2021年5月2日日曜日

神田川3 左衛門橋から浅草橋ヒューリック、柳橋まで

4月25日、秋葉原にきた。
3週間前の4月4日に来たときは万世橋から神田川を西に遡り御茶ノ水橋まで行った。
そこで、今回は川を東に下って隅田川まで歩く。
2021‐04‐25 11:05
JRの東を通る歩行者専用の神田ふれあい橋をわたり、
柳森神社の狸を土手のような道から見下ろし、柳原通りを東に歩く。

11:11 和泉橋
この写真を撮った神田川南岸は、江戸時代、駿河台から低地におりたところにある筋違門から浅草門まで、洪水から町を守るため土手が築かれた(柳原土手)。土手の下まで町屋が並んだから人々は土手の上を歩いた。尾張屋版切絵図(安政6年)には柳の並木が一本一本丁寧に描いてある。

南の土手下には古着屋が並び、明治以降も古着屋、軍服などに使われる羅紗問屋などが並んだ。今でも岩本町、須田町は衣料の街だ。私のダンス燕尾服もこの近く、岩本町のカインズウェアで作ってもらった。

和泉橋を北に渡ると、JR秋葉原駅東口。
その前を通って、藤堂和泉守の上屋敷あとに建つ三井記念病院をみた。
(別ブログ)
かつて三井病院の東に存在した東京衛生試験所の跡地表示板をみて南下、再び神田川の南にわたる。道路は清洲橋通りというが、橋は美倉橋という。
隅田川に東西にかかる清洲橋からカーブしながら北上、ここ美倉橋まで来ている。
11:32 美倉橋と清洲橋通り
橋の南、神田美倉町はもと蔵の多い佐柄木町・本銀町・紺屋町からなり三倉町と呼ばれ、三が美になった。しかし幕末絵図にこの橋は「新シ橋」と書かれている。
昭和四年三月完成
震災後の復興計画でできたものだろう。

美倉橋の南から柳原通りを東へ。
11:38 左衛門橋 平成12年完成
橋の北詰に出羽鶴岡の庄内藩17万石・酒井左衛門尉(さえもんのじょう)の下屋敷があった。
酒井氏は三河以来の最古参の譜代筆頭、松平氏と親戚でもある。
江戸期の大名としては9家を数える(幕末には7家)。
室町時代に左衛門尉家と雅楽頭(うたのかみ)家の二家に分かれている。
前者は酒井氏忠(生年不明 - 1470)を初代とし、家康の時代には徳川四天王として知られた。宗家は江戸期を通じ庄内藩として、転封の多い譜代でありながら一度も国替えがなかった。
雅楽頭家からも江戸期に姫路15万石、若狭小浜11万石の大藩が生まれ、老中、大老を出している。戦前、姫路酒井伯爵家のお屋敷が曙町の西、文京区白山にあったことは以前書いた。
11:40 
橋を渡りながら東を見ると浅草橋と隅田川の首都高が見えた。
渡って神田川の北、すなわち川と総武線の間を東に歩いた。

歩きながら浅草橋ヒューリックホールを探した。
総武線の高架に沿ってすぐ南側にあったと思い、行ったり来たりしたが、ない。
ついにスマホで調べたら総武線の北側にあった。
11:48 浅草橋ヒューリックホール

あれ? 北側に建て替えたのだろうか?と思ったが、外観は記憶通り。

8年前の2013年10月20日、ここでダンス競技会があった。
組んでいたTさんとは練習中喧嘩ばかりして競技がいやになった。
カップル解消を告げたものの、既に申し込んでいたため出場した。
外階段を上がり中をのぞくと思い出した。
更衣室はいっぱいで、ホールの外のホワイエみたいなところで着替えたっけ。

私はもうダンスをやる気がなかったから、結果はさんざん。
ラテン21組中14位、スタンダード58組中57位。いずれも1回戦敗退。

終わってから浅草橋駅の近くでピザの店に入った。
彼女は美人で運動神経もよく、ダンスへの取り組みもまじめで私にはもったいないくらいの人だった。熱心に私のできないところを何度も指摘してくれる。確かにできないから反論しようがない。しかし音のタイミングとか重心バランスとか上手くいかないのはすべて私のせいだろうか? 一方的に言われ、毎回私は不機嫌になった。
練習終わると、ほとんど口を利かず駅の改札で別れる日が続いた。
組んで1年、競技会は半年だったが、もう無理だと思った。

