2021年11月13日土曜日

渋谷公園通り、コロンバンとポポロ広場

原宿駅、代々木公園から渋谷に向かって歩いてきた。(別ブログ)
たぶん、ほぼ40年ぶり。
しかし、懐かしい代々木体育館の石畳は、オリンピック終了後の復旧工事のため歩けなかった。NHKも大規模改修でフェンスに囲まれていた。

東京地図出版 1995

NHKと渋谷公会堂の間の交差点に立つと、やはりこちらも景色が変わっていた。
かつて、渋谷公会堂の向かいに洋菓子コロンバンの喫茶、レストランがあった。

1977年ころ、静かな笑顔の同級生、Tさんに惹かれ一度誘った。
当時、私が最も土地勘のある渋谷に。
何と言って電話したのか覚えていない。彼女は突然で驚いたことだろう。しかし優しい人だった。断ったら悪いと思ったのか付き合ってくれた。けれど、元々おとなしい方で私に好意があるわけでもない。話はそれほど弾まず、この回だけだった。
どこを歩いたのか、コロンバンでは何を食べたか、お茶だけだったのか記憶にない。
店はガラス張りで公園通りの交差点やNHKのほうがよく見えた。
夜だった。

2021‐11‐03 12:08
右、コロンバンのビル
ビルは建て替えられ、景色は一変した。
いまはコンビニ、デイリーヤマザキが入っていて、公園通りを歩くカップルは誰も目を向けない。

渋谷駅から代々木公園にいたる公園通りは、おしゃれな街だと思う。
ずっと地味な一生だった私にも、たまに歩く時代があった。

渋谷公会堂はすっかり変わった。
昔は通りに面して広場があり、建物は西側にあった。
1964年に建てられ、重量挙げの会場になったそうだ。なるほど、重量挙げほど、ステージのあるコンサート会場が相応しいスポーツはない。
(もっともコンサートホールに改装したのは五輪終了後)

老朽化のため2016年に壊され、2019年、公園通りに接して建て替えられた。
公会堂といえば、ふるさと信州中野は60軒ほどの各部落に一つずつあったが、この言葉は田舎と都会で実態が大きく違う。

東横線綱島の叔母は、テレビの公開中継が好きで、自分の幼い娘たちを連れて渋谷公会堂によく来た。1975年か76年、私も2、3回、ドリフターズの全員集合に誘ってもらった。キャンディーズが全盛時代のころである。
NHKホールの記憶もある。ドリフターズが出るはずはないから、小さな従妹たちが好きな音楽番組の公開録画だったのだろうか。
奥、渋谷区役所、右、公会堂
このあたりは代々木練兵場の南端、終戦までは衛戍監獄(陸軍刑務所)、その後はずっとワシントンハイツの敷地だった。日本に返還されたあと、渋谷区役所も1964年、公会堂と同時に竣工した。しかし、老朽化と震災対策で2016年から2019年にかけて公園通りから奥まったところに建て替えられた。

その奥には神南小学校があるが、1997年まで大向小学校だった。この小学校は元東急本店の場所にあったが、ワシントンハイツが返還された後、1964年この地に移ってきた。そして大和田小学校、渋谷小学校と統合され、神南小学校と名前を変えている。

そうだ、渋谷区役所と言えば、長女夫婦は結婚したとき本籍を縁もゆかりもない渋谷区にしたらしい。彼らは埼玉で新婚生活を始めたが、すぐ引っ越して今千葉にいる。

公園通りを下っていく。
12:13
渋谷区役所に入る道を越えて公会堂の並び、右の建物は懐かしい。
1階は少し高くなっていて昔から喫茶店、カフェレストランが入っていた。
一、二度くらいお茶を飲んだと思う。
今はモスバーガーなど入っている。
調べたら渋谷ホームズというマンション。
1975年9月竣工というから、私が大学1年の頃である。

