2025年12月8日月曜日

伊勢2 田丸城と付家老、万石陪臣

夜行バスで三重県に来た。
12月3日、名古屋から近鉄に乗り、伊勢市駅での乗り換え時間で神宮外宮の入口を見たことは前のブログで書いた。

次に、伊勢市駅からJRで戻る形で、今回の目的地の一つである田丸に来た。
この地名は2年前まで知らなかった。

2年前、和歌山城に行ったとき、紀州徳川家の55万5千石はいったいどこから穫れたのだろうと考えた。
紀州は木の国、ミカンのとれる斜面はあっても、米作の適地は多くない。一番の穀倉地帯、紀ノ川流域4郡では24~30万石と推定されている。有田、田辺などを含む紀州全体でも37~38万石程度とされる。残りは遠く離れた伊勢の松坂、田丸、白子だという。
紀州藩領

そして今年の1月、クルーズ船が三重・和歌山の県境、新宮に寄ったとき、新宮城(丹鶴城)を訪ねた。ここは紀州藩の付家老・水野氏3万五千石の居城だった。
付け家老というのは家康の晩年の子たちが御三家として独立するにあたり、後見役として付けた譜代大名のことで、大名でありながら家臣として仕えた。
紀州徳川家では、水野氏のほかに安藤、三浦、久野氏がいた。この久野氏が伊勢の田丸1万石の城主だったということで田丸城を知る。1万石というのは陣屋程度しか持たないものだが、田丸城は続日本100名城の一つになっている。
そして今回、伊勢に来るにあたり、その田丸城を見に来たのである。

伊勢市駅を8:17に出発、
JR参宮線で田丸駅着 8:28
8:31
田丸駅。
駅の表札、扁額だけ古いが駅舎は新しい。
もちろん無人駅。
8:32
田丸は田丸城しかないと思っていたが、地元が一番の観光目玉として売り出しているのは、すなわち小さな駅前ロータリーに設置されたモニュメントは「熊野街道出発の地」であった。熊野からはずいぶん離れているが世界遺産の威力は大きい。

真面目に書くと、田丸は伊勢神宮の西に位置し、神宮を参拝した人がついでに熊野に行くとき、ここを通って紀伊半島の東側の海沿いを南下した。この道を熊野街道・伊勢路といった。しかし道路はつながっているから、熊野に通じるからと言って「出発の地」というのは無理がないか。
また大和から伊勢神宮に向かう初瀬街道は、名張、津、松坂を経てここ田丸で熊野街道伊勢路とぶつかる。今と違って昔は交通の要衝だった。

モニュメントは熊野古道の世界遺産登録の3年後に建てられたが、人形に独特の味わいがある。
しかし当然のことながら駅前の道案内に「熊野」あるいは「熊野街道」の方向を指す案内板はなく、田丸城址、村山龍平生誕地、玄甲舎の3つのプレートがあった。

プレートの指し示す向きに歩くとすぐ城山の森がみえた。
8:35
外堀の中に保育園があった。
よく城内に高校がある場合があるが、戦前に旧制中学を置くほど田丸は明治以降発展しなかった。
ここまで駅から3分。
そもそも駅が近いということは、城の周りに大した城下町がなかったことを示す。
あるいは武家屋敷、宿場町は反対側にあったか。
8:36
保育園の隣に残る内堀

8:37
内堀に沿って歩くと城の入口
8:38
これを見ると内堀はごく一部しかなく、山をめぐる外堀の一重だったようだ。
山上に本丸、二の丸、北の丸がある平山城である。

8:40
上がっていくと学校らしき建物があるが、ひと気がない。
この先は上がれないのでいったん坂を下がると本丸への道は続いていた。
8:41
蓮池という。
濠の役はなく、庭園にしては石がない。
籠城したときのために鯉を養殖できるか。

池を回り込むと本丸、北の丸の立派な石垣が見えた。
8:43
田丸城は南北朝時代、後醍醐天皇を吉野に迎えようと伊勢に下った北畠親房が、ここ玉丸山に城を築いたのを始まりとする。北畠親房は清華家の公卿(正二位・大納言)でありながら村上源氏の流れをくみ源氏長者になるなど武将としても働き、足利尊氏と対立してから神皇正統記を書いた。

