2019年7月15日月曜日

本郷中学は豊島区にあるがーー松平賴寿のご子孫

中高一貫男子校、山手線巣鴨から3分、駒込駅からも7分。
都会にありながらグランドは広く、ラグビーが盛んで、そこそこ進学実績もある。
7月11日、千駄木の家から歩いてきた。

豊島区駒込にあるのになぜ本郷か?

創立者は松平賴寿(よりなが、明治7 - 昭和19年)
最後の高松藩主、松平頼聰の八男ながら家督を継ぐ。

30年以上貴族院議員を務め、それまで公・侯爵しか就かなかった貴族院議長に伯爵として初めて就任した。

教育にも熱心で本郷区の教育長をつとめた。
屋敷は本郷区にあったのだろうか? 
本邸は水道橋とあったが、高松藩下屋敷は水道橋の近く、都立工芸高校 宝生能楽堂のあたりである。

本郷学園の公式サイトによれば
今から約95年前、日本は義務教育が普及して、上級学校の中学校の数が足りなくなっていた。例えば誠之小学校を卒業しても近くに中学がなかった。
そこで当時、本郷区の教育会長であった松平賴寿伯爵が中心となり、区内に新しい「本郷中学校」の開設が計画された。
ところが、区内では良い場所が見つからず、当時賴寿伯爵の母(千代子、井伊直弼次女)が住んでいた染井邸の一部に1922年、校舎を建設した。

1909(M42) 
まだ藤堂邸が大きい。尾張屋版江戸切絵図(嘉永7年)では松平時之助(大和郡山柳沢家)の北はずっと山手線を挟んで藤堂和泉守の下屋敷だった。明治になり、柳沢家は三菱いま六義園に、また線路の北、藤堂屋敷の一部は高松松平家などに変わった。

1932(S7)
本郷中学ができたが松平邸はまだ大きい。藤堂邸は消えている。

新設中学の場所は本郷区ではないが、開校のために区民から多くの寄付があったことや、「本郷区内に新しい学校を」という人々の強い思いを今に伝えるため、「本郷」という名を残したという。
豊島区という言葉がなかったから抵抗はなかったのであろう。

駒込駅側から入り、幼稚園児を送ってきておしゃべりするお母さん方の脇を通り抜け事務室の前に行くと銅像がある。

2019-07-11

左から
松平頼明先生像 本郷学園同窓会有志
松平賴壽先生像 徳川宗敬書 
永井道明先生像 内閣総理大臣鳩山一郎書

中央の松平賴寿については前述。
高松藩松平家は、水戸家徳川頼房(家康の11男)の長男、頼重を藩祖とする。彼は光圀の兄であり、この家は水戸家の分家になる。
賴寿は藩祖・頼重から数えて12代目。

また題字を書いた宗敬は、水戸家12代当主・徳川篤敬の次男、一橋家の養子となり伯爵。母親の聰子が賴寿ときょうだい、また宗敬の伯父、水戸家11代昭武の娘、昭子が賴寿の妻という、何重もの水戸の縁がある。
宗敬は東大を出た農学博士で、賴寿のあと本郷学園の第2代校長に就任、1954年設立の本郷学園もみじ幼稚園初代園長にも就任した。

 
もみじ幼稚園の銅像は宗敬ではなかろうか?

3つのうち左の像、松平頼明(よりひろ、1909 - 1990)は頼寿の弟、松平胖の長男として生まれ、子のなかった伯父の頼寿・昭子夫妻の養子となり高松松平家13代目となった。2代目本郷学園理事長、4代目本郷中学高校長。

右の永井道明(1869 - 1950)は水戸藩士の家に生まれ、祖父と父は水戸弘道館の師範だった。教育者、体操指導者として東京高師・女高師をへて1923年、創立間もない本郷学園の教頭に就任。実質的には校長職を代行した。
退職後、教え子たちが隣接地に永井体育館を建てた。いまでも本郷学園の体育館を永井体育館というらしい。
1974年、三木内閣で文部大臣になった永井道雄は関係ないらしい。

