2023年3月23日木曜日

小田原城と北条、大久保、外郎薬

 

14年前の2009年8月21日、箱根宮の下でファルマシア委員会が一泊二日であった。
その日の会議は15時ころだったので朝埼玉を出発して、途中、小田原城を歩いた。

その後、各地の城もいくつか見てきた。
そのうえで小田原城の大きさが忘れられず、ブログに残そうと思って先月、2月26日に再訪した。
新宿から小田急の快速急行で1時間35分、891円。
この手軽さで関東一(江戸城除いて)の城が見られるのはありがたい。
2023‐02‐26 12:10
小田原駅は新しい橋上駅だった。
あれ? こんなに立派な駅だっただろうか?
完成は2003年というが、2009年来たときはこの駅舎だったか記憶がない。

もともと中央から関東への出入り口であったから交通の要衝だったはずだが、小田原ー熱海間の地形が険しかったため、東海道本線(国府津ー浜松)が1889年(明治22)開業するにあたり、小田原の東、酒匂川の対岸にあった国府津から大きく北に迂回、いまの御殿場線のルートを取り、小田原は取り残された。
その後、1920年(大正9)に熱海線国府津駅 - 小田原駅間が開業、国鉄の駅ができた。
昭和に入り、小田急電鉄小田原線が開業、
さらに丹那トンネルの開通で熱海線が東海道本線に昇格、
ようやく、戦国時代関東一円を支配した北条氏の本拠地、江戸時代は大久保氏の城下町、宿110軒を数えた大宿場町の小田原が、東西大動脈の筋道に戻った。

さて、駅からお城を目指して歩く。
小田原城のいいところは駅から近いこと。
東口というか、南東口に出て、錦通りと駅前通りが作る三角形のスペースを左手に見て、右折、真南に進むのはお堀端通り。
日曜の日帰り観光客が両側の店を見ながらのんびり歩いている。
西湘の中心都市で、駅に近くオフィス、住宅も多いから、銀行やOdakyu-OXなどもあって、観光客相手の店ばかりでもない。
12:23
三の丸土塁跡
完全に町に飲み込まれ、14年前歩いたときは気づかなかった。
ここは北から三の丸に入る幸田口である。
この南、東海道が東から三の丸にぶつかるところには大手口があった。

道路は、お堀端通りという名のとおり、まもなく右(西)側は濠となる。
12:26 お堀端
関東の城は、江戸城を除いてほとんどが空堀と土塁でできている。
関東は、戦国時代が終わってから配置された小さな譜代大名が多かったせいか、あるいは石材のある山が遠かったせいか、とにかく関東の城は小さい。
しかし小田原は西の軍勢から関東、江戸を守るための、唯一石垣、水濠を持つ巨大な城である。

写真の道路沿いの濠は、藩主の屋敷や政庁があった二の丸と武家屋敷のあった三の丸を分ける。
説明版を読めば、昔はもっと濠が広く、また石垣も高かったらしい。関東大震災で石垣が崩れた時、濠を埋めたてる計画もあったらしいが保存運動が起きて残された。しかし濠は小さくなったという。

修復工事中だった学橋(まなびばし)をわたり、二の丸に入る。
12:28
二の丸広場
昭和4(1929)年、市立城内小学校が二の丸に移転したとき、架けられた橋だからこの名がある。小学校はつい最近1992年までここにあったという。
ここには藩主の住む二の丸御殿があった。
12:30
二の丸から本丸に入る橋。
二の丸、三の丸は市街と同じ平地だが、本丸は少し高い。

さて、谷中の瑞輪寺のところで少し書いたが、小田原藩といえば三河以来の譜代大名、大久保氏。しかし、ずっと大久保氏だったわけではない。

1590年、家康江戸入府の年、かつての関東の覇者・北条氏の本拠地で、関東防御の重要地点、小田原の守りとして、三河以来信頼の篤い大久保忠世(1532‐1594)を城主とした(4万石)。後を継いだ嫡男・忠隣は6万石となり、さらに老中として幕閣に入ったが1614年改易され、以後、番城、阿部家一代、番城、稲葉家3代の城となった。
(渡ってきた二の丸の大きな濠を含め、大々的な工事で近代城郭としたのは春日局の息子・稲葉正勝の時代とされる)

