2023年3月10日金曜日

芝区役所、共立薬科、京橋区役所

先月から東京23区の地図を集めている。

3月1日、午前中、地下鉄一日乗車券を買って、あちこち区役所をまわり地図をもらった。
午後は練馬区光が丘のダンスパーティ会場で練習しようと思った。しかし多くの年配者がのんびりダンスを楽しんでおり、競技用の練習はできなかった。
そのため会場を退出したのだが、やることもない。そこで再び都心に戻り、残っている港区、中央区の地図をもらいにいく。

都営大江戸線で光が丘駅を14:12に発車。
直通で浜松町のそば、大門駅に14:53到着。

練馬区光が丘から直通、20.7キロ、41分ということは、西川口―浜松町間(20.9キロ、41分、京浜東北線各駅停車)と同じだ。
15:05 港区役所
浜松町や増上寺は数えきれないほど来ているが、区役所は初めて。
1987年竣工。ここは芝区役所があった場所。
戦後、芝、麻布、赤坂の三区が合併したとき港区役所は芝区の庁舎をそのまま使った。

さて、区役所に入ってすぐ、総合案内所で地図について聞くと、今4月に新しく発行するため、在庫はないという。
え? そんなことある?と内心思う。
普通は4月過ぎても余った古い版がなくなるまで全部配布するようにして、順次切り替え、在庫を切らすことはしないだろう。
「一部もないんですね」と丁重に確認して、「そうです」と言われ諦めた。足立区に次いで二つ目の欠損区となった。ま、全部なくなるなんてありえないから、どこかの支所に行けば一部くらい残っているだろう。
15:07
港区役所はさすが、なんとなくおしゃれな空間だった。
地図をあきらめ、区役所各階の案内パネルを見ていると11階にレストランと書いてある。上がってみた。
15:09
レストランは閉まっていたが、東京タワーや増上寺がみえた。

違うエレベーターで一階に降りたら、扉が開くと先ほどのロビーではなく、窓口の並び、多くの区民が行きかうところだった。さて出口はどこだときょろきょろしたら案内の人に「どういうご用件ですか」とすぐ声を掛けられた。何も言わないのも挙動不審なので港区全体の地図があるかどうか聞くと「あります」とすぐ持ってきてくれた。

たまたまエレベーターに11階に上がったこと、たまたま別のエレベーターで降りたこと、たまたまきょろきょろしていて声を掛けられたこと、偶然が重なり幸運となった。

嬉しい気持ちで区役所を後にする。
15:14
港区役所の隣は慶応大学薬学部。
学生時代1979年?に学園祭のパンフレットを売りにきたら自治会室に案内され、たむろする何人かの女子学生の中にはたばこを吸っている人もいて驚いた。また1991年ころ薬理の鈴木岳史氏の研究室に二度来たこともある。当時は共立薬科大学で、こんなにきれいな建物ではなかった。2008年慶応に吸収されてから新築したのだろうか。

今薬学部教育は(特に私立は)薬剤師国家試験以外には役に立たない詰め込み教育をしている。6年もあるのに、基本を十分教えられず、若者の能力を無駄にしている。国公立はまだましだが、慶応はどうなんだろう。偏差値の高い優秀な学生が入っても、暗記と実務実習ではちゃんとサイエンスを考えられる人材とならない。
15:15
増上寺の前の道は日比谷公園の東縁から南下する日比谷通り。
箱根駅伝のコースで、スタートの大手町読売新聞社前から10分くらいで走ってくる。
また、江戸時代は将軍が通る御成門からの道で、ここから西は本院、東は学寮と子院が並んでいた。

来た道を戻る。
15:22
浜松町駅方面から増上寺大門を振り返る。
1985年5月、中国自由旅行をしたとき(自由という意味は、当時、ふつうは団体旅行しか行けなかった)、中国国家旅游局の東京事務所に無料の地図やパンフレットをもらいに来た。その場所は写真の左側だと思ったのだが、今当時の資料を探したら、浜松町1‐27‐13 八大浜松町ビル6階とあって、右のほうだった。

15:25
浜松町駅の西、世界貿易センタービルの解体現場。
1979年7月の午後、ここの39階のレストランで共立薬科大の女子学生と2対2くらいで食事だかお茶を飲んだ。ちょうど研究室旅行で竹芝桟橋から新島に行く日で、夜出航なので、その前に会ったのである。昼の眺めを覚えているが別の日か?

世界貿易センタービルは、1970年竣工、40階、162メートル。霞が関ビル(36階、147m)に次いで日本で2番目に古い超高層ビルだった。翌年、西新宿に京王プラザホテル(47階、169m)が建つまで高さ日本一だった。
2021年6月の閉館の前に一度来たかった。

それにしても、赤坂プリンスホテル新館(40階、138メートル、1983年開業、2011年閉鎖)を抜く、解体高層ビルでは最大である。都心の再開発でごちゃごちゃした小さな建物など壊し高層ビルを建てるのは分かるが、これほど大きなものを壊さねばならない理由が分からない。

次は中央区役所に行くため、大門駅から再び大江戸線にのる。
築地市場駅で降りる。
地上に出ると国立がんセンターの裏だった。中央市場通りの向かいは朝日新聞本社と国税局。
西に半地下のC1首都高都心環状線が走っており、この側道に沿って北上すれば中央区役所に行く。
15:46
よく耳にする新橋演舞場に出くわした。
舟木一夫ショーのポスターが貼ってあった。

15:50
采女橋
下を首都高が走る。
ここは、かつては運河というか濠というか、海につながる築地川で、築地本願寺のある一角を島のように区切っていた。しかし昭和30年代、東京オリンピックの前に埋められて首都高環状線になってしまった。川にかかっていた橋はそのまま跨道橋になったようだ。采女橋は関東大震災の復興事業として昭和5年にかけられた。

采女橋を西から東に渡り、高速道路の側道を北上、萬年橋、祝橋、亀井橋をすぎると築地警察署の次に中央区役所があった。三吉橋の手前の角になる。

入ってすぐ総合案内所で尋ねると、二階に行くよう言われ、地図はすぐもらえた。
16:04
一階に戻る。中央区役所一階窓口

中央区は日本橋区と京橋区が合わさってできたが、今の区役所は京橋区役所の場所である。
ちなみに、旧日本橋区はすべて「日本橋○○町」と町名に日本橋が付く。
16:05
中央区役所をあとにし、三吉橋(みよしばし)から振り返る。

いま首都高が走る築地川は、東から流れてきて、この地点で屈曲、南に流れていた(どちらが下流か知らないが)。また、北方には楓川が日本橋川から八丁堀まで流れていた。震災後の復興事業で、両方の川をつなぐ運河が掘られ、築地川のこの地点は三つ又になった。
この三つ又にかけられたのが三吉橋である。

橋を渡り区役所からまっすぐ西に歩くと(銀座柳通り)、銀座1丁目交差点に出た。
銀座一丁目は銀座の一番北であるから、銀座というのは、そっくり京橋区だったということだ。(日本橋○○とはついていないし)
もっとも銀座は銀座通りの北端、京橋という橋から南端(八丁目)の新橋という橋までだった。新橋を渡れば芝区だったということを考えれば当たり前だが。

(中央区は濠というか運河が多かったから、○○橋という地名が多いが、今はほとんどの水路が広い道路になって水辺は消え、橋は地名としてだけ残っている。今、水辺が残っていたら外国のような美しい風景が作れたかもしれない。

なお、この日で足立区を除く東京22区の地図が集まった。



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