室町時代は北畠氏(庶流)が伊勢国司をつとめ、ここを本拠地として田丸氏を名乗った。しかし織田信長の伊勢侵攻で、次男の織田信雄が伊勢北畠氏の養子となり、その田丸城を大改築した。
その後、蒲生氏郷、稲葉氏、藤堂氏の支配下になるが、1619年、駿府から紀州に移った徳川頼宣の領地となった。紀州徳川家の付け家老として駿府からついてきた久野氏は1万石を与えられ、居城ではなく城代として田丸城に入った。そして代々、田丸領6万石を管理し、明治まで続いた。
8:43
石垣の反対側、山の中腹は三の丸。
坂を上がってくるときに見えたのは玉城町立玉城中学の裏側だった。
しかしこの先に道路があるわけでなく、なぜ正門を坂を上がったすぐの東側に作らなかったのか、理解できない。

ちなみに田丸は明治22年の町村制施行のとき、村ではなく最初から田丸町として発足した。城下町、宿場町として栄えていたのだろう。ただしその後は発展しなかったようだ。
そして1955年東外城田村、有田村と合併したときに玉城町(たまきちょう)と改称した。玉城は田丸城の別名、玉丸城からとったものかもしれないが、こじつけのように苦しい。そのうえ、城も駅も、役場の所在地も江戸時代の地域名もすべて田丸である。田丸町のままのほうが町の実態を表していて自然である。
田丸城

紀州藩は一国一城令の例外で、紀伊、伊勢の二国で
 和歌山城、
 松坂城(紀州家伊勢領18万石を統括)、
 田辺城(安藤氏、3万8千石)、
 新宮城(水野氏、3万5千石)、
 田丸城(久野氏、1万石)の5城を保持した。

ここに安藤、水野、久野は付け家老である。付け家老は本来は1万石以上の大名であるのに、御三家の家老すなわち陪臣のようになってしまった。明治維新ではこれが問題となる。しかし水野、安藤、また尾張徳川家の成瀬、竹腰、水戸徳川家の中山の計5家は明治政府から独立大名として認められ、廃藩置県でも独立県となり、明治17年の華族令で男爵になった。

しかし、他の付け家老は、万石以上陪臣が男爵という内規があったにもかかわらず、最終的には授爵されず、紀州の三浦家(紀伊貴志1万5千石)も田丸城代1万石だった久野家も士族のままだった。三浦家は明治33年に男爵となったが、久野家はついに士族のままだった。

ちなみに、久野氏は遠州の国人で、家康が関東に移ったとき下総佐倉に1万3千石を与えられたが、刃傷沙汰から1000石まで改易された。関ヶ原で功あり、田丸城代となる前に8500石まで復した。
8:44
三の丸から本丸に上がっていく。
建造物が何もなく高い石垣だけが目立つ正面入り口は安土城址を思わせる。

8:45 本丸。
織田信雄の時代に三層あった天守台の石垣が残る
当時の立派な石垣のほかはすべて喪失した。
今はベンチすらない。観光地化、金儲けしようとしていない点は、なかなか良い城である。
8:46
本丸からの眺め
交通の要衝として初瀬街道、伊勢街道(熊野道)がよく見える。

本丸から三の丸を見下ろす。
玉城中学校がみえる。
8:48
年に一回の歴史講演会の演者の記念植樹。
天皇陛下や大統領が来町して植樹したなら分かるが、講演しただけで城跡に記念が残るのは演者として嬉しいだろう。同時に玉城町の素朴さも感じられる。
何の木か知らないが、ミカンでも植えたら良かった。三の丸の中学生に管理させ、年に一度の郷土学習の日に講演を聴きながら食べさせたら良い。
8:49
二の丸(左)と本丸の間の空堀。
二の丸から帰り道に降りることはできないので、ここで引き返す。
8:55
大手門跡から外堀と町役場をみる。
登城前に保育園から内堀に沿って歩いた道は、玉城町役場の裏だった。
役場は紀州藩同心屋敷跡に建つ。