解消を決めてからは二人とも穏やかになり、この日も当たり障りのない世間話でお茶を飲んだ。
11:53
その店を探しながらJR浅草橋駅まで歩いて来て分かった。
ヒューリックホールを総武線ガードの南と錯覚していた理由は、改札口が上空で道路を越えて北側にあり、駅を出てすぐ南の道を並行に歩いて行ったからである。あたかも線路の南にあったように感じたのだろう。

あの競技会の日は、早く敗退したからまだ時間がたっぷり。
これから会うことも少なくなるだろう。
雨が降っていたが浅草橋から柳橋のほうに歩いてみないか?と誘ったら、近くにダンスドレスの店があるらしく、買い物に行くというので別れた。
2021‐04‐25
浅草橋は秀月、吉徳大光、久月、五色、まるぎん、など人形の老舗が多い。

昨日(5月1日)妻が節句の兜を出した。
3人の子供たちが巣立ち二人だけになってから寂しいのだろうか。長らく奥にしまったままだったひな人形、兜などを、あたかも彼らの代わりのように飾るようになった。
今見たら息子がもらったのは久月(平安武久作)だった。

11:59 浅草橋

12:00 見附跡の石碑。
ふつう桝形門の見附は城側、つまり橋の内側(南)にあるはず。
江戸切絵図をみても橋の南詰にある。なぜ石柱をここに建てたか不明。

このあたり、ほぼ海のような墨田川に近いから船が多い。
屋形船・三浦屋の看板を見れば、「釣り船、潮干船、納涼船」とあった。
宴会は好きでないけど、いつか船に乗って潮干狩りには行ってみたいな。

橋の下流側には田中屋

田中屋の向こうは「あみ新」「あみ春」「井筒屋」「小松屋」と屋形船、釣り船を業とする船宿が並ぶ。
その先に柳橋と首都高(隅田川)がみえた。

12:02
浅草橋を渡ると大きな交差点。
千葉へ行く国道14号、日本橋室町へ行く江戸通り、清洲橋へ行く清杉通りが交わる。
江戸時代は火除け地としての意味もあったのだろう、浅草橋御門から東へ、柳橋、両国橋までつながる両国広小路もあわさり、ひろい空き地になっている。
(旧奥州・日光街道は江戸通りの南を並行してここ浅草橋南詰にきた。成田佐倉への道は、海岸線が今より北だったこともあり、北千住から分かれた)

12:04
浅草橋南詰から東に向かうと海の匂いがしてカモメ(写真)が低く飛んでいた。

ここからは昔の柳原土手通りのように神田川沿いを歩ける。
向こうは神田川最後の橋、柳橋。

12:06 柳橋
この橋の北詰、台東区側に花街があった。
柳新二橋と並び称された新橋の花街が明治にできたのに対し、こちらは江戸時代から栄えた。安政年間で芸妓150人という。二つの川の合流点、船でも来れたし景色も良かった。

昭和3年には、料理屋、待合あわせて62軒、芸妓366名の規模を誇り、芸妓の技芸も優れ、新橋演舞場や明治座に出演していた。しかし戦後は、隅田川護岸工事で景色が悪くなったこともあり衰退し、1999年料亭「いながき」が廃業、今残るのは亀清楼くらい。

橋の欄干には往時を偲び、かんざしが飾られている。
北詰にみえるレンガ色のビルに亀清楼(かめせいろう)の看板が出ていた。
伊藤博文も利用した老舗料亭である。

神田川最後の橋、柳橋から上流を見る。
万世橋、御茶ノ水橋、目白台下の江戸川橋、高田馬場から下落合、と様々な橋を想像する。

2021‐04‐25 12:12
スカイツリーをみていたら手前の鉄橋を総武線の電車が通った。

8年前の2013年10月、ひとり傘を差して同じ景色を見ていた。
私は競技ダンスをやめ、彼女は新しいパートナーを探すだろう。
上手くいかなかったのは練習ばかり熱心にやりすぎたのではないか? 
彼女がリーダーを見つけるまで軽い練習相手になったり、たまにはパーティや散歩に誘ったりしようかな。ここから隅田川の遊歩道を浅草まで一緒に歩いても面白いな、と雨の川面をみていた。

しかし彼女は11月からさっさと新しい人と練習を始め、ここを二人で歩くことはなかった。


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