そのあと一人になり、赤坂見附から少しぶらぶらした。
三べ坂から薬業健保会館、メキシコ大使館をまわり新坂を外堀通りに降り、プルデンシャルタワーの前に来た。
別ブログ
20200628 薬業健保会館とプルデンシャルタワー
20200615 ニューオータニ庭園の松でおしゃべり
かつて溜池だった外堀通りを南に少し歩くとすぐ日枝神社
2020-06-15 15:16
ずいぶん新しい鳥居
昔一度来たことあるはずだが、全く記憶なし。
鳥居の内側に一般道路がぐるりと回り、新しい階段がある。
石垣にパネルが嵌め込んであった。
平成12年(2000)とあるからそのときに完成したのだろうか。
読めば、平成5年(1993)、東京都の永田町山王地区の再開発計画が告示され、95年から5年かけて周辺道路整備と地域の冷暖房施設など公共施設が建設された。神社は415坪を無償で提供し、その結果、だいぶ姿も変わったようである。
鳥居は全部で3つ
15:22
石段を上がり南側に回ると駅前のデッキのようなエスカレーター。
驚くことに溜池(外堀通り)から簡単に来れる。
これは余計だろう。
年取ってふうふう言いながらも自分の足で上がることに価値があるのではないか?
さらに下りエスカレーターも建設中である。
しかし、昔のまま、このスペースを普通の石垣と樹木にしておいた方が、どれだけ神社としての品格があるか。
永田町という都心ならなおさらだ。
社務所だろうか?
左に山王茶寮、つきじ植村がはいっている。
15:26
東の神門に回る。男坂を上ったところ。
日枝神社本殿は東向きだからこちらが正門か。
白山神社のように正門と本殿が90度ずれているところもあるけどね。
大田道灌が江戸城築城の際、川越の日枝神社を勧進したのを始まりとする。
家康入府のさい、城内紅葉山に遷座、秀忠による江戸城改築にあたり、城外の麹町隼町(いまの国立劇場付近)にうつり、庶民が参拝できるようになった。
さらに明暦の大火(1657年)で焼失後、1659年、家綱の時代に松平忠房の邸地を与えられ、現在地にきた。
江戸城の裏鬼門にあたる。
江戸切絵図
星ノ山日吉山王大権現社
山王大権現の周りには円乗院、成就院などが多くの寺院が並ぶ。
権現というように神仏混交時代であっても、大寺の周りにあるような子院、塔頭ではないだろう。本郷谷中のように、大火事の跡の都市計画によって集められた寺寺だろうか。
さて、この永田町の神社でも、山王、日枝、日吉の単語が出てくる。
全国にはこの3語の出てくる神社が3500もあるという。
すべて、比叡山東麓、坂本の日吉大社(一度行ったが写真を撮っていない)から生じた山王信仰からきている。
山王とは、この日吉大社で祀られる神であり、比叡山に鎮まる神を指したもので、大山咋神と大物主神(または大国主神)である。
では、日枝は何かというと、おそらく比叡のことではなかろうか。
斐伊川の出雲と関係するヒカワ神社が簸川、氷川神社と書くように、簡単な字を当てたと思われる。
上の切絵図にある日吉社が日枝神社になったのは、明治元年の神仏分離以降らしい。
日枝と書けば「ひえ」だが、日吉と書いて「ひえ」と読むもの、「ひよし」と読むもの両方ある。
ここでもコロナで並ぶ間隔を指示している。
スマホのシャッターを押してくれと頼まれた。
昔はよく頼み頼まれたものだが。
15:31
山車庫の前でなにやら関係者が集まっていた。
人の出入り口と比べて山車の口の大きいこと。
二葉葵は下賀茂神社、上賀茂神社の紋でもある。
帰宅後調べたら、例大祭である山王祭は、6月7~17日だが、今年は12日。しかしコロナで中止となったようである。
徳川時代、神田明神の神田祭とともに、江戸城内に神輿が入ることを許された。(入城は神田祭より多い)。家光以来、歴代の将軍が上覧拝礼する天下祭として盛大をきわめ、江戸三大祭の筆頭であった。(三大の残り1つは富岡八幡の深川祭)
山王祭は(隔年であるが)都心を総勢500人300mの祭礼行列が練り歩く。王朝装束の総代役員や氏子青年の御鳳輦二基・宮神輿一基・山車五基が、氏子区域を巡る。いまも皇居坂下門にて駐輦祭、宮司以下神社役員が神符の献上、参賀を行うらしい。再来年はみてみたいものだ。
15:33
狛犬の台座をみると南伝馬町のほうも氏子域であったことが分かる。
15:34
稲荷の鳥居を下りると、最初に上がった西の鳥居に戻った。
15:36
新しくできた神社の擁壁にそって北に上っていくと、高校が見えた。天下の日比谷高校である。
15:38
裏門は何回か見たが、こちらは初めて見た。
脇の通用門が開いていて誰もいなかったので少し入ってみた。
右側にグランドがある。
15:39
戦前の華族屋敷のように上り坂の向こうに建物があるのかな。
新坂(遅刻坂)上、薬業会館の出入り口のほうが校舎に近いからあちらが正門なのだろうか?
子どものころ、大中小ならわかるが、大高中小とは変だと思ったことがある。
明治政府は、小学校と大学の間に中学校をつくった。高等中学を全国に5つ、尋常中学を道府県に1つずつ作った。
1887年(明治20年)の東京府尋常中学校は本郷元町で開校。すぐに神田一橋、現学士会館あたりに移転した。
1900年 、二中、三中、四中の設立に際し、東京府第一中学校に改称。
ちなみに、このころの動きは
1894年、東京府尋常城北中学校(後に四中、戸山高校)
1900年、東京府第一中学校分校(後に三中、両国高校)
1901年、東京府第二中学校( 立川)明治はこの4中学であったが、
大正以降、第五中学以降は、現校名でいうと
5小石川、6新宿、7墨田川、8小山台
昭和は
9北園、10西、11江北、12千歳、13豊多摩、14石神井、15青山、16江戸川、17日本橋、と続く。戦時中の1943年で第23中(大森)である。
15:40
角を回ってもまだ校舎が見えない。
あまり奥に入ると言い訳できないので引き返した。
そうそう、なんで日比谷か?
ここは永田町である。
第一中学は、開校して3年後、1881年に神田から内幸町に移転、その後、内山下町、築地、1899に日比谷、1929に永田町に移転した。
戦後1950年、都立第一新制高等学校から校名を変更するにあたり、21年間の永田町よりも長かった内幸町以来の日比谷界隈のほうが長いから校名にしたと思われる。
しかし一橋大学、お茶の水大学とくらべ、地理的距離が中途半端に近いことがビミョーである。永田より日比谷のほうが苗字が少ないから優れてはいるが。
・・・・
日比谷高校前の道は日枝神社を囲んでいるから反対側は常に神社の崖である。
15:43
東の鳥居。こちらが正門だろう。
右の銀杏もいい感じ。
この日は新宿から四谷と歩き回り、さすがに私も足が棒のようになった。
このあたりは見たいものがいっぱいあったが、ちょうど南北線の駅があったので迷わず乗って帰宅した。
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