稲葉家が越後高田に転封し、1686年、下総佐倉藩主・大久保忠朝が10万3千石で先祖の故地に入封。彼は小田原藩初代・大久忠世から5代目にあたる。
改易された忠隣は流罪となったが、大久保家の功績が大きかったことから孫の忠職が騎西2万石で許され、のち唐津8万石まで加増された。忠朝も忠隣の孫であったが小姓、小姓組番頭をつとめたあと、従兄である忠職の養子となって大久保家を継いだ。そして唐津から佐倉に国替えされたあと1681年老中首座となった。以後、幕末まで大久保家10代の城となっている。
12:31
本丸に入る常盤木門
12:33
この、天守閣に入るのに斜面のように作られた石段は建物とのバランス上あまり美しくない。2009年に初めて見た時はピラミッドの工事現場のようで、強く印象に残った。
しかし、越前丸岡城など、この形は各地にある。
12:37
本丸と二の丸の間の濠は花菖蒲が植わっている。
ちょうどこの5日前に葛飾・堀切菖蒲園に行ったばかりだったから、興味深く見た。
あちらは池に植えてあるが、こちらは鉢を並べている。
シーズンになったら水を張ればいいし、入れ替えも簡単である。

12:44
星崎記念館(=小田原市立図書館)
「令和2年3月31日に閉館しました。60年間のご利用ありがとうございました。図書館の機能と伝統は中央図書館と駅東口図書館に引き継ぎます」

思えば、2009年夏に来たときは、2冊目の翻訳書「Diseases」のゲラを待ちながら3冊目の「セレンディピティと近代医学」の翻訳が最終段階まで来たときだった。城の見物が終わったあと、この図書館の庭に出ていたテーブルに座り、箱根に行くまでの時間つぶしに翻訳の続きをしていた。芝生の庭には他に誰もいなかった。
12:44
本来はお知らせ掲示板だったところに小田原市立図書館の歴史が貼ってあった。
1916年足柄下郡図書館設立、
1933年小田原町図書館開館、
1959年城内に星崎記念館完成、小田原市立図書館ここに移転、、、

小田原は城下町であり、足柄県の県庁所在地、文化度が高く、1900年(明治33)神奈川県で横浜に次いで二番目に旧制中学(現小田原高校)が設立された町である。(以後は厚木、横須賀、横浜第二、湘南の順)
12:46
旧図書館の前、関東大震災で崩れたという本丸の石垣
東京下町の大火災による被害ばかりに目が行くが、震源はこの近くだった。

旧図書館の東は小田原市郷土文化館で、こちらは今もあった。
14年前に来たときは北条時代の小田原城の地図などをもらって帰った。
捨てずにとってあった。
小田原城全体図(2009年郷土文化館でもらったもの)
現在の市街図と重ねてあるから見やすい。

しかしこの小田原城は北条時代と江戸時代の城が混在している。
北条時代は今の本丸、二の丸あたりに居館があり、駅の西側、小田原高校などのある山側が本曲輪として詰の城となっていた。江戸時代は北条氏の居館部分を大改修して近世城郭とし、山側は放置された。
地図は山側の郭が描いてあると同時に、江戸時代(=現在のお城)の本丸、二の丸が濠の形も正確に描いてある。この図の通りの時代はなかったはずだが、北条時代の巨大城郭の範囲を知る上では分かりやすい。

小田原城は南西が早川、西北が箱根から続く山地、北東が山王川、東南が相模湾で四方を囲まれている。日本最大の城郭で、上杉謙信、武田信玄の攻撃にも耐え、秀吉の小田原征伐でも落城しなかった。秀吉は関東一円の支城を落としながら、3か月包囲を続け、結局無血で開城させた。

