2024年10月12日土曜日

不知火割れ、ナスを抜き、白菜植える

2024₋09₋22
今年は久しぶりにインゲンを作った。
ダイソーで2袋110円なのでインゲンとゴボウを買った。
両方とも発芽率は良く、特にインゲンは健やかに成長した。

ところが花は咲いても実ができない。
ネットを見ると暑すぎると実がつかないらしい。
それにしても今年は暑かった。

まだ花はあり、涼しくなれば実をつけるかもしれないが、大根(二次)の場所がないので、こちらのインゲンは片づけた。
2024₋09₋22
別の場所のインゲンはウリハムシに食われた。
この成虫はウリ科だけでなく、アブラナ科、インゲンなどの葉も食う。
幼虫は根を食うらしい。
まだインゲンの種は袋に残っているが、来年はやらない。

2024₋09₋29
ゴボウは成長度に差がある。
まだ掘ってないので出来は不明。
左は落花生、奥はサツマイモ。

2024₋09₋29
芽キャベツなど秋野菜
キャベツは長年、10月に種まき、越冬させて6月に収穫していたが、昨年に続き、今年も秋キャベツを作っている。

2024₋09₋29
大根(一次)は例年通り宮重総太り。
9月2日に種を蒔いて、4週間でこのくらい。
大根の間に白菜、ノラボウ菜の種をまいて苗を作っている。

2024₋09₋29
サトイモは昨年より出来は良い。
スーパーで発芽して40%OFFで売っていたものを種芋とした。
場所がなかったので、空きスペースを探して3か所に植えてある。
2024₋09₋29
今年初めて実をつけた不知火。
なぜか実が割れてしまう。すでに13個生ったのに1つ落ちて、4つ割れた。
トマトなどと同様、夏の肥大期に渇水高温が続いたところに長雨が来たりすると、果皮が十分伸びていないのに根からの水分が大量に中身へ供給されて割れると書いてある。 

しかしこれは答えになっていない。中身と外皮の成長度合いが違うのが問題なのであり、もし両方とも渇水時期に成長せず、雨で成長するなら割れないからだ。外皮が雨では伸びないということだろう。
2024₋09₋29
イチジクの幹から出る虫の糞。
千駄木菜園では4本目の木で、初めて市販品と同じくらいの実をつけた。
しかしこの日見るとカミキリムシ(の幼虫)にやられていた。
カミキリムシはイチジクの匂いが大好きのようだが、垣根のレッドロビンにもついた。かんきつ類など他の木にも来るらしいので、残念だがイチジクは切ろうと思う。

2024₋09₋29
こちらはナス、ピーマン。
2024₋09₋29
この日の収穫。秋になってだんだん色が悪くなり、皮も固くなってきた。

10月になってもまだとれるが、ナスの場所は白菜(実生)を植えることになっている。
そろそろ白菜に場所を譲らねばならない。
2024₋10₋10
ナス、ピーマンを抜く。

都会で野菜を作る時は土地がないから、後の作物が遅れたり、先の作物を早めに見限ることが多い。
2024₋10₋10
片付けるに先立ち、生っている実を全部とった。
しばらくはナス、ピーマンばかり食べることになる。
2024₋10₋11
翌日、白菜の苗を植えた。
教科書やネットは、定植する2週間以上前に石灰や肥料を入れて畝を作っておくと書いてあるが、私はへそ曲がりだから(面倒だから)、前作を抜いたらすぐ、施肥もせず整地しただけで後作を植える。
それでそこそこ上手く育つ。

ネットなどの栽培法は、その方法が最適であるという結論に至ったデータが示されていない。それに従わないと何パーセント減収するなどといったデータががあれば信用するのだが・・・。
ましてや自分で実験せず、ネットをうのみにして標準法?をそのまま紹介している人の言うことなど信用する気になれない。
サイエンスの世界をずっと見てきた人の職業病かもしれない。

2024年10月10日木曜日

山形8 庄内町余目駅の清河八郎と月山

9月19日、山形県に日帰りで来て、米沢から奥羽線の各駅停車に乗って北上し、山形、新庄の城下町を見て、JR陸羽西線の代行バスで最上峡を通った。

両側に山が迫る最上峡が終わると同時に、最上郡から東田川郡に変わり、最上川が消え、大平原に出た。

13:59
果てしなく続く穀倉地帯。
庄内平野は(日本にしては)山が遠い大平野であるが、東の端は山峡から出てくる最上川の扇状地のように見える。扇状地は湧き水地帯より上は水田ができないものだが、さみだれ大堰のおかげか。
14:04
右手に山が見えた。方角的にたぶん鳥海山だろう。
この山を初めて見たのは1992年4月1日早朝。秋田市で開かれる日本生理学会(4/2-4)に行く途中。本来1日の昼に出発するところ、急遽(1時間前に思いつき)前日3月31日の大宮発23時ころの夜行列車に飛び乗った。ボックス席の座席がずれて平らになり居酒屋の小上がりのようになる構造で、4人分のスペースを独占して寝られた。朝目覚めて車両連結部の洗面所に行く途中、窓の外に雪をかぶった大きな山が見えた。朝日が当たり神々しいほどだった。