大手門跡の右には駅前の案内プレートにもあった村山龍平記念館がある。
朝日新聞の創刊に参加し、のち社主、社長。
田丸城の敷地は玉城町有であるが、村山龍平の寄付金をもって旧・田丸町が払い下げを受けたものらしい。時間がないので寄らず、急いで駅に向かう。
8:59
駅について上りホームへの跨線橋を渡る。
田丸の城山が見えた。
予定通り、9:02発の列車で松坂に向かう。
(続く)

20230708 和歌山2 伏虎城の楠と野面積み

2025年12月7日日曜日

伊勢1 高速バスと近鉄で神宮、外宮の門前まで

 縁もゆかりもない三重県が気になっていた。

というのは、和歌山同様、東海道新幹線の軸から外れているため、ほとんど旅行をせず出張の時に立ち寄るくらいの私には訪ねる機会がなかった。
会社員時代、名張の研修所に2,3回行ったが、伊賀の山中で三重県をみたとは言えない。伊勢神宮も見たし、奈良から名古屋に出るとき関西本線の接続の関係から夜の亀山城も訪ねたがこれも三重県を見たとは言いがたい。

やっぱり、三重といえば、津、四日市、桑名である。
そういえば、兵庫以東の県庁所在地で行ったことがないのは津だけである。これは行かなくてはならない。
とはいっても用事もないからずっと先延ばしになっていた。

12月1日の夜、手帳を見ていて二日後の12月3日に何もないことに気が付いた。
ダンスに週5回、畑、スーパーの野菜売り場、医療関係のスライド作りのバイト、その他、家族との行事などで埋まり、こういうことは珍しい。

日帰りだから、明日の夜、高速バスで出発しなければならない。
調べたら三重県まで直接行こうとすると高いが、名古屋までだと2300円である。安い。

帰りは夜行バスの出発まで待っているのは嫌なので名古屋から夕方の新幹線にしようと思ったら、17時発のJR高速バスがあった。これも2400円。

一人だから自分が決断するだけでよい。
もう翌日のことであるが行くことにした。
地図を見ながら三重各地の必要最低滞在時間、列車発着時刻を調べた。
夜中までかかってしまった。
行動地図をつくっても、なおも面倒くさいという気持ちから迷いがあり、そのまま寝た。
しかし、翌朝、最後の決断をし、高速バスを当日予約した。

この手書きメモ(地図)一枚をもって、バイトに行く。
いまFcRn阻害薬の妊娠女性への適用に関する医師向けスライドを作っている。12月はみんな色んな仕事で忙しそうだけど、社長に「明日、休ませてください」という。(ここは一番時給が高くて自由に休める。時給が安いところほど人手不足で休めない)

夕方成増でのダンスの練習のあと、有楽町の鍛冶橋バスターミナルに行く。
大きなスーツケースをもった外国人でいっぱい。前回、和歌山?青森?高松?山形?と比べても特に多かった。京、大阪方面に行く外国人にとって、大いに時間と費用の節約になる。

12月2日、22:30東京発。
横浜、浜松で高速道路を下りて乗客を乗り降りさせる。こうすることで名古屋までなのに早く着きすぎることがない。
12月3日、予定より少し早く未明の5:30前に到着。
ここから近鉄で三重県に入る。

5:35
近鉄名古屋駅、正面改札口
料金表をみてみた。
桑名 530
四日市 760
津 1210
松坂 1530
伊勢市 1740
だいたい、今回行きたい町の位置関係と距離が想像できる。

西のほうを見れば
奈良 2710
大阪阿部野橋 3000
京都 3130
近鉄はJRグループを除けば路線網の長さが日本一、名前通り近畿地方に広がっている。
その東端がここ名古屋だが、「正面改札口」と書かれて、この小ささは何か? 理由は間もなく分かった。

5:41
ホームに降りると広い。
終着駅らしく行き止まりの線路が何本もある。
その先に名鉄乗り換え口、JR乗り換え口の広い改札があった。
多くの乗客は正面改札口を使わずにこちらを使うのだろう。

予定では最初に田丸に行くはずだったが、途中の津あるいは松坂でJRに乗り換えるのと、田丸の東の伊勢市まで行ってJRで戻ってくる2つの行き方があり、後者をとった。伊勢市での待ち合わせ時間が25分あって、昔伊勢神宮にいった記憶が蘇るかもしれないと思ったからである。