一番外側の、町をすっぽり包むのが総構(そうがまえ)。総延長9キロメートルに及び、防御線が長くなる欠点はあるが、籠城しても食料不足になることはない。明治期に小田原が町制を敷いたときの範囲は、この総構えとほぼ一致するという。総構えは土塁と空堀であり、江戸期に破壊されたが遺構は今でも残っているようだ。

小田原北条氏は今川氏親の家臣として伊豆を本拠地とした伊勢新九郎入道宗瑞(北条早雲)を初代とする。小田原駅西口には北条早雲の像があり、小田原と言えば北条早雲である。しかし、彼は大森氏を討ち小田原城を奪ったが、死ぬまで韮山城を本拠地とし、小田原城に移ったのは二代目の氏綱からである。早雲、氏綱、氏康と関東で領土を広げた。そして4代・氏政、5代・氏直の親子のとき秀吉に攻められ、氏政切腹、氏直は助命されたが病死、戦国大名としての北条氏はほろんだ。(分流の北条氏が河内国狭山藩1万石を領する外様大名として明治まで存続した)

小田原は関東地方の端の端。
江戸幕府が関東を西からの侵入者から守る重要拠点としたのは分かるが、常陸(佐竹)などを除きほとんど関東一円を支配した北条氏が、こんな隅っこにいたのはなぜか。伊豆から関東に出たとき、太田道灌など関東管領上杉氏、古河公方を中心に諸侯が割拠し、小田原から動けなかったのか(広い場所を恐れるネズミが隅っこから、こっそり外を覗いているように)。あるいは、その後、領土拡大が急で本拠地を関東中央(鎌倉とか江戸とか)に移す暇がなかったのか。
13:08
二の丸の銅(あかがね)門をくぐり住吉橋で濠を渡り、二の丸の出島のような馬屋曲輪に出る。
13:09
馬屋曲輪から銅門桝形内仕切り門を振り返る。
北条時代はこのあたりにも居館はあっただろうが、江戸期の大改修で全く遺構はない。

北条時代の遺構は東海道線の西側の丘陵地帯に多くありそうだが、そこまで興味もなく、駅に向かう。
13:17
「ういろう 駅前調剤薬局」
という看板あり。
一般に、ういろうと言えば名古屋の青柳ういろうのような甘い餅を思うだろうが、本来は薬だった。外郎薬(ういろうぐすり)、透頂香(とうちんこう)とも言われ、中国において王の被る冠にまとわりつく汗臭さを打ち消すためにこの薬が用いられたとされる。
14世紀に元が滅亡して、日本へ亡命した旧元朝の外交官(外郎の職)であった陳宗敬が伝えたという。外郎の中国読み、ワイロンが訛ってういろうになったのだろう。

室町時代に京都外郎家が代々製造販売していたが、1504年4代目が分家し北条早雲の招きで小田原にやってきた。小田原外郎家は代々宇野藤右衛門を名乗り、江戸時代には去痰をはじめとする万能薬として東海道・小田原宿の名物となった。京都の本家はその後断絶し、現在外郎薬が売られているのは小田原だけである。

一般にいう餅菓子のういろうは、色が外郎薬に似ていたから、あるいは外郎薬の口直しに添えられた菓子であったから、と語源に諸説ある。
13:18
駅前の土産物屋は干物とかまぼこ

いまや外郎薬は小田原名物はではなくなった。
しかし干物やかまぼこは、おそらく江戸時代から売れているのだろうが、まだ続いている。
なぜ小田原名物か?相模湾の魚が豊富だったからというが、大きな宿場町であったことが大きいだろう。
13:20
歩いてきた道をみる。
お城方面に右折せず、線路と直角にこのまま歩けば海である(1.3キロ、17分)
左手には切腹した氏政・氏照兄弟の墓所があるはずだが、行かなかった。
13:20
右を見れば、こちらは線路に平行な道、お城通り。
その先に天守閣が見えた。
退職する前、学会などで関西に行くとき新幹線が小田原駅を通過するとトンネルへ入る直前、左の車窓に天守閣が見えた。もう見ることはないと思うと少し寂しい。

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