バスは右折し水田地帯から町中に入っていく。
14:12
余目(あまるめ)駅到着
ここは新潟から鶴岡、酒田を経て秋田に向かう羽越本線の駅で、新庄からの陸羽西線の終着駅である。代行バスは新庄とこの駅の間を結んでいる。

鶴岡行きの電車の発車まで少し時間があった。
14:13
駅の待合室に清河八郎コーナーがあった。
関連図書が自由に読める。
「維新の魁、清河八郎を大河ドラマに」という幟があったが、どうだろう?

清河八郎(1830 -1863年)は、最上峡の出口、代行バスが通って来た旧田川郡清川村(現庄内町)の庄内藩郷士・齋藤家に生まれた。斎藤家は酒造業も営み、庄屋格の家柄だった。彼は早くから学問に目覚め、江戸に出て神田お玉ヶ池にある東条一堂の塾に入門。さらに北辰一刀流の千葉周作の玄武館で剣術を学び頭角を現す。やがて自身で文武の塾を開く。

八郎は尊王攘夷思想に傾いていき、桜田門外の変(1860)のあと、山岡鉄舟らと「虎尾の会」を結成し、自身は盟主となる。幕府から危険人物とみられ逃亡の身となるが、京都、九州で多くの攘夷志士と知遇を得る。

そして幕政が改革され実権を握った松平春嶽に、山岡鉄舟らを通じ、浪士組の設立を提案。
浪士組は江戸の浪人をあつめ上洛する将軍家茂の警護、さらには京都での治安の維持に努めるというもので、これに春嶽が乗った。同時に大赦によって(役人を切ったという)罪を許された。
芹沢鴨や近藤、土方、沖田ら234人の浪士組が小石川伝通院に集合、京都に出発する。ところが京都についた後、八郎は「浪士組は幕府を欺いて作ったものだ、真の目的は尊王攘夷」と、浪士組を幕府でなく朝廷の下に置くことを宣言した。
(これに驚いた芹沢、近藤らは、たもとを分かち、のちに新選組を結成。当初の目的通り攘夷志士の取り締まりにあたることになる。)

一方幕府は、浪士組に江戸に戻るよう命令。戻った八郎は討幕を計画、それに先立ち横浜の外国人居留地焼き討ちで攘夷を実行しようとした。しかし、京都で完全に幕府と対立していたため狙われ、幕府の刺客に暗殺された。享年34。

これで大河の主人公になりうるか?
と思いながら駅の外に出た。
14:17
庄内町は細長い。余目駅は西の端で、東の端、清川から立矢沢川の谷が南東に細長く伸び、月山まで続いている。

芭蕉は月山(標高1984メートル)に登っているが、当時の46歳はどのくらい元気だったのだろう? 彼は清川から立矢沢川を遡ったのでなく、西の旧立川町から羽黒山南谷別院(現鶴岡市域)にいき、そこで6泊してから月山に登頂、頂上小屋で1泊して、さらに湯殿山にも寄っている。
14:18
駅前の小さなロータリーに塔が立っていて、町自慢が掲げてある。
「月山山頂の町」
「コシヒカリの祖先・亀の尾発祥の町」
2つとも、なんとなくほほえましい自慢である。

亀の尾は農事試験場で作られたのではなく、明治時代に庄内町の篤農家・阿部亀治が見つけたらしい。明治以前から庄内藩の影響もあり、熱心な農家が多かったようだ。ササニシキも亀の尾の子孫らしい。

鶴岡への電車は14:27に余目駅を出た。
14:29
庄内平野は広い。
もちろん関東平野、濃尾平野などは広いはずだが、車窓に人家がなく一面稲穂という景色が良い。
14:39
月山の方角を見るが雲がある
あの向こうに午前中通過した山形・村山地方があると思うと山形県の広さが感じられる。

ずっと遠くの山々を見ていて森敦の「月山」(1974)の一場面を思い出した。
冬に行き倒れになった旅人を雪の中から掘り起こし、先のとがった丸太を肛門から差し、火でいぶしてミイラ(即身仏)をつくる。村人以外には秘密だった小屋をのぞいた主人公は、煙の中に串刺しにされたカエルのような姿で脂がぽたぽたと落ちている様子に仰天した。(記憶だから正確でないかもしれない)
その舞台はここ庄内地方の山間の部落だったが、どこだったのだろう?