・・・・

梅雨空の7月15日、海の日に自転車で再訪した。
 
六義園から染井霊園に向かう染井橋の上に人だかり。
聞くとポケモンGOらしい。
まだ流行っているとは知らなかった。

さて、戦前あれだけ広かった松平邸は、駒ゴルフガーデンや区立駒込中、それからプラウド駒込など多くのマンションになった。
駒ゴルフガーデン 
プラウド駒込

旧松平邸の敷地の南はしに松平という表札の家がある。
2019-07-15
 1990年に亡くなられた13代当主、松平頼明氏の家ではなかろうか。
屋敷の前は山手線。
電車は谷を通っているので目に障らない。

線路の向こうは本郷区。
当時、線路のこちら側ははるか北方まで広がる北豊島郡の田舎だった。
これでは本郷中学という名前になるだろう。

東隣に新築の家。2013年に来たときはなかった。
松平頼昭・直子という表札。
13代頼明には、頼武(1938年-)頼典(1940年-)と二人の子があり、
長男頼武が本郷学園理事長、高松松平家当主をついだ(14代)。
頼武には頼治1963- 頼昌1966- 頼昭1969- と3人の子がありそのお一方の邸宅のようだ。

ぐるっと回って巣鴨駅側から本郷学園にはいる。
 この日はサッカー大会が行われていて、多くの保護者たちが見物していた。
正面奥に見える2号館は2014年に完成した。
私が初めて本郷学園に来た2013年は工事中だった。
新校舎は、巣鴨などと同様、少子化時代に志願者を増やそうと、見学に来た母親の印象をよくするため、と伺った。

・・・・
よく考えると、私にとって2013年の変化は大きい。
転職していろんな高校を訪ねるようになったし、千駄木に引越して歴史旧跡が散歩の範囲になったし。
2013年の転機がなかったら本郷学園など一生来なかっただろう。
高松松平家にも無関心だったに違いない。

・・・・
帰りに染井橋を通ったら、10分くらい前に大勢いた人々が一人残らず消えていた。
ポケモンGOのキャラクター出現の場所、時刻は決まっていて発表されるのだろうか?


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2019年7月13日土曜日

染井霊園4藤堂、樺山、山内恭彦

7月11日
徳川家の墓はブログでずいぶん長くなってしまったが、現場にいたのはほんの2,3分か。

ここは家からいつでも来れるから目的もなく散策する。
次々と目立つ墓が現れる。
伯爵樺山資紀墓
大きい。
2019-07-11
樺山は1890年から92年海軍大臣をつとめ、94年日清戦争直前に海軍軍令部長に就任。
海軍大将にもなったから海軍のイメージが強いが、薩英戦争、戊辰戦争、西南戦争でも活躍し、陸軍少将まで昇進している。

二葉亭四迷 
本名、長谷川辰之助
樺山を見た後のせいか、思ったより狭く感じる。

中央の光る石には「永久の平和 岡倉」
左の四角の石室のようなものが墓だろうか。上に土がたまり草が生えていた。
正面側面には「釋天心」とある。これは戒名のようなもので、浄土真宗で法名に「釈」の字をつけたもの。
案内が何もなくこれでは岡倉天心と気が付かない。

盛り土、石垣の立派な墓があった。
山内恭彦先生墓所という比較的新しい石柱があったが、
東京都の警告板がたてられ、無縁墳墓になりそうである。

帰宅後調べると、山内恭彦(やまのうち たかひこ、1902 - 1986)は、理論物理学の東大名誉教授。小柴昌俊の恩師とある。wikiにも載っているほどの人、誰か縁者はいないのだろうか?
山内家墓所の後ろに回ると石室への入り口があり、奥津城とよぶにふさわしい。

理論物理の大河内正敏に似た名前、小河一敏は知らなかったが墓所が広い。
調べると堺県知事、宮内省御用掛をつとめた人(1813-1886年)。
写真左にうつる記念石碑のうしろ、発起人は知らない人ばかりだが、賛成人は三条、岩倉、副島、松方、山田、海江田など明治の元勲が名を連ねていた。

小河一敏の向かいは塀に囲まれた墓所
横の空き地(公園?)から覗くと松浦と書かれた墓石がいくつも見えた。
肥前平戸藩松浦家の墓所であろう。

松浦家墓所を覗いた公園の西隣、樹木の切り株が残る空き地のような墓所。
岩崎豊弥 大正15年1月10日没
室 武子 昭和9年4月23日没
豊弥は郷純造の四男として生まれ、数え2歳で弥太郎の養子となった。
弥太郎長男の三菱3代総帥の久弥とは血縁関係にない。

