2021年5月28日金曜日

泉岳寺とNKK日本鋼管高輪クラブ

5月16日、六本木、元麻布ヒルズ、善福寺を訪ね、古川に沿って麻布通りを南下、国道1号線(桜田通り)をこえて魚籃坂を上がると伊皿子坂の頂上。(別ブログ)

伊皿子坂を曲がりながら海側に降りると泉岳寺の前に出た。
六本木アマンドから普通に歩けば3.2㎞、40分だが、あちこち立ち寄り、2時間経っていた。

2021‐05‐16 12:00 泉岳寺
ここは47年前、1974年に来たことがある。
高校3年の11月2日、剣道班で一緒だった高倉仁史、関谷幸雄氏と3人で上京した。
御茶ノ水の駿台予備校で模試を受けるためだった。

長野始発 10:04 の急行信州3号の硬いボックスに3人で座った。
家の物置からリンゴ3個持ってきたので、上田だか小諸だかで取り出し、もちろん皮もむかず洗いもせず食べ始めた。やがて食べ終わったが、することがなかったから髙倉氏は残った芯をさらに食べ続けた。3人でどのくらいきれいに食べるか競争になり、芯の中心まで迫ったあとは、種の周りに歯を立てて慎重に削り、舌と歯による彫刻というか、断面がやせた5角形の星形になるまでしゃぶり続け、種とその薄い被殻だけにした。
長野駅を出て4時間、眠ったり勉強したりして結局駅弁を買わずに終点上野についた。
降りるとき、高倉が乗客の忘れたみかんをみつけた。赤いネットに入り、肘かけに結んであった。狭い通路は後ろからどんどん乗客が来るから彼は焦り、ネットごと引きちぎった。ちょうど3個入っていた。

上野から電車に乗り品川、さらに地下鉄で1駅、ここ泉岳寺に来た。
この日の宿は日本鋼管高輪クラブというところだった。
場所は泉岳寺の中門の前を左折してすぐ。

47年ぶりに行ってみた。

2021‐05‐16 12:03
中門前から公園、三浦工業高輪ビル、コーポ高輪、高輪ハイマンションと順に並ぶ。
はて、どこだっただろう?

1995年
門前から、公園、ホテルNKKエース高輪、コーポ高輪(マンション)

こうして見比べると日本鋼管高輪クラブは、NKKエース高輪ホテルを経て三浦工業になったようである。もちろん建て替えられている。
日本鋼管は2003年川崎製鉄と合併し、JFEスチールとなり、粗鋼生産量では日本製鉄に次ぎ国内2位、世界では12位。(サッカーのJEFはJR東日本と古河電工)

このNKK高輪クラブは高倉の父上が手配してくださった。
我々は宿泊代を払う必要ないという。
当時、日本経済を引っ張った重厚長大企業、日本鋼管の研修施設か福利厚生施設のようだった。部屋はビジネスホテルのよう。きれいなベッドも一人で泊まることも初めてだった。

あのとき目の前の泉岳寺に入っただろうか?
12:04 泉岳寺中門
青松寺・総泉寺とともに曹洞宗 江戸三箇寺の1つ。

12:04
義士饅頭くらいならわかるが討ち入りそばとは勇ましい。
コロナで客も少ないからか入り口も半分しか空いていない。
娯楽の少なかった江戸時代は人形浄瑠璃や歌舞伎の人気演目であったが、今の若い人は忠臣蔵をどのくらい知っているだろう。

12:05
山門入って右に衆寮がある。
公式サイトに「泉岳寺会下衆寮 大衆募集」と、僧となる学生を募集していた。
駒澤大学(旧曹洞宗大学)は、本駒込吉祥寺の旃檀林学寮を中心に青松寺の獅子窟学寮とここの学寮などが一緒になってできた。

こうしてみれば広い敷地だが、長野からきて泉岳寺を初めて見たときは、都会の真ん中で土の境内もなさそうなお寺はずいぶん小さく見えた。
あのとき境内を歩いただろうか? 
まったく記憶にないが、寺社にも赤穂浪士にも全く興味なかったことは確か。
12:06
初めて見る境内は整備されすぎで風情がない。
できたばかりのような義士記念館は入場料550円という。

12:06
浅野内匠頭、義士たちのお墓だけでも見ようかと思ったが、こちらは拝観料300円。
お金がないわけではないが、そこまで興味はないので引き返した。
もともと私の寺社拝観時間は極めて短い。

12:09 
山門前の大石内蔵助良雄像だけ写真を撮り、寺を後にした。

松の廊下は元禄14年3月14日 (旧暦)、
翌年も年の瀬、元禄15年12月14日義士たちは吉良の首を、浅野家菩提寺ここ泉岳寺にあった主君、内匠頭の墓前に供えた。その後、大名4家に分散して預けられるが、47人のうち、大石内蔵助ら17人は、泉岳寺すぐ裏の細川家で年を越し、2月4日、切腹した。その肥後細川家下屋敷は高松宮邸などを経ていま高松中学、都営アパート、仮仙洞御所になっている。

1974年にもどる。
高輪クラブに荷を置くと、まだ明るかったので私は一人で外に出た。
第一京浜を歩いていくと、品川駅に着いて、パチンコ屋が目に入った。
今の私から考えると想像できないだろうが、高校生のころパチンコに熱中していた。
信州中野のキングと岩船のボウリング場跡にできたパチンコ屋が主戦場。1回数百円までと決めていたから1粒ずつ慎重に心を込めて打ち、なくなると時には床に落ちている玉を拾ってまで続けた。きちんと収支をカレンダーの裏紙につけていたが、黒字にはならなかった。同じ中野の塩野谷進、玉木一徳や古幡優一も仲間だった。

品川では東京での腕試しだったが負けた。

泉岳寺、NKK高輪クラブに帰り、夕食。
我々には場違いの、ホテルの高級レストランのようなところで、ウェイターに丁寧に案内された。高倉は父上から「お金は払わなくてもいい。ただし、あまり高いものは頼まないように」と言われていたので3人とも一番安いカツ丼にした。上品な器で出てきたが、真っ白なテーブルクロスに似合わなかった。

2021‐05‐16 12:12
47年ぶりに泉岳寺のゆるい坂を下りると第一京浜の向こうに新しく高輪ゲートウェイ駅ができていた。左の角に都営地下鉄・泉岳寺。右に行けば1kmほどで品川駅。
昔はもっと線路が近かった気がする。

1974年、翌朝は曇っていた。
なぜか朝食を食べずに3人で出発、私が品川駅は近いぞ、と教えて3人で歩いた。秋葉原のミルクスタンドでパンを食べ、お茶の水にいった。

わざわざ上京した理由は、都会や電車に慣れること。
知らない東京の高校生に一人交じって模試を受け、緊張感を味わい、度胸をつけることであった。ところが3人とも同じ日に申し込んだため、席が並んでしまっていた。


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