左、パークウェイスクエア3 右、東武ホテル

通りの向こう、パークウェイスクウェア3の場所にはたばこと塩の博物館があった。
2、3回入ったと思う。
最後に入ったのは2007年11月。渋谷駅東口の薬学会館でのファルマシア委員会があり、その前の時間つぶしだった。タバコや岩塩の常設展示物のほかに、看板や円柱ポストなど昭和の街並みを再現した企画展をしていた。
この博物館は老朽化と保管スペース不足により2013年閉館し、2015年墨田区に新築移転した。
2016年錦糸町からスカイツリーまで歩いている途中、偶然、新生たばこと塩の博物館に出くわした。たった100円だが有料になっていたので入らなかった。
無料だと、とくに見たくなくても入る。用がなくても時間つぶしに入ると意外と面白かったりする。しかし目的地が他にあると、有料ならあえて寄り道はしないものだ。

東武ホテルの南、交差点の手前は、ヒューリックビル。
昔ここはパルコパートIIだった。
交差点の向こう、白いビルが今も残るパルコパートI。

今は駅ビルや再開発モールなどでファッションビルがいくつもでき、パルコは忘れられたように、すっかりくすんでしまった。しかし渋谷パルコができた1973年以降、70年代、80年代は、それはそれはおしゃれな店だった。しかし私は上階のレストランに入ったくらいで(猪狩康孝氏と2x2の食事会)、ファッションには縁がなく、店内を歩いたこともない。

パルコの手前の交差点を西にいけば(オルガン坂というらしい)、東急ハンズの裏辺りに壁の穴(スパゲティ)があった。当時スパゲッティは、イタリアレストランではなく喫茶店で食べることが多く、どこもミートソースとナポリタンしかなかった。しかしここはタラコとかキノコとかイカ墨スパゲティとかで有名だった。

その手前には坂のため半地下のような入り口のファクトリーという店があり、喫茶店だけれどもデートの食事にも使えた。

ちなみに、今、開業時期を調べると
1973 パルコパートI
1974 東武ホテル
1975 渋谷ホームズ(1階、地階のカフェレストランなど)
1977 パルコパートII
1978 東急ハンズ
と、ちょうど公園通りの人通りが大きく増えた時期に立ち会ったことになる。

12:18
渋谷区勤労福祉会館
オルガン坂とは反対に東へ行く道はフィンガーアベニューというらしい。
1970年代にパルコ(公園の意味)ができて地味だった区役所通りを公園通りと改称したのはいいが、今やイエローストリートだのコルネット通り、ファイヤー通りだの、年寄りにはちょっと恥ずかしい。もっとも通りに名前というのは必要だから、若者がこう命名するのは仕方がないか。

スーパースポーツゼビオXebio
ビルの外観からeスポーツを含めた娯楽施設かと思ったらスポーツ用品店のようだ。
向こうに丸井が見えた。

丸井の南隣(西武B館の向かい辺り)は大盛堂書店だった。
今はスクランブル交差点のセンター街入り口に小さな店舗で看板だけ目立っているが、かつては本のデパートと言われ、地下1階、地上10階の大型書店だった。ふだんは寮から渋谷駅まで歩く途中にあった旭屋書店に寄っていたが、大盛堂で買った専門書も何冊か持っているはず。

このあたり右側に電話ボックスがあり、あるときロンドンにあるようなおしゃれな箱に変わった記憶がある。

そうだ、通りの左側(上の写真、ゼビオの向かいあたり)にポポロ広場というパブレストランがあった。
1978年ころ東京薬科大糸川研と研究室対抗の野球をして、打ち上げで原島智子さんというきれいな女学生と話をした。電話番号を聞いて後日ここに来た。以前合コンに使ってボトルが入っていたからだ。彼女は東京育ちのスマートな人だった。一方こちらは、なかなかあか抜けない自分に自信がなくて、気の利いた会話もできず、さえない男だったと思う。結局それっきりだった。

こうして思い出すとガールフレンドを求める気持ちは強くても、出会った後、たいてい場所を改めて一回会っただけで終わっている。初めてのデートで相手の心をつかむほど私には魅力がなかった。また、二回目を誘う度胸もなかった。
これが、同じ研究室とか同じ職場とか、必要に迫られて毎日顔を合わせるような女性だと、何回かチャンスが生まれる。

池田さんが研究室に来たのは、この1年後のことだった。
その後、渋谷公園通りを歩く必要もなくなった。




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