藤堂家の墓所も塀で囲まれている。

中に入るといきなり倒木。

従三位伯爵藤堂高潔墓 
従三位伯爵藤堂高潔室量子墓

あれ? 伯爵?
藤堂は伊勢で32万石だった。
武家で15万石以上は浅野、池田、細川、蜂須賀ら侯爵になった。
早めに西軍に従ったものの佐幕で鳥羽伏見を戦ったからか?
右は正二位勲二等藤堂高猷墓
左の小さい墓石は、藤堂高紹、室 信子

伊勢津藩は藩祖高虎(1556-1630)から高の字をつける。
11代 高猷(たかゆき1813-1895)
12代 高潔。最後の藩主 高猷の子。
量子は正室、徳島藩12代藩主蜂須賀斉昌養女で蜂須賀昭順の娘。
13代 高紹(たかつぐ1884 - 1943年)高潔の長男。 信子は真田幸民の娘
14代 高廷 1917-1946
15代 高正 1944-
1909(M42) 
藤堂邸は染井霊園のすぐ南にあった。 
いま染井温泉SAKURAやスイミングスクールの場所。

なお、写真でも見える藤堂家墓地南側の森は三菱の敷地。
グーグルで上空から見れば墓のようだ。弥太郎ら岩崎家の墓所か。
既に1909年には一般人の染井墓地とは別に囲いのある墓地があった。


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2019年7月12日金曜日

染井霊園3松戸徳川家と水戸家

7月11日、近くに用事があり、空き時間ができたので30分ほど中を歩いた。
何回も来ており、最近のものは
染井霊園1 下瀬雅允、水原秋桜子、若槻礼次郎、幣原喜重郎、高村光雲、濱尾新
染井霊園2 坪井家四代、信良(1823 - 1904)正五郎(1863-1913)、誠太郎、正道
をブログに書いている。

今回も目的なく歩いた。
葵の御紋、松戸徳川家之墓がある。
松戸は水戸街道で、千住、新宿について3つ目の宿場町だったから、水戸家になじみがあったのだろう。明治に最後の藩主・徳川昭武が家督を先代慶篤の遺児・篤敬に譲り、松戸に住んだ(戸定邸)。

彼は第9代・斉昭の18男。
第15代将軍慶喜の異母弟にあたる。
長兄慶篤が水戸家10代目をつぎ、慶喜は一橋家を、昭武は清水家を継いだ。
パリ万博に将軍慶喜の名代として派遣され、この間に将軍・慶喜が大政奉還、兄の水戸藩主・慶篤が死去したため、急遽帰国し11代水戸藩主となった。

松戸徳川家は、松戸公とも称されたこの昭武の実子、徳川武定が明治25年(1892)に子爵を授爵したことで、新たに創設された。武定は海軍技術中将で以前ブログに書いた(→海軍技術研究所)。

写真右の墓石、大きいほうに萬里小路氏睦子之墓とある。
昭武の生母、すなわち烈公の側室であったから、水戸徳川家の墓に入るべきかと思うが、昭武と一緒に松戸に住み、昭武が明治43年に58歳でなくなったあと、大正10年、88才で死去した。
なお、昭武の墓は常陸太田市の水戸家歴代藩主の墓所、瑞竜山にある。

写真で小さいのが徳川武雄君之墓。
早世した昭武の三男である。


南となりも徳川家之墓。
2019-07-11
比較的新しい墓誌を見れば、徳川圀禎 昭和61年4月21日没とあった。
水戸の本家12代侯爵徳川篤敬の次男である。
とするとこの墓も水戸家の分家である。

ところで本家は
兄、徳川圀順1886年- 1969年(昭和44年)が13代をつぎ、
その長男が圀斉(1912年ー1986年)14代
その長男が徳川斉正(1958年 - )15代である。

