2021年8月13日金曜日

千住製絨所とロッテ東京球場跡、荒川区役所

8月5日、運転免許更新のため、台東区の下谷警察署にきた。

自転車だったので終了後、そばを通る国道4号(昭和通り、日光街道)を千住のほうに走ってみた。

以前から東京球場の跡地に行ってみたかったから。

1960年代に敷地は狭いが最新の球場として作られたものの、経営悪化して解体された。長野にいた子供のころ、ロッテ東京球場という言葉に記憶はある。

途中、荒川区の路地に少し入ったり、国道4号沿いに彰義隊墓地のある円通寺に寄ったりした。
(別ブログ)

円通寺を過ぎると、すぐ千住間道という広い道があり、そこを左折する。
名前と反対に新しそうな道を行くと右に都営アパートと警察署。
11:06 南千住警察署
都営南千住6丁目アパート、警察署、荒川総合スポーツセンターと並ぶ。

この一帯こそ、東京球場の跡地である。

ここは明治12年(1879)、官営の千住製絨所が作られた。
戦後は民間に払い下げられ、大和毛織の生地工場となったが、1950年代に入ると業績が悪化。経営難から1960年に閉鎖された。

当時は読売ジャイアンツ、国鉄スワローズ、毎日大映(大毎)オリオンズの3球団が後楽園球場を本拠地としていたため、日程の過密化が常態化していた。
(ちなみに1952年は読売ジャイアンツ、国鉄スワローズ、毎日オリオンズ、大映スターズ、東急フライヤーズの5球団が後楽園を本拠地にした。スワローズが神宮を本拠地にしたのは1964年である)

当時の大映は映画の斜陽化などで経営難に陥りつつあったが、大毎のオーナーだった永田雅一(大映社長)が私財も投じて南千住のここに新球場を建設、1962年5月に竣工した。

新しい球場だから今となっては当たり前となった球場設備もここが初めてというものが多かった。当時の南千住は平屋、二階建ての住宅ばかりでこつ然と現れ、照明の美しさから光の球場と呼ばれた。しかし試合終了後照明を消すと集まっていた大量の夜蛾が一斉に周辺の民家になだれ込んだという。
国土地理院地図 1975年1月
左上に下水処理場、その下が荒川区役所、左下が常磐線、右上が隅田川。
右下が円通寺と国道4号

永田オーナーは1964年から企業名を排した東京オリオンズと球団名を変えた。この球団名は覚えている。長野県で巨人の長嶋を応援していた小学生のころである。当時は巨人のV9時代、パリーグは人気がなく、とくにオリオンズは下位を低迷していたから東京球場は閑古鳥が鳴いていた。1967年の最終戦は観客200人だった。

1969年ロッテがスポンサーとして参加、ロッテオリオンズとなった。私が中学1年のときだ。
当時私は黒い霧事件で池永、与田ら主力多数が処分(4人が永久追放、2人が1年出場停止)され、東尾、基、若菜、東田、竹之内ら若手が頑張っていた西鉄を応援していたから、パリーグの球場として余計記憶が残っているのかもしれない。

山本達郎氏は開成に入った1970年、西日暮里駅がなかったから田端からの尾根道を歩いたのだが、東京球場が良く見え、ナイターの時はきれいだったという。

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1971年、経営悪化した大映は球団をロッテに譲渡、子会社の東京球場は1972年小佐野賢治の国際興業の手に移った。小佐野は球場をロッテに買い取るように求めたが、ロッテが拒否、東京球場はこの年限りで閉鎖された。(ロッテは1973年から仙台に行き、78年から川崎を本拠地とした)

東京球場は1973年に竹中工務店が取得、しばらく存在したが、1977年東京都が買い取り解体した。1977年なら私はここからそれほど離れていない本駒込に住んでいた。

跡地は大部分が荒川総合スポーツセンター(とグランド)、残りは都営アパート、警察署となっている。
11:09
東京球場の名残を探そうと周囲を走ると銅像あり。
球場を作った永田オーナーではなく、井上省三。
ドイツで毛織物の技術を学び、明治12年、官営の千住製絨所の初代所長となった。
ここは東京球場以前に日本の羊毛工業発祥の地であった。

井上は明治19年、41歳の若さで亡くなり、像は1936年没後50年を記念して建てられた。
像の両側に羊の頭があった。被服生地の工場跡に動物の頭とは。
今ならこういうデザインはないだろう。
11:12
永田オーナー像は無理でも、何か東京球場の遺構がないかと自転車で周囲を走る。

11:13
永田像以外の像はいっぱいあった。
荒川区は銅像が好きである。西日暮里、日暮里駅周辺にも多い。
あきらめて帰る。

千住間道は明治通りに合流し、すぐ荒川公園がある。
11:18
荒川区はイメージと違って緑地が多い気がする。
早くから人家があった文京区、台東区と違い、田んぼが広がっていたから工場が多く建てられ、その工場跡地がこうした公園や公共施設になったのだろう。

公園の奥に区役所があった。

緩やかな弧を描き、公園の一部になっている。
地下が駐輪場。
文京区の区役所より優しい感じ。

せっかくだから入ってみよう。
用がないと入れないから、先月閉鎖されたダンス練習場ファーストプレイスと賃貸人である荒川区の関係、現状について聞くことにした。
11:24 区役所4階
4階の総務企画課に行くと、丁寧に同じフロアの経理課に連れて行って下さった。
係の人は裁判で不払い家賃と原状回復について係争中であることを教えてくれた。

地理院地図 1963年6月

60年代、荒川区役所と荒川公園の敷地は工場である。
日本の多くの緑地が箱ものビルになっていく中で、緑を増やす荒川区はうらやましい。


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