2023年3月21日火曜日

手賀沼と別荘、志賀直哉邸跡

 3月20日、千葉県立沼南高校に用事があり、常磐線の我孫子駅に初めて降りた。

2023‐03‐20 7:58
南口でバスを待つ間、目の前に周辺観光案内という地図があった。見れば手賀沼の手前(北側)に文化人ゆかりの地がけっこうある。以前から知っていたが、今までわざわざ行く気もなかった。
駅前地図の隣には彼らの集合写真もパネルになっていた。

「我孫子市ゆかりの文化人」
写真は大正6年、武者小路実篤邸にて、柳宗悦、志賀直哉の白樺派3人。
他に柳田国男、岡田武松、嘉納治五郎、杉村楚人冠、バーナート・リーチも紹介されていた。彼らに格別興味はなかったが、天気もいいので用事がすんだら手賀沼周辺を歩いてみようと決める。

用事は10時に終わった。
バスの本数が少ないので教頭先生が駅まで送ってくれるという。手賀沼が見たいので、沼にかかる手賀大橋のたもと、道の駅で降ろしてもらった。

中に入るとゆったりとしたスペースに、柏・安孫子周辺でとれたものだろうか、地元野菜が売っていた。スーパーと比べて格段に安いということもなく、また家には食べきれないほど自家製野菜があるので何も買わずに外に出た。

10:18
道の駅の外の広場から沼を見る。
小さくイトーヨーカ堂のマークが見えるところが我孫子駅らしい。
あそこまで歩こう。

道の駅周辺は高速道路かバイパスのような新しい道で、橋も新しいものと思ったら1964年完成という。
それまで、沼は川のように細長いから両岸の行き来は渡し船に頼っていた。
1944年11月、東葛飾郡教育会主催の研修会に参加する教職員が、午前の部の湖北小学校から午後の手賀東小学校に向かう途中、突風のために渡し船3艘が次々と転覆、50人中18人が溺死する大惨事となった。戦時下で男性がおらず、ほとんどが若い女性だった。どこか東のほうに殉難碑があるはず。
10:22
手賀大橋の上から西をみる。
白鳥ボートがある。まだシーズン前なのか、雑然としている。

手賀沼は1955年ころまではきれいで、ウナギ、コイなど漁業も盛んだった。1952年から1955年までは柏町営水泳場があった。ところが高度成長時代に周辺が都市化され、水質が悪化、化学的酸素要求量 (COD) の年平均で見ると1974年から2001年まで27年連続で全国ワースト1位。その後、下水道の普及などで1979年の最高記録、年平均28mg/L から2020年は10mg/Lまできれいになったが、今でも印旛沼に次いでワースト2位である。そんなことで高校生のころから名前と場所は知っていたが、66歳になって初めて湖面をみられた。
10:24
橋の真ん中から西を見る。
目的地イトーヨーカ堂を確認した。
手賀沼の南(写真左)が柏市で北が我孫子市である。

利根川と並行した細長い沼の形をみれば、大昔は(新旧)利根川や印旛沼などと同様、関東地方に降った雨水の自由な通り道、あるいは三日月湖の一部というか、溜まり場だったんだろうな。

昔は平仮名の「つ」の形をした大きな沼であったが、8代将軍吉宗の時代以降、干拓がすすみ、戦後(1946‐1968)も農水省の直轄事業として機械排水により500ヘクタールの水田が造成され、いまや8割の水域が消滅したという。とくに「つ」の右上から、湾曲する部分が陸地化され、沼は北と南に分離された。「つ」の下(南)のほうはほんのわずか残り、下手賀沼という。
10:27
橋の東側を見る。道路は広すぎて横断できない。
西洋の城のような建物は我孫子市営・手賀沼親水広場の「水の館」。
名前からして手賀沼周辺の水環境保全の啓発施設であろう。

道の駅でもらった簡単な地図を見れば、水の館の向こう、森のあたりに我孫子市・鳥の博物館と山科鳥類研究所があるはず。
山科鳥類研究所は1984年に我孫子に移転してきた。もともとは山階芳麿(旧皇族、山科家のの芳麿王)が、1942年に渋谷・南平台町の自邸に設立したもの。いまの総裁は秋篠宮殿下、理事長は壬生基博。歴代理事長は山科、浅野、島津、壬生、と旧華族の方がたである。1992年から2005年まで紀宮清子内親王(現黒田清子)が非常勤研究員として勤めた。

我孫子市・鳥の博物館は山科鳥類研究所の移転をきっかけに、1988年に設計を開始、隣接地に1990年開館した。山科研究所が上述のように庶民から遠いこともあり、手賀沼で見られる野鳥が市民に身近になるような、学べる施設になっているのだろう。

二度と来ないだろうから立ち寄ろうかとも思ったが行かない(後で調べたら月曜休館だった)。

橋を渡り切り、左手の県立安孫子高校をこえると交差点。
真っすぐな手賀沼ふれあいラインである。このすぐ北に、いかにも旧道らしい狭くて曲がった道がある。二本の道路は、沼の北岸に並行して通っている。
10:33
旧道のほうには文化人の旧跡を記した名所標識版があった。

地図を見ると手賀沼ふれあいラインと沼の間はきれいに区画整理されていて、おそらく近年水田を宅地にしたのだろう。当然その前は干拓された沼の一部だった。

案内板に沿って旧道を西に進む。
歩き始めてすぐ、右手になにやら名所があった。
10:36
旧村川堅固別荘。彼は西洋史の帝大教授。
どこかで聞いた名前だと思ったら3年前、文京区目白台、清戸坂を歩いたとき村川邸(国登録有形文化財)を見ている。(息子の村川堅太郎も西洋史の東大教授)