5:50 名古屋発。急行。
6:33 近鉄四日市、塩浜を過ぎたころ、暗い窓の外に、中東の油田のように炎が燃えている煙突が見えた。そうだ、四日市は石油化学だった。
写真を撮ろうと思ったが、窓ガラスに明るい車内の私が反射して写真をとれず。西日本は東京より夜明けが遅い。だんだん明るくなってきたとはいえ、まだ炎は暗い中に燃えていた。
そのうち眠った。
7:09 終点、伊勢中川に到着し目が覚める。
ここは近鉄名古屋―鳥羽線と大阪線との分岐点である。大阪からの線路は伊勢方面に向かっているから、大阪から名古屋までいくときはスイッチバックしなくてはならないが、直通電車は駅の西の中村川に短絡線があり、伊勢中川駅には寄らずスイッチバックはしない。

ここで急行から各駅停車に乗り換える。
とたんに地域色が濃くなった。
ちょうど通学時間帯にぶつかり、周りが高校生ばかりになった。
年寄りの女性が立っていたが、誰も席を譲らなかった。
ひょっとすると、世間の道徳でしばられない、このほうが自然な姿なのかもしれない。

隣の女子高生が漢字練習をしていた。
小学生が使うような練習帳で上のほうのマスは薄く書いてある文字を鉛筆でなぞり、下のほうは自力で書く。いまはキーボード、下手すると音声入力だから読めても書けない人が多くなったのだろう。

7:25 東松坂
ここで高校生の多くは下りた。県立松坂高校(徒歩)と私立三重高校(自転車)がある。
車内が空いて向かいの窓から稲刈りの終わった田んぼがみえた。

07:29 櫛田
07:32 漕代(こいしろ)。しかし本来は渭代(いて)だったのが漢字が変わって読みも変わったというが、そんなことってある?

07:34 斎宮(さいくう)。飛鳥時代から南北朝時代まで約660年間、天皇に代わって伊勢神宮(天照大神)に仕えた未婚の皇族女性すなわち斎王(さいおう)がいたところ。斎宮は137ヘクタール、斎王に仕えるのは500人以上もいた都市で、大宰府よりは小さいが国府よりは大きかったらしい。もちろん今は田畑の下であるが、三重県立の斎宮歴史博物館がある。

07:37 明星
07:40 明野 1980年代の10年で春3回・夏5回甲子園出場した明野高校がある。

7:48 伊勢市駅到着
列車を下りるとすぐ、裏口のような小さな改札口があった。
伊勢神宮は反対側というのは分かっていたが、あまりにもドアを下りた目の前にあったため、つい出てしまった。踏切を渡って神宮側に出ようと思ったのが間違いだった。
ここは近鉄とJRが並行し、その間に引き込み線、操車場があり、構内の幅が広いから地下道や踏切は簡単に作れない。ずっと西のほうに歩き、線路群の幅が狭くなったところにようやく踏切があった。しかし田舎なのに時間帯が悪かったのか、なかなか遮断機が上がらない。もともと時間はないのに、大いにロスした。

7:59
伊勢市駅
急いで歩いてようやく駅の神宮側に出た。
最初の目的地、田丸へ行く列車は 8:17発亀山行きを確認。
もともと滞在可能時間は29分しかなかったのに、そのうち10分もロスした。

24年前の2001年に来たときは、もちろんこちらの正面改札口から出た。
駅舎改築が1993年だが、塗り直しが2011年ということもあるのか、全く記憶がない。

あと17分あるから7分くらい歩いて帰ってこよう。
駅の正面からまっすぐ参道が伸びる。
8:03
伊勢神宮外宮への参道
平日のこの時間だと人もいないし店も開いていない。
8:04
外宮
内宮と違って駅から近い。
道路(県道32号、御木本道路)の向こうは境内である。