なお、12代篤敬の三男、圀秀は子爵松平(宍戸)頼安の養子に、
四男、圀弘は子爵松平(守山)秋雄の養子になった。

宍戸、守山というのは水戸家の支藩である。
水戸家初代徳川頼房(家康の11男)に始まる水戸家の連枝は、讃岐高松松平家、陸奥守山松平家、常陸府中松平家、常陸宍戸松平家の4家あった。水戸徳川本家も含めて相互に養子のやりとりをし、いずれもそれ以外の他家から養子を迎えることはなく、現代まで頼房の血統で続いている。江戸時代の藩では珍しい。

また昭武が列公18男だったように、江戸時代中期以降、水戸本家や分家から、多くの養子を他家へ出している。
Wikiによれば、血統上、高須松平家や会津松平家のほか、紀州家連枝の伊予西条松平家、御家門の越智松平家、さらに幕末以降現代までに徳川宗家・徳川慶喜家・一橋家・清水家と、大半の徳川家や御連枝の家系が頼房の男系子孫となっている。旧華族の徳川姓諸家のうちで一度も水戸頼房の男系子孫の相続がなかったのは、紀州家と田安家の2家のみらしい。

しかも、慶喜はじめ優秀な人が多い。
前述、徳川武定は海軍技術研究所長、東大教授。
東大を卒業し農学博士となった一橋家12代当主、徳川宗敬も、水戸家第12代当主・篤敬の次男である。
なお、初めて飛行機を操縦した徳川好敏は清水家であるが、父、伯爵徳川篤守は水戸家10代当主、慶篤の次男。

ところで染井霊園は、もともと水戸徳川家、府中松平家の墓所があった。
府中松平というのは、水戸家初代頼房の五男・松平頼隆が常陸府中(いまの石岡市)に陣屋を置いて立藩した。

しかし長々と書いて分かりにくい。
水戸家当主を柱にして初代から整理すれば
1.頼房:家康の11男
2.光圀:頼房の次男だが、兄(長男)松平頼重が高松松平祖となる。
・・・
8.斉脩:7代治紀長男、子のないまま33歳で死去
9.斉昭(烈公):7代治紀の4男であったが、長兄斉脩死去のあと当主に。
七男・慶喜は一橋家当主のあと15代将軍に、十八男・昭武は清水徳川家当主のち水戸藩11代藩主に
10.慶篤 :斉昭長男。
11.昭武:斉昭18男。子の武定は松戸家初代、海軍技術中将
12.篤敬:慶篤の遺児。弟が清水家当主徳川篤守
13.圀順:篤敬の長男。弟は一橋家12代当主、徳川宗敬
14.圀斉:圀順の長男
15.斉正:圀斉の長男

分かった?


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2019年7月11日木曜日

T製薬 図書室の全冊を廃棄?

田辺三菱製薬というのは、1990年代から6社が順次合併したから常に事業所の廃止、統合があった。

2007年の田辺と三菱ウェルファーマの合併以降、研究部門については
2015年2月、かずさ事業所を2016年3月に閉鎖、戸田と横浜に統合すると発表。
しかし、
2018年11月、2023年度に向けて、国内に2つある研究拠点(戸田、横浜)を1つにすると発表した。
ゆくゆくは戸田は横浜青葉区、旧三菱化成の事業所に統合されるだろうと思っていたから驚かなかった。それ以前から戸田の研究員の一部は横浜に移転し始めており、今年2019年2月に戸田を訪ねた時も、人がいない研究室が多く、がらんとしていた(→別ブログ)。

ところが半年もたたない今年4月、2023年ではなく2019年中に戸田を閉鎖すると発表。
250名の研究員は5月から順次、武田の湘南アイパークに移ることになった。
https://www.mt-pharma.co.jp/release/nr/2019/pdf/MTPC190411.pdf

そんななか、戸田の旧友、T氏からメールが来た。
移転作業が本格化し、図書室は閉鎖、本をほとんどすべて廃棄、希望者にあげるという。
欲しい欲しいというと、上司の許可も取ってくれ、
7月10日、朝9:00訪問。
 T氏のほかに、G女史、K氏も出迎えてくれた。
K氏は出身やエピソードはよく覚えているのだが、名前だけが出てこず、焦った。

7年ぶりに入る図書室。
数年前から大阪加島事業所に本を移管して、だいぶ少なくなったというが、まだまだ多い。私のいる薬科大より質、量ともにはるかに優れている。
社内報の棚以外すべて持って行っていいという。
東大はじめほとんどの大学図書館にない「国際医薬品情報」が欲しかったのだが、2003年以降のものしかなかった。それ以前のものは処分したという。本は場所をとる。
「化学と工業」。
日本化学会の学会誌だが、薬学会のファルマシアより面白く、入社して20代のころ図書室でよく読んだな。
スモン関連の図書。
こういうものは入手が難しいから廃棄せずに保管すべきではなかろうか。
田辺の研究者たちがサイエンスの点で譲らず、裁判が長引いた事件である。田辺はキノホルムが原因だとは最後まで(今でも)認めなかった。
患者の救済は別問題であり、科学者たるものはこうあるべきではないか? 