数年前、出産についての講義で人間の骨盤の穴を説明したことがあった。このとき穴に丸太を通すと首まで行くという話をしたのだが、芥川賞作品の「月山」を知っている学生はいなかった。

日本に十数体あると言われる即身仏のうち、山形県では6体が公開されており、観光案内所にはパンフレットもあった。

・・・・
電車の中で朝からあちこちでもらった地図やパンフレットを整理した。
余目駅でも清河八郎記念館のパンフレットをもらった。
そういえば、清河八郎の墓は文京区にあり、以前伝通院の墓域を目的なく歩いていて偶然見たことがある。手塚治虫「陽だまりの樹」でも出てきた。

年を取ってくると過去にたまたま見たものが、10年、20年経ち、思いがけないところでつながってきたりする。自分の頭の中だけのことながら、加齢の数少ない楽しみの一つだ。

(まだ続く)

20200608 伝通院。於大の方から堺屋太一まで
20200606 三百坂と陽だまりの樹


2024年10月8日火曜日

山形7 代行バスから見る最上峡、俳句とおしん

山形県に日帰りで来て、米沢から奥羽線の各駅停車に乗って北上し、山形、新庄の城下町を見た。

次の鶴岡に行くには新庄から陸羽西線に乗るのだが、最上川の狭い谷に自動車専用の広い道路を作るため、その工事で列車は2022年から運休になり、その沿線は代行バスが走っている。
しかし、これから作る自動車道路だけの為に、唯一の公共交通手段だった鉄道を2年以上も運休させてしまうというのは、本末転倒という気がしないでもない。それだけ鉄道利用者が少ないということか。
12:54
鉄道の代行バスだから陸羽西線の各駅に停まる。
新庄を出ると、升形、羽前前波、津谷、古口、高屋、清川、狩川、南野、余目(終点)である。 しかし13:00発のバスは「急行」で古口だけとまり、余目までいく。
13:00
鉄道と同じように、新庄駅を時間正確に出発。

55席の大型観光バスに乗客は8人。
右側の窓側に座った。今回の旅行は例によってほとんど何も準備しなかったが、最上川がバス(国道)の右側を流れることだけは前もって調べておいた。

バスは新庄駅を出て南西に向かい、国道47号線(鶴岡街道)に入る。
しばらく行くと最上川にぶつかり鉄橋を渡り、左岸(南側)に出た。
この橋は本合海(もとあいかい)大橋と言い、最上川がヘアピンカーブしている箇所で、元禄2年(1689)、芭蕉はここで乗船し、庄内まで下った。
13:18
本合海大橋を渡ると最上川がすぐ右に見える。
ここから庄内平野まで、ずっと川に沿った一本道である。

今回山形に来た一番の目的は、最上川を見ることだった。
この川は山形県そのもの、と言っていいと思う。
13:18
球磨川、富士川とともに日本三大急流として知られるが、それよりも流域の広さに魅力がある。
最上川流域は、山形県の面積、人口ともに約 8 割をしめ、全 35 市町村のうち 33(13 市 17 町 3 村)が関わる。まさに山形県の母なる川である。

最上川流域(オレンジ色)

全国的に見ても長さ229 kmは、一つの都府県のみを流域とする河川としては日本一である。流域面積は7,040 km2で、以下のように9位。

日本の川の流域面積ベスト10
1位 利根川 16,840km2 渡良瀬、鬼怒、霞ケ浦
2位 石狩川 14,330km2
3位 信濃川 11,900km2
4位 北上川 10,150km2 
5位 木曽川 9,100km2 長良川、揖斐川
6位 十勝川  9,010km2
7位 淀川     8,240km2 琵琶湖、滋賀、三重
8位 阿賀野川 7,710km2 猪苗代、山間部が多い
9位 最上川 7,040km2 
10位 天塩川 5,590km2 

しかし、例えば、渡良瀬川、鬼怒川、霞ケ浦は利根川流域と思うだろうか。
3位信濃川も長野県内では犀川、千曲川に分かれ、一本の川と認識されていない。5位木曽川流域などは長良川、揖斐川流域も含まれ、世間が思う木曽川の流域はずっと狭い。
7位、8位の淀川、阿賀野川なども琵琶湖、猪苗代あたりの住民は自分の川が淀川、阿賀野川の上流という意識はない。
その点、最上川は下流から上流まで、流域のほとんどが最上川なのである。 

河口に立って上流を思うとき、最上川の人文、地理の豊かさは木曽川の比ではない。
13:18
最上川に沿って国道47号も大きく右にカーブした。
そのため少し先の道路に落石防止の屋根がついているのが見える。
手前の木の枝に枯草が引っかかっているのは、7月の山形豪雨の名残か。
13:19
相変わらず左は山だが、このあたりは右の対岸に鮭川村からの鮭川が合流し、わずかばかりの平地がある。
13:19
今回、出発前に山形県の地図を見ていて一つ最上川で誤解していたことに気が付いた。
長年、最上川は、米沢から南陽、上ノ山、山形、東根を通る奥羽本線と国道13号線の山形県の大動脈に沿って北上していると思っていた。
ところが、この川は米沢から西北の長井盆地、山間部に入ってしまう。そして寒河江から東に転じ山形の大盆地、天童の北に出てくる。だから山形市民などは最上川と聞いても身近には感じないわけだ。

