2021年5月25日火曜日

麻布の古川から韓国中央会館、伊皿子坂まで

 5月16日、六本木アマンドの横から芋洗坂をおり、六本木ヒルズを見てから、環状三号線を緩やかに降りて、元麻布ヒルズ、善福寺を訪ねた。(別ブログ)

善福寺を出て南に歩くとすぐ仙台坂の下。
西に坂を上がっていけば左側に駐日韓国大使館がある。その一帯は坂名にもなった伊達家62万石の下屋敷跡。さらに西にいけば有栖川公園や麻布学園などがあるはず。

仙台坂の通りを東に降りていくと麻布通り出る。通りの東に古川が並行して流れる。
流れはほとんどなく、上を首都高が通っている。

2021‐05‐16 11:29
二之橋
この東詰めに丹波柏原・織田家2万石の上屋敷があった。
信長次男、信雄の五男の家系。
四男の血筋、天童藩の家の墓は近所の高林寺にあることは以前書いた。

さて、古川は原宿あたりから発する渋谷川の下流の別名である。
と思っていたら少し違った。
渋谷川は恵比寿駅の近くで東へ向きを変え、広尾辺り(別ブログ)をへて天現寺橋の下で笄川(こうがいがわ)と合流する。ここから下流を古川という。江戸切絵図では新堀川とある。
笄川は青山霊園の東から有栖川宮公園の西の谷を流れていたが、いまや完全に暗渠になってしまったから、渋谷川がいつのまにか古川に変わったかのように見えたのである。
この川は東に流れ、古川橋で北に90度曲がる。
そして地下鉄麻布十番駅近くの一之橋辺りで再び東に90度曲がり、増上寺芝公園の南を通って海に出る。

さて六本木麻布を歩いて1時間半、ここらで終えて二之橋からどうやって帰るか?
一番近い麻布十番駅はつまらない。
古川に沿って浜松町まで行くのも今一つ。
まだ歩いたことのない南の高輪駅まで行くことにした。
しばらく麻布通りを南下する。
11:34 韓国中央会館
写真手前は韓国動乱参戦記念碑。
韓国動乱とは朝鮮戦争のこと。下の参戦史はハングルで書いてあるから読めない。
(戦史や戦闘経過ではなく「参戦史」とは何だろう?)

左の大きな忠魂碑の左右には仁川上陸作戦戦死者と長津湖戦闘戦死者の碑が立っている。

それにしても日本人なら表通りにこのようなものは建てないだろう。
国民性の違いがよくわかる。
上野公園の王仁博士碑を思い出した。

仁川(インチョン)と長津湖(ちょうしんこ)について書いておく。
朝鮮戦争は1950年6月25日に勃発した。
毛沢東とスターリンの支持を取り付けた北朝鮮軍が突如砲撃を開始、以来南進を続け、急遽編成された国連軍はプサンまで追い詰められた。
安保理決議を要するのに国連軍というのは、当時中国の代表が蒋介石政府で、またソ連は前年から国連を欠席していたからである。スターリンは欧州でソ連の影響力を強めるため、アメリカの注意を朝鮮に向けさせる腹積もりだったという。

国連軍の仁川電撃上陸は同年9月15日、北朝鮮軍の背後をつき、ソウルを奪還した。
その後国連軍は北上したが、11月27日、中朝国境付近の長津湖(ちょうしんこ)で初めて中国人民志願軍と交戦、激戦の末12月11日撤退を余儀なくされた。

・・・・
このビルには韓国領事館が入っていて、ビザの発行もしているようだ。
また在日韓人歴史資料館も併設されている。
慰安婦や徴用工についても展示されているのだろうか。
この慰霊碑群でビビッて入る気が起きなかった。
もっとも日、月は休館。

うるさい右翼の車がきて通り過ぎた。
ここをターゲットにしているわけではなかったが、前に機動隊のバスが2台、常駐のように止まっていた。

麻布通りは、六本木二丁目交差点(アークヒルズ)から南北にほぼ直線で古川橋に至る。
都道415号線である。この辺りは麻布のイメージはないが、江戸時代は橋の南側も麻布といったから麻布通りの名は相応しい。

古川橋から西へ、古川に沿う大きな通りは明治通り。王子や池袋でなじみの道はここが起点と初めて知った。
415号線はそのまま橋を渡り伊皿子坂を下って泉岳寺までいく。
11:42 古川橋
古川は古川橋で90度曲がる。首都高も同じように曲がっていく。
下を見て驚いた。
きれいな水がさらさら流れ、渓谷のように砂利もある。
都心でこんな川があるとは

古川橋は下流から一之橋、二之橋ときて三之橋の次だが、四之橋はここではなく、上流(西)の新古川橋のさらに西にある。確かに江戸切絵図では四之橋まで橋がない。

古川から離れ、まっすぐ歩いていくと魚籃坂下交差点で国道1号線、桜田通りと交わる。
右折してずっと行けば白金高輪を経て五反田駅。
11:45 魚籃坂下
国道1号線を渡ると登り坂。
魚籃とは魚を入れるびくのこと。
11:51 魚籃寺
古川沿いに漁師が住んでいた故の坂名かと思ったら魚籃寺があった。
本尊の魚籃観世音菩薩から寺名ができ、それが坂の名前になったようだ。
魚籃坂は伊皿子坂と坂上を共有する。
11:55 伊皿子坂上
魚籃坂の上までくると歯科医学教育発祥の地という碑あり。
読めば明治23年(1890年)、慶應義塾からアメリカ留学した高山紀齋がここに日本初の歯学校である高山歯科医学院を創立したという。
10年後の1900年、神田小川町に移転、東京歯科医学院に改称。
翌年、現在地の神田三崎町に移転、
1946年 東京歯科大学(旧制)として認可された。

この交差点を右(南)にいくと旧高松宮邸。宮邸含む一帯はもと肥後細川家下屋敷。
高松宮は大正天皇の第三皇子、慶喜孫娘、徳川喜久子と結婚、子はなく宣仁親王が1987年、喜久子妃が2004年亡くなって廃絶した。
いま上皇上皇后が赤坂に仙洞御所ができるまで、仮住まいされているらしいが見に行かなかった。

伊皿子坂とは変な名前だ。
1600年頃に、来日した明人が当地に帰化し、エビスをもじって自らを「伊皿子」(インベイス)と名乗り、それが地名になったというが、ほかの説もある。

坂を曲がりながら降りると泉岳寺の前に出た。

12:00 泉岳寺
47年前、1974年以来である。
高校3年の11月2日、長野から上京、きょろきょろしながら上野、品川駅で乗り換え、初めて地下鉄に乗った。赤穂浪士、忠臣蔵はテレビドラマで言葉だけ聞いていても、泉岳寺など聞いたこともなかった。なぜ来たか、後日、書く。
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