研究員の学位論文もすべて捨てるらしい。

Natureは173巻(1954)から、Scienceは118巻(1953)からすべて揃っていた。
Lancetも1953年(264巻)から。
この年は田辺にとって何かあったのだろうか?
なお研究所が世田谷から戸田に来たのは1960である。


Advance in Carbohydrate Chemistry は第1巻1945年からあった。
それにしても捨てるなんてもったいない。
しかしネットで読めるとなると場所を確保して保管しても誰も見ない。
ましてや事業所が統合されるなら重複もあるだろからますます不要である。
仕方がないのだろうか?

でも当時の人々は、これらを購入するのに相当大金を払ったはずだ。それでも海外の情報が欲しかった。そしてネット時代になる前、つい最近まで先輩たちはプロとして熱心な人ほどこれらのページを夜遅くまでめくり、ノートに筆写した。
こうした書籍を捨てることは、彼らの払った努力、情熱までも一緒に廃棄処分してしまう気がする。
せめて写真でも撮るか。
 JCS すなわちJournal of the Chemical Society は1927年(昭和2年)から揃っている。

私の博士論文のもとになった研究を投稿したBritish J. Pharmacolは1946年からあった。当時はBritish J Pharmacology and Chemothrapyという誌名だった。

JACSは1918年からある。
大正7年だから震災前、第一次世界大戦が終わった年だ。
保存状態も良い。
当時は構造式に二重結合が書いてない。
JACSを初めて見たのは修士課程にいた1980年ころ。当時はすでに他の雑誌よりも大型であったが、1918年はA5判、小さい。

「医学の歩み」は紙が貴重だった昭和21年からある。

本を選んでいる途中、薬理部門の知人が、図書室にある荷造り梱包用の資材を取りに来たのだろうか、何人かきた。そのたびに挨拶、おしゃべりして中断。3人のうち2人は会話中必死に名前を思い出した。

本を選び終わると11時を過ぎていた。
宅急便をすすめられたけど、リックと手提げ袋で電車にのって大学に持ってきた。

この日もらったのは左から
1. 科学 vol.12(1942)-16(1946) 岩波書店 
2. 化学 vol.18(1963) 化学同人
3. 生体の科学 vol3, vol.4 (1951-1953) 医学書院
4. 薬学雑誌 191-202(1898)明治31年
5. 医学の歩み 第2巻(1946)日本医学雑誌株式会社
6. パッチクランプ実験法 岡田泰伸編(1996)吉岡書店
7. 明薬今昔史 1978 明治薬科大学75周年
8. 長井長義伝 金尾清造 1960 日本薬学会
9. 東京薬科大百年 写真集 1980
10.外国人の姓名 島村修治 1971 帝国地方行政学会(株)

(2019-08-22 追記)
8/21再び訪問、またもらってきた。

1.化学と生物 第1巻 昭和37.11~38.12 農芸化学会の機関誌
2.薬学雑誌 明治32年
3.有機合成化学協会誌 第1,2巻 昭和18-19年
4.Science 1953
5.Nature 1954

Natureなどの背表紙には G.TANABE&Co と打ってある。
田辺五兵衛商店である。
田辺製薬への社名変更は1943年であったが。


2019年7月9日火曜日

株ねぎの栽培とネギの種類

4月14日に種をまいた九条ネギ。
3か月も経つのにちっとも大きくならない。
日当たり不足?
11月以降の収穫目指してとっくに定植しているべきなのに。
2019-07-08 九条ネギ実生
冬に食べるには、いま何をしたらいいか?
ある程度成長した苗を植えればよい。
いや、苗よりも泥付きネギを植えれば今からでも食べられる。