 関連ブログ 20200814 清戸坂から永楽病院、東大分院

村川堅固は大正4年にこの地を購入、大正10年に旧水戸街道我孫子本陣の離れを買って移築した。
今は我孫子市が所有し無料開放しているが月曜は休館。
10:42
このあたり、右側が崖になっていて高台側にお洒落な家が並ぶ。
昔は庭に出れば眼下の手賀沼の向こうに富士が見えたというから、なるほど別荘地としてすぐれている。風光明媚、気候温暖で魚、野菜が豊富だし、日光、箱根、鎌倉より断然近い。東大なら上野から直通37分(現在)、我孫子駅から崖まで650メートル、歩いて8分である。
10:43
「関東では川岸の崖をハケと呼びました。ハケの下は平たんで安定していたことから、古くから集落と集落を結ぶ「ハケ下の道」ができ、志賀直哉らハケの上に別荘を作った文化人たちはこの道を往来し、友情をはぐくみました」といった内容の説明文と当時の写真、地図がパネルになっていて、湧き水が再現されていた。

地元農家の人だろうか、男性老人が二人、置き石に休んでいたが、私がパネルの文章を読み、写真を撮っていたら、腰を上げ立ち去られた。

再び歩き始めると志賀直哉(1883 - 1971)の屋敷跡があった。
10:49
志賀直哉邸跡(左)
今は前に5階建てマンション「あびこハイマート」ができてしまったが、大正時代は手賀沼がすぐ手が届きそうなところに見えていたことだろう。

こちらは村川邸と違って何もないから24時間オープン。
低い石段を上がっていく。
10:50
志賀直哉邸の跡地
母屋の場所は更地になっているが、離れの書斎は復元されていた。

我孫子市の女性職員だろうか、箒をもって掃除されており、母屋のことなど、いくつか質問して答えていただいた。
私も若かったら色んなことを考えただろう。しかしこの年齢になると、のんびり掃除しながら、たまに来る観光客と話をするアルバイトはいいなぁ、私も働きたいな、なんて思っただけだった。当然彼女の顔も記憶にない。

さて、志賀は 88年の生涯で23回引っ越したという。ウィキペディアでは20か所確認できる。一か所平均4年だが、我孫子は1915年から1923年まで8年いたから比較的長い。だからここは別荘ではなく本邸だった。
なお、20か所のうち、奈良から東京に戻った1938年から2年住んだ東京市淀橋区諏訪町の旧居跡は、高田馬場のダンススタジオ「アクトレス」に行く途中、毎週見ていた。

志賀の父は相馬藩士、実業界で成功し、彼は学習院に入った。ここで武者小路実篤、細川護立、柳宗悦、里見弴らと知り合い、1910年武者小路とともに「白樺」を創刊、学習院関係者を中心として白樺派が生まれた。
10:51
志賀は柳夫妻に誘われ我孫子に移住。
当時は父との不和に悩み、愛児が夭逝する不幸もあったが、ここで創作意欲を回復させ『城の崎にて』『和解』『小僧の神様』『暗夜行路』(前編)を書いた。

前の3つを含む短編集の文庫本を読んだことがある。志賀直哉は、無駄を省いた文章、小説の神様、写実の名手、などと高く評価されているが、ストーリーのしっかりした作品が氾濫する現代では、あまり印象に残らない。これは他の古典作家の作品でもいえる。ああいう誉め言葉は、書かれた時代においてのみ成立するのではなかろうか。

志賀邸跡を後にして、この道沿いにあるという白樺文学館だけ立ち寄ろうと思ったが、ない。
おかしいなと思って来た道を戻ると、志賀邸の斜め前にあった。
10:55
白樺文学館。左の森が志賀邸跡
あたかも市役所の出張所か郵便局のような地味な建物で、気づかなかった。ここも月曜休館。

他にも文化人ゆかりの地があるが、まっすぐ帰ることにする。
10:59
崖の切れ目に登っていく道がある。
このあたり立派な家が多い。
この地点から我孫子駅まで850メートル、11分。
沼までは400メートル、5分である。
もう千駄木から引っ越すことはないが、つい、住んだらどうだろうと想像してしまう。
11:00
今日はゴミ出しの日だろうか?
坂を上りきったあたりでゴミ袋が行列を作って待っていた。

11:14 我孫子駅到着
対岸の道の駅「しょうなん」から3.0キロ、徒歩38分の距離を54分かけて歩いたことになる。まあ、いい散歩だった。

そういえば、放浪画伯・山下清は若いころ(1940年代前半)、この我孫子駅の弁当屋「弥生軒」で5年間働いていたという。住み込みで働いていたのだが、ふらっと旅に出て、突然戻ってくることを5年間繰り返していたらしい。戦後、列車の高速化とともに、やよい軒は駅弁販売をやめ、いまはホームの立ち食いソバ屋になっている。店先には山下清のパネルもあるらしい。

この話を朝訪問した沼南高校の校長先生に聞いて、立ち寄るつもりだったのだが、すっかり忘れ、思い出したのは帰宅した後だった。
1980年代、「裸の大将」はちゃんと見たわけではないが、ダ・カーポの「野に咲く花のように」が懐かしい。


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