリートの暗渠にしたのは、地図の2年後、1934年である。
坂の名前は橋から。

明治42年(1909) 陸地測量部

ところで猫又橋、猫又坂といわれていた昔、当然この道、不忍通りはない。
開通(1922・大正11)前の古地図を見れば、橋から白山台地を上がり右折して植物園の上のほうに行く道があった。
いま、不忍通りの南に並行して残る。

2020-04-16 
右が猫又坂 旧道 
このくらいの斜度がないと坂に名はつかない。

2020-05-02 
猫又坂 不忍通り
以前、胃の健診で坂下の東京健生病院に来た。
帰りはこの坂を自転車で上がったが途中から押した。

そういえば次女は昔、大塚駅のケーキ屋 a la campagneでバイトしていたが、大学から自転車で来て、帰りは夜遅くこの坂を上がったはず。上まで登り切ったのだろうか?

不忍通りの北は千石三丁目
公衆便所の緑地に暗渠を記念する細道があった。
不忍通り(写真の向こう)の斜度を緩やかにするため盛り土したから、この場所は川より高くなっている。

このあたり江戸時代は坂の上まで旗本池田甲斐守7000石の下屋敷、明治後は川崎財閥の屋敷があった。
細かく分譲後にできた坂だが川崎坂とする。

立派な擁壁。階段があり登ってみる。

コーシャハイム千石
東京都住宅供給公社の賃貸し住宅。2009年築。
川崎邸の跡である。
コーシャ坂とする。
坂下も大規模に再開発している。
池袋が見えた。

暗渠(大塚三業通りという)なおも北に行くと川崎邸が終わったからだろうか、坂道があった。
2020-05-02 砂利場坂
護国寺造営の際に砂利の採取場となっていたからという。
小石川というくらい、石が多い川で、即ち川岸の崖は小石が多い地層だったのだろう。

ちなみに千石という地名は石が千個ではなく、1967年の住居表示実施に伴い、千川と小石川から1字ずつとったようだ。

坂の上は落ち着いた邸宅街
江戸期は旗本、御家人が住んでいた。

台地の上を北に行くと西への下り坂があった。
まっすぐで広い。高い建物がなく、谷中の夕焼け段々より夕日がきれいに見える。
宮坂
坂の途中から右(北)は豊島区南大塚になる。
宮坂と言うが付近に神社はない。
このあたりもとは平岡丹波守の屋敷であったが、明治になって嘉納希芝(講道館治五郎の父)の屋敷となった。その後明治19年に有栖川宮熾仁親王の別邸となり、宮は40年ころまでしばしば訪れた。
大正時代になって尾張屋土地開発が区画整理して坂ができた。
1929(昭和4)年 巣鴨町
明治42年の地図では砂利場坂の北には東福寺まで山林と松浦邸しかなかったが、昭和初めの地図を見れば松浦邸の南が分譲され、松浦分譲地と鴻池信託分譲地ができている。宅地造成で道路と宮坂ができたようだ。

・・・・
白山台地の西の斜面は、東斜面と違ってまだまだ続く。
小石川(谷端川)がそれだけ大きいということだが、文京区最北端となったので、家に帰る。
2020-05-02
宮坂、砂利場坂の上からすぐ東、文京区千石のど真ん中に、地方都市のような古い家が並ぶ通りがあった。
一橋徳川邸の北の不忍通りからずっと、山手線をこえ、十文字学園、文京高校まで続く江戸橋通り。

地図を見れば江戸時代から幕臣が住んでいたのでほぼ今の街路のように区画整理されている。この古い道は中山道と平行に、畑の中を巣鴨村まで続いていた。
大正12年建築、登録有形文化財の伊勢五米店もこの通りである。
本郷通りの西さえあまり来ないのに、白山通りの西、北の端などまったく用事がない。
通り抜けることもなかった。
童心社
ここに来る前、数十メートルほど離れて東京化学同人もあった。
前の週に行った南谷寺横には医歯薬出版がある。
本郷ほどではないが、文京区は北の方でも住宅地の中に突然出版社と出くわす。坂下には印刷所が多いのも特徴である。

宮下公園
このあたり小石川宮下町といった。
近くに大鳥神社があるけど平坦だから宮下という地名は生まれない。
調べたら江戸時代、簸川神社のあたりにあった宮下町が白山御殿建設のため上地、代わりに巣鴨に土地を与えられ引っ越してきたという。
巣鴨大鳥神社
このあたり坂が全くないから散歩も面白くない。
しかし文京区の北西部は全く来ることがなかったので、ま、一度くらい歩いてよい。

不忍通りの一本北に平行して走る千石本町通り商店街は大原麗子の実家、和菓子の田月堂があるが、通らずに帰ってきてしまった。


20191218 上野・本郷、全126坂道の一覧、ランキング


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