スーパーに行ってみる。
不忍通り 肉のハナマサ
道灌山通りマイバスケット
 どれも根が切ってある。これでは苗にならない。
サミットに九条ネギがあった。
根もついている。これにしようかな・・・
でも家のネギと同じだ・・・

ネギは、生物種としては1種、Allium fistulosumである。
栽培品種は国内だけでも数多く、大きく分けて
1.根深ネギ(長ネギ・白ネギ):深谷ネギ、下仁田ネギなど
2.葉ネギ: 九条ネギなど。
がある。
前者は東日本に多く、太く、茎を食べる。
後者は西日本、細く、葉を食べ、分けつで増える。

分蘖(ぶんげつ)で増えれば、種をまかなくとも永遠に収穫できる。

スーパーでよく見る深谷ネギは、太い一本ネギとして商品にするため分けつしない。
深谷農研2号という味の良い分けつ種もあるようだが、断面が円にならないため市場価値が低くほとんど栽培されていない。

・・・
駒込病院と天祖神社の裏、今や少なくなった八百屋さんに行ってみた。
小さなマンションの1階店舗を臨時に借りているような様子で、いつ見ても客はいない。

「泥ねぎありますか?」
あるというのでどんなネギかと聞くと
「株ネギだね」
「深谷ネギとか九条ネギとかの種類で言うと何ですかね?」
「だから株ネギという種類です」

こんな普通名詞みたいなネギの種類があるかと家で調べたら
株ネギ:
・相模原市で明治・大正から栽培されているらしい。
・分けつ性が高く、1株当たり10~20本に分けつ。
・根深ネギに比べて葉鞘が柔らかく、辛みが弱いため、生食に向く。
・収穫は11月 - 4月。
・種子繁殖はほとんど行われておらず、株分けによって増殖させる。

とあった。
再び雨の中、買いに行く。

川越から売りに来ているという彼は、
野菜くずのゴミ袋と思われた、大きな米の紙袋に手を突っ込み、下の方から枯れ始めているネギを取り出した。
古い葉っぱをむいて白いきれいな商品ネギに仕立てようとするので
「あ、泥の付いたまま、そのままでいいです。プランターに植えるので」
「もう植えてもダメだよ。早く食べたほうがいい」
「でも、埋めたいんです」
「枯れて虫がついて、食べられなくなる。早く食べたほうがいい」
しかし、無理にそのまま包んでもらった。
もうネギも終わりということで100円。

「収穫が11月から4月」というのは、玉ねぎやラッキョウと同じように夏期に葉が枯れるのだろう。八百屋さんの早く食べたほうがいいというのはこのことか。
「株分けによって増殖させる」ということから、このネギさえあれば増えるはず。

2019-07-08
切ってみると断面は2-4本に分かれていた。
なるほど。
このため深谷ネギのようにきれいな円にならない。

1本に見えても中は4本、この状態で枯れると下に芽が4つのこる。
一旦枯れて秋には4本のネギが発芽。
4本に増えたネギの1本は、再び中が3-4本に分かれているだろう。
(ネットには10~20本になると書いてある。もっと下で切れば4本より多く見えるのかもしれない。あるいは根から直接分けつするか?)
さて8本あったので2本ずつ
1.10センチに切って埋める
2.20センチに切って埋める
3.切った根を外で保存
4.切らずに保存

根の部分は5センチもあればいいかと思うが、すぐ伸びて食べられるかもしれないので20センチにして埋めてみる。
また、
3は、例えば九条ネギは干してから埋めると発芽、分けつがいいらしいので。
4は、切ったネギと「持ち」がどれくらい違うかの確認用。
2019-07-08

ちなみにネギ属Alliumは、ヒガンバナ科(スイセン属、アマリリス属など含む)であり、
 タマネギ  A. cepa
 ネギ  A. fistulosum
    ワケギ var. caespitosum Makino
 ニンニク  A. sativum
 ラッキョウ  A. chinensis
 ギョウジャニンニク  A. victorialis
 ニラ  A. tuberosum
 ノビル  A. macrostemon
 アサツキ  A. schoenoprasum
などがある。
2019-07-08
ふとラッキョウのあった場所を見たら、取り残した小さな球根から発芽していた。


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