2023年3月5日日曜日

シナノ薬品、大森ベルポート、品川区役所

東京23区の地図を集めている。目的はない。

豊島、新宿から始めて、すでに13区の窓口を訪ねて入手した。集めること、行くことが目的になっている。
残りは都心3区と周辺7区。
2月27日、一番南の大田区、品川区に行った。

大田区役所は蒲田駅からすぐ近くだが、大森駅のそばに出張所がある。
大森のほうが懐かしいので、その大田区入新井特別出張所を訪ねた。
2023‐02‐27 12:46
Luz(ラズ)大森
線路の高架にみえるのはミルパ商店街のアーケード屋根

出張所は繁華な北一番街に面したショッピングセンター「Luz大森」の一階にあった。多くの飲食店のほか、入新井図書館も入っている。
大田区の施設は人が集まる駅のそばにあり、便利である。

地図はすぐもらえた。

ここから少し(多分2,3分)歩けば、戦前から昭和30年ころまで、シナノ薬品のあった場所に行く。

祖父の弟、友二郎が東京の知久喜代と結婚、知久の婿養子となった。喜代が大森にあった帝国女子医専薬学科を出た薬剤師でもあったことから医薬品卸の会社を興した。
大学病院にも薬を卸し、景気はよかった。
子どもがなかったため勉強のできた私の父を養子に欲しがったが、長男であったため祖父が放さず、二男の安雄叔父が養子に入った。叔父は医者になるべく雑司が谷の獨協中学に入れられたが、戦時中でほとんど学校に行かず、戦後は時計宝石の卸を始めた。
祖父の三男昌親は信州中野で自転車屋「親輪舎」を始めたが、四男の叔父、恒は戦後、上京、知久夫妻の元で仕事を始めた。
しかしシナノ薬品は倒産、夫妻は亡くなった。
(恒叔父は借金を抱えたが、「シナノ薬品」の看板を継ぎ、大森で小売り店の薬局をはじめた。そして高度成長期に大森から座間に移転、店舗を4つ、貸家を経営するまでに復活させた。)

私の父は子供のころ、戦前か戦時中でも空襲が始まる前、大森に滞在し、ひとりで東京中を見物して歩いたという。2010年死ぬ前に、楽しかった思い出を話してくれた。

つまり、大森のシナノ薬品は我が家の祖父、父親世代が上京した時の拠点となったところだった。そのため、弟と脚の達者な叔母との3人で2018年、その場所を訪ねた。しかし一切の痕跡がなく、坂とか川、橋、寺社などがないこともあり、その場所に立っても面白くない。弟と私は思い出もないから、そうそうに大森駅に戻った。

この日、地図をもらったあと、すぐそばだからもう一度行ってみようかと思ったが、何もないことが明らかなのでやめた。

・・・
私にとって大森駅と言えば大森ベルポートである。
2005年3月に初めてきて以来、2017年まで、ほぼ毎年、全部で9回来た。
12:56 大森ベルポート
正面(西口)から入ると、アトリウムが広がる。
この広い空間の中央を椅子などで四角に区切り、ダンス競技会が開かれた。
エスカレーターで二階にあがる。
アトリウムは、廊下がつながるB館、C館、D館と正面のA館に囲まれ、高い天窓から光が入る。

社交ダンス競技の団体はJDSF、JDC、JBDF, JCFなどいろいろあるが、一番レベルの高いJBDFがこの会場を使い、参加者も多かった。
控室が満員のときは下が見下ろせるベランダのような二階の廊下で着替えた時があった。場所をとったときは早朝だから誰もいないのだが、昼時が近くなると飲食店が開き、人も増え、燕尾服、ドレスの選手は場違いの違和感があった。
それでも多くの人はこの上から興味深く目を向けた。

12:59
アトリウムの裏(東側、A館)にあるロビー。
ここは選手控室になり、レジャーシートを敷いて着替えたり食事したりした。

そもそも大森ベルポートは、いすゞ自動車の創立50周年事業の一環として、本社、倉庫などのあった敷地に第一生命との共同事業で開発。1996年に竣工した。いすゞは五十鈴であることから、「ベル」ポートとしたという。五十鈴は伊勢神宮の五十鈴川から取ったもので創業者の名前ではない。石川島造船所の自動車部門が独立、1930年代から四輪車を製造し、かつてはトヨタ、日産とともに御三家と言われた。
ちなみに、いすゞ自動車は2022年に本社をここのA館から横浜に移転した。

13:00
ここに選手が並び、自分のヒートになると入場した。
JBDFは2017年に退会してしまったので、もうここに来ることはないだろう。
13:05 大森駅東口に戻る。

大森駅の北西、線路沿いに大森貝塚がある。
二度目に来た2006年、一回戦で負けてしまい、桜の咲く大森貝塚遺跡庭園でおにぎりを食べた。今回は行かず、次の品川区の地図をもらいにいく。

品川区役所は隣の大井町駅から近い。
ちなみに、品川駅は港区である。
明治22年に東京市ができたとき、品川宿は新橋東京間に鉄道ができてますます発展したので芝区に入り、芝区が戦後港区になった。
品川区は品川駅の南に広がる市街地が品川町になり、それがさらに南の村々と合併、昭和になって品川区となった。さらに戦後、西に広がる荏原区と合併したが、品川区の名が残った。つまり北東の隅の品川の地名が区全体の名前になった。
当然、区役所はもっと南西にある。
13:14
大井町駅西口
イトーヨーカ堂がある。生活しやすそう。
13:17
イトーヨーカ堂の北の道を西にいく。
商店街は西から来て京浜東北線に直角にぶつかる東急大井町線のガード下である。
13:20
商店街が切れると、ガード下から再開発の工事現場が広がった。
JRの土地だったようだ。
赤レンガ倉庫も見えた。あれを生かしてお洒落な場所にするのだろう。
13:22 品川区役所
駅から8分。
正面から入ると総合案内があった。区によってはここで地図がもらえる。
ところが30代くらいの男が何か話していて、職員が電話をしている。聞いていると、どうもディスカウントショップで買った品物にクレームをつけたいらしい。話は終わらず、職員は再び電話をかけた。電話も長い。私の後に並んだ人々は次々と去っていった。この職員は担当部署に割り振るという自分の仕事が分かっていない。
私もイライラして他の窓口にいこうとしたら、女性職員が、たまたまか一人来た。地図が欲しいというと5階の広報課に行ってくれという。
13:30
品川区役所 五階
地図は広報課のカウンターに置いてあった。

もらってからエレベーターで1階に降りると駐車場出入口だった。
斜面に立っているのか、私が入った正面玄関は3階だった。
階段で玄関ロビーに上がると、さっきの男性はまだ立っていて、職員はまだ電話していた。
そして私に案内した女性職員は、その前のロビー真ん中で来庁者をさばいていた。


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