4月25日、秋葉原から神田川を東に下り、隅田川との合流点まで歩いた。
(別ブログ)
2021‐04‐25
神田川最後の橋、柳橋のたもとから隅田川上流を見る。
総武線が通る鉄橋(隅田川橋梁)の向こうにスカイツリー。
写真左の一角、合流点の北西側こそ、かつて栄えた柳橋の花街があったところである。
12:09
柳橋の中ほどから南のほうに目を転ずれば、両国橋。
上を通る国道14号は、総武線と並行に走り、錦糸町、亀戸と駅前を通過、千葉市まで行く。
両国橋は名前の通り武蔵と上総の間にかけられたもの。
昔は利根川も荒川も、すなわち関東地方の大部分の水が東京湾に流れ込んでいたから、往来は難儀で国境だったというのも分かる。しかし家康入府後、治水とともに江戸市街地が東に延び、国境は1686年に変更された。
意外と遅い。両国橋はそれ以前にできている。
幕府は防御上、隅田川には千住大橋しかかけさせなかった。しかし明暦大火(1657)で市民が川に追い詰められて多数焼け死んだこともあり、1659年(1661という説もあり)に二番目の橋として架けられた。その結果、本所深川の発展も加速した。
当初は大橋と言われたが両国橋の俗称もあり、1693年、三番目の橋として新大橋ができてから両国橋が正式名になった。
大切な橋であるから火事から守るため橋の西詰に広く火除け地をつくった。浅草御門まで広がる両国広小路である。
ちなみに両国というと今、東岸を差すが、昔は西岸の江戸側が両国で、東岸は向両国(むこうりょうごく)あるいは東両国といった。神田川柳橋のこちらが柳原、台東区側を向柳原といったのも同様。しかし国鉄の駅名、国技館など次第に両国が川向うを差すようになり、昭和40年ころの住居表示で、東両国が両国、日本橋両国が東日本橋になった。
木造の橋は何度も架け替えられたが、1897年(明治30)8月の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落、死傷者数十名、これを機に、鉄橋へと架け替えが決まり、1904年(明治37)11月竣工。
この橋は関東大震災でも大きな損傷無く生き残ったが、他の隅田川橋梁群の復旧工事に合わせて、1932年、今の橋に架け替えられた。
隅田川テラスという遊歩道をすすみ、両国橋をくぐると2本の高速道路がみえる。
首都高6号(向島線)と7号(小松川線)が川を渡る橋は、両国大橋というらしい。
歩行者は通れない。
12:19
スペインバルセロナでよく見るようなタイルを貼った壁。
なぜかここだけ。
首都高7号線が曲がるところに水門がある。
12:21 堅川水門
幕府は東方面、低湿地の本所の開発にあたり、縦横に排水路を掘削、掘った土は陸地のかさ上げに使った。
1659年に完成した竪川(たてかわ)の竪は江戸城に向かって縦という意味。
だから南北の水路は横、すなわち横十間川、大横川と名付けられた。
当初は排水が目的だったが、ちょうど神田川が付け替えで対岸にきたこともあり、すでに南に完成していた東西運河の小名木川(おなぎがわ)の補助的な役割も担って水運にも利用された。
首都高7号線はこの上を東に走る。
隅田川遊歩道の陸地側のかべには扉のようなものがある。
倉庫かと思ったが、取っ手もないし扉として開かない。これは何か?
12:24
首都高が西岸に渡ったところは浜町公園があるはず。
遊歩道から離れ公園に上がることにする。その前に南の新大橋をみる。
12:28 新大橋
先にも書いたが、隅田川3番目の橋として元禄6年、1694年完成。
当時すぐ上の両国橋が大橋と言われていたのでこの名になる。
破損、流出で何度も架け替えられたが、1912年(明治45)に鉄橋となった。
関東大震災では多くの橋が荷物を持った避難民で渋滞し、荷物に火がついて橋が焼け落ちた。しかしここは警官らが荷物を捨てさせ燃えなかったという。
老朽化で1977年、今の橋に架け替えられた。
斜張橋の支柱が一つだけのシンプルなデザイン。
ちなみに歌川広重の有名な絵、見えない雨を黒い線で表現し西洋の画家にも影響を与えた「大はしあたけの夕立」はこの橋である。何度も架け替えられまったく変わってしまった今の形では何も浮かんでこない。
新大橋のすぐ下流側は清洲橋だが、前回渡った。
遊歩道から浜町公園に上がる。
隅田公園、錦糸公園とともに関東大震災の復興計画で作られた、中央区最大の公園。
肥後細川家の下屋敷、明治後は細川家の邸宅があったらしい。
ここは以前来たことがある。
このすぐ近く、日本橋浜町2-33-4 に財団法人日本ボールルームダンス連盟(JBDF)の事務局がある。
2012‐02‐12
2012‐02‐12
競技会に出始めた2004年ころ、クラスはA級からB,C,D,E,E,G,N級とあった。ライバルたちはD級あたりにいたが私はN(Novice)級から順に上がっていかなくてはならない。日曜日にある競技会で上位10%に入れば次の競技会で上のクラスに出場できる。
何回か、その次の競技会が二週間後の日曜にある場合があった。すなわち締め切り日が、昇級した当日である。申し込みハガキをポストに入れたのでは間に合わないから、競技会が終わった足でハガキをもってここに来て、閉まったドアの下に差し込んだことがある。
2004年のほかに2012年など、二、三度来て、その帰り、浜町公園にも来たのである。
周辺をぶらぶらして明治座を初めて見たのもこのときだった。
2021‐04‐25 12:33 明治座
コロナは依然と猛威をふるい、この日は何の公演だろう?
当日のチケットを譲ってほしいと立っている熱心なファンがいた。
明治座の前身は幕末1850年頃、両国広小路で三人兄弟の芝居「喜昇座」として始まった。
当時は寺社の境内で小屋掛けするような宮地芝居だった。
1873(明治6年)広小路での興行が禁止され、 日本橋久松町河岸に移転、東京十座のひとつとなる。その後、経営者も名称も何度か変わり、1893年(明治26)に初代市川左團次が千歳座を買収して、これを明治座と改称した。大正6年、経営権が松竹に移るも、戦前、日本橋の明治座といえば、銀座の歌舞伎座、新橋演舞場、お堀端の帝劇とならぶ、日本を代表する劇場だった。
震災で焼失後、浜町移転は1928(昭和3)。
空襲で再び消失するも戦後松竹から独立、今の浜町センタービルに入ったのは1993年である。
繁華街から離れたところにポツンと場違いのようにあるから、人通りは少ない。
明治座に立ち止まることなく、この日の出発点、秋葉原駅まで向かう。
歩いている途中、東京アフロディテがあった。
2021‐04‐25 東京アフロディテ
2年前の2019年7月、ここで息子が結婚式をした。
あの日は家族が着付けで先に家を出て、私は一人のんびり地下鉄小伝馬町だったか馬喰町だったか初めて降りたのだが、地上に出たら目印もなく東西南北もほとんど同じ風景で、どちらに行ったらいいか全く分からず焦った。時間ぴったりに家を出たため、迷って遅れ皆をハラハラさせた。
この日も秋葉原まで途中に坂道も社寺も公園もなく平坦で変化のない道だった。
しかし、のんびり歩いたからか、まったく迷わなかった。
それにしても息子たちはなぜここを選んだか不明。
もう二度と来ることはないと思ったが、まさか歩いていて出くわすとは。
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