2020年7月29日水曜日

大井玄洞と薬学、江戸川公園と護岸工事

天気の変わりやすい梅雨の日曜、江戸川公園に来た。
2020-07-26 14:09
江戸川公園 男爵阪谷芳郎書

江戸川橋(別ブログ)のそばに石碑がある。
阪谷男爵書とあるように開園が1919年(大正8)。

公園というのは関東大震災(1923)の後の都市計画でできたものが多いが、ここは神田川(当時は江戸川)の洪水対策工事でできたもの。
明治最大の水害、1910(明治43)の大洪水のあと、大正に入ってから護岸改修工事に着工、完成は1919、同じ年に延長500mほどの細長い公園も開園した。

公園入口に銅像があった。
実は初めて見た。
14:15
大井玄洞像
左の説明版は神田上水や桜道など公園全体について書いたもの

上記護岸大改修の時、尽力したということで昭和3年(1928)建立されたという。

大井玄洞は薬学の人だが、いまの薬学関係者はほとんど知らないだろう。また、ここを訪れた人は像に気付くだろうが、説明が護岸工事のことしかないから、彼らも彼の本業(薬学)は全く知らない。

もちろん薬学者としての大井玄洞はwikipediaにもあるのだが、ネットにない、もっと大事なことを書いてみよう。

私はたまたま15年位前、日本最古である東大薬学の、それ以前のことを調べたことがあった。
本ブログでも「薬学昔々」第80話、81、82話と薬学会の起源について考察してある。

明治初期には大学は東大しかなく、そこの初代教授が長井長義、下山順一郎、丹波敬三の3人で、助教授が丹羽藤吉郎だった。そのため近代薬学の歴史は彼らから始まったように書かれてしまうのだが、下山、丹波、丹羽の3人は東大医学部製薬学本科の第一回卒業生(明治11年)である。
つまり歴史はそれ以前からあり、彼らを教えた人々がいる。
柴田承桂やお雇い外国人らのほかに、助教として
・熊沢善庵(1845-1906、化学)、
・飯盛挺造 (1851 - 1916、物理学)
・大井玄洞(1855 - 1930、製薬学、薬品学)
・松原新之助(1853-1916、動物学、植物学)
らがいた。

大井は、1853年生まれの下山 1854年の丹波より若い。
そして、現存するわが国最古の学会、日本薬学会の創立メンバーである。
東京薬学新誌 第2号 裏表紙
(明治11年12月)
社員51人の名前が書いてある。

下山らが卒業した明治11年、卒業したばかりの9人と在学生、教員ら51人が薬学の勉強会を開き、雑誌を出そうと学術結社を作った(だから社員という)。 彼らがそのまま設立メンバーとなり、明治13年、現在会員2万人の日本薬学会の前身、東京薬学会を作った。その51人の一人が大井玄洞である。

公園入口の大井玄洞の像をすぎ、左に川を見ながら西に歩いていく。
14:16
日当たりのよい芝生がある広場とは違い、ゆっくり散歩が似合う大人の公園。
北区の石神井川遊歩道にも似ているが、都心に近い分、こちらの方が洗練された感じ。

14:18
崖に上ってはいけないが、はしごが設置してある。
柵もないのだから自由に登れる。
この看板はどういう意味があるのか?
事故が起きた時のための責任逃れために設置するとは、税金の無駄使い。

目白台周辺は上品で、置かれた石も美術館の前にあるみたい。

どこかの城址みたいな石垣が続く。
いつ積まれたか知らないが。

細川庭園でもらった文京区パンフ

このあたり崖の上は目白不動と旗本、大名屋敷だった。


14:20 一休橋
左岸に一橋家の抱え地があり「いっきょう橋」からいっきゅう橋になったという話がネットにあったが、江戸切絵図に一橋家は見つからない。

千駄木に来た年、甥の結婚式が椿山荘であった。
妻と娘たちは着物の着付けで早くいき、息子と私は後から家を出た。動坂下から早稲田ゆきのバスは神田川の向こう側にとまり、一休橋か大滝橋をわたり、鬱蒼とした公園にはいり崖をあがって関口台町小学校の東を通って目白通り(旧道)に出た。

14:24 大滝橋
このあたりに神田上水の取水口があったという。このあたりの関口という地名は、地名の広さから言って関口という旗本がいたわけでなく、堰口が転記されたものだろう。

しかし本当に取水口はここだろうか?
まあ、「大滝」は堰き止めて取水した残りが本流に流れ落ちる様を言うから、このあたりに間違いないのだろう。

それより、大井玄洞が尽力した大正の神田川改修工事とはどういうものだったか?
明治40年 goo地図
明治のころは神田川本流と上水路のあいだが中州のようになっていて泥掃場があり、江戸川橋の近くには町屋もあった。

この中洲のような部分をつぶして川幅を広げたのだろうか?
いや、

昭和15年(1940)
周辺の都市化で水質が悪化、昭和8年には取水堰はふさがれたとある。
その場所は公園内の道路になっただけで、神田川の本流は明治と比べて広がっていないように見える。


では、大井玄洞の洪水対策、神田川工事とは何だったのだろう?
もしや!?
いろんな地図を見ていて気が付いた。

工事前、明治42年

工事後、昭和7年
細川庭園の少し上流、幽霊坂と豊坂のあいだ、豊(ゆたか)橋あたりの川の蛇行がまっすぐになっている。
江戸川公園が大正の洪水工事のあとにできたというから、てっきり銅像のあたりが工事場所だと思っていたが、大井玄洞が尽力した工事は、江戸川公園ではなく、もっと上流だったのではなかろうか?



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