2001年秋、以前在籍した田辺製薬では45歳になると、今後の人生を少し考えなさい、という「45歳研修」があった。営業所や工場も含め全国から45歳が名張の会社研修所に集まり、2泊3日で人生を考える。夕方集合だったので、日中、伊勢神宮を訪ねた。11月28日だったから季節はちょうど今である。
伊勢市駅と外宮周辺。
そのときの外宮はあまり印象、記憶がない。
24年前は、このあと内宮まで歩いた。
4.3キロメートル、1時間。
外宮と内宮を結ぶ近道として、真珠王御木本幸吉が資金を出して山などを切り開き1951年に完成した道は、途中、商店、民家などあまりない。距離と時間以上に疲れた記憶だけある。今は決して歩かない。

内宮は社殿のほかにもおかげ横丁、五十鈴川の宇治橋が記憶に残る。
山口誓子俳句館で生誕100年の記念展をやっていた。
 ・海に出て木枯らし帰るところなし
 ・巣燕の覚めゐて四時に竃焚く
に感動し、一の鳥居をくぐった五十鈴川の御手洗場で、私も
 ・鯉ゆらり水面に冬の空光る
の駄句をつくった。
外宮、内宮の周辺図
2011年、参拝が終わり宇治橋へのまっすぐな砂利道を歩いていると、皇宮警察のような人に脇によけられた。振り向くと周りを囲む警護の人の歩みに合わせてゆっくりと黒塗りの車が近づいてきた。彼に聞くと「島津貴子さまです」と返ってきた。という記憶は間違いで、今調べたら池田厚子さまだった。1988年から2017年まで祭主をつとめておられる。2日前に入って清められ、勤めを果たして帰られるのだろう。

そのあと、性懲りもなく、また駅まで歩いた。たぶんおかげ横丁から2キロメートル離れた近鉄五十鈴川駅か。知らない街は歩けば何かに出会うはずだと信じて。
そしたら途中、なんと天皇皇后両陛下(現上皇ご夫妻)の車に遭遇した。
大して面白くもない広い道を歩いていた時、おばさんたちの集団がいた。聞けば、「天皇陛下が来るんです。一人でいたらパーっと過ぎちゃうからここにいなさい」という。混ぜてもらってしばらくすると、三重国体に行幸された両陛下の車列がやってきて、2台目に天皇旗。
我々を認めると徐行して窓を開けて手を振ってくれた。あとの車列には県知事でも乗っていたのだろうか。
もちろん信号機は操作されている。午前中から警察の警備があるがいつ通過するかは知らされないらしい。午後になると「何時何分に通過するから二階から顔を出さないように」と注意されるから、その時になってぞろぞろ出てくるという。

外宮の前の2枚の路上看板地図をみて、こうした24年前を思い出しながら駅に戻った。
8:11
伊勢市駅駅
鳥居を通すと、まるで駅が社殿のようだ。
いっそのこと、駅舎を伊勢神宮そっくりにすればよかったのに。

伊勢市、伊勢市駅という名前はずいぶん今風のにおいがするが、意外と古く使用は1959年である。
もともと伊勢神宮の鳥居前町は外宮が山田、内宮が宇治だった。
明治20年の市町村制がはじまったとき、宇治と山田を合わせて宇治山田町が発足。明治39年(1906)に宇治山田市となった。1955年名称を伊勢市に変更した。
これに応じて、明治30年(1897)開通の参宮鉄道の山田駅は、1959年に伊勢市駅と改称した。

ちなみに、双子のような山田と宇治は昔からライバル関係にあったらしい。
中世は内宮(宇治)が上だったが、南北朝のころから外宮(山田)が上になり、明治以降は駅や市役所が山田地区に置かれたが、近年は宇治のほうが観光で栄え、山田はすたれているという。
8:26
JR参宮線で田丸に向かう。
何かを感じてこの写真をとったはずだが、何のために撮ったか思い出せない。

ちなみに近鉄はスイカが使えるが、このあたりのJRは伊勢市駅といえどICカードは使えない。久しぶりに硬貨で切符を買った。

参宮線は明治26年(1893)に開通している。当時の鉄道は軍事、産業優先だが、国家神道の時代、地方線なのに開通は早かった。
また大正9年(1920)4月施行の旧国道法で国道1号線は東京―伊勢神宮である。当時は放射状に東京から各県庁所在地までの道路に番号を振り、2号、3号が東京―鹿児島、4号、5号が東京ー札幌、東京―青森だったとはいえ、神宮の地位の高さは今とは比べ物にならない。

(続く)