昔々、生活が村のまわりだけだった時は、川など固有名詞がなく、裏の川とか大川とか清水の川、鮭の川などと呼んでいただろう。しかし大きな川を区別しなくてはならなくなったときは上流の地名をつけたに違いない。(下流に行くにしたがって川は合わさるから、下流の地名を着ければみな同じ名前になってしまう)
だから最上川というのは庄内の人々が最上郡から来る川として名付け、その名が最上郡、村山郡にも広まったのだろう。
13:21
最上郡は8世紀の初めには陸奥国に属した。712年に置賜郡とともに出羽の国になったことは少し前のブログに書いた。その後、最上郡から村山郡が分かれた。このときは今と逆で北が村山郡だったが、太閤検地のときに入れ替えて今と同じになったらしい。そんなこともあり、江戸時代に紅花で有名な最上地方と言えば、最上郡、村山郡両方を指したようだ。
たとえば最上徳内(旧姓高宮)は今の最上郡でなく、村山郡楯岡村(現村山市)の出身である。

いま最上郡は新庄市を中心とする山ばかりの郡で、最上川に沿って下流に行くと逆に山が迫ってくるという地勢である。村山地方が52万人(全県の50%)を数えるのに対し、最上地方は6万6千人(6.4%)に過ぎない。
13:22
鉄橋が見えた。
最上川の北を通っていた陸羽西線が橋を渡り、川と道路を越えて、それの南側(山側)に来る。
このJR路線は全線に「奥の細道最上川ライン」という愛称がある。
13:23
川の中に石が見える。
最上川流域は明治以後、欧米の技術を使って灌漑事業が進んだ。
とくに戦後は米沢平野、泉田川(新庄盆地)、諏訪堰、村山北部、といくつもの国営農業水利事業が行われ、水量が減った。
奥の細道の芭蕉、いかだで下ったおしんの時代はもっと流量が多かったに違いない。

このあと対岸に見えた平地が消え、両側に山が迫る。いよいよ最上峡である。
最上郡戸沢村の古口地区から庄内町の清川地区の区間で、全長15kmに亘る。よく聞く最上峡はもっと上流かと思っていたが、山形の盆地群をゆったり流れてきた下流にある。これは伊那盆地の下流に天竜峡があるのに似ている。上流に大盆地がある山間部というのは、流量と流速を高める条件なのであろう。

やがて右側に最上峡観光船乗り場の看板があるあたりで、バスは反対方向の左に曲がった。
すなわち、国道47号すなわち最上川から離れた。狭い道路を少しゆくと突き当りが古口駅。急行の代行バス唯一の停車駅である。
戸沢村の役場と郵便局がある駅だが、代行輸送が始まる前の鉄道が動いていた2021年で1日の利用者数が16人だった。片道で一人として数えるから実質8人ということだ。

急行(バス)停車駅という沿線一番の駅でこれでは、道路工事が終わって運休期間が終わっても、廃線になるのではないか? 

最上峡というほとんど平地がない地形を考えれは、住民もあまりいないのだろう。山形県で3つしかない村の一つだし。(ちなみに大蔵村も鮭川村もすべて最上郡のこの周辺にある)。

古口駅から再び国道すなわち最上川に戻ると南から合流する川がある。
13:31
角川(ツノガワ、手前)と最上川
遊覧船が川を上っていく。

最上川船下りは、ここ古口に本社を置く最上峡芭蕉ライン観光株式会社が行っている。

コースは3つあり、
1.定期航路(古口港 - 草薙港 12km、所要時間約1時間、2800円)
2.白糸の滝航路(草薙港 - 草薙港 520m、所要時間約30分、要予約)
3.本合海航路(本合海港 - 古口港 8.5km、所要時間約50分、要予約)
である。

周遊の2をのぞいて基本は下りである。昔と違ってエンジンがついていても乗客を乗せて最上川をさかのぼるのは苦しいからだろう。
1,2は両側が山の最上峡、3は片側が平地だが、芭蕉と同じ場所で乗船して下るという意義がある。

この観光船は、旅行新聞社(株)主催「第8回プロが選ぶ水上観光船30選」(2024)で東京湾クルーズ、京都保津峡下りなどを抑えて、4年連続の1位を受賞している。
13:34
いつのまにか陸羽西線(奥の細道最上川ライン)が国道と最上川の間に入ってきた。
電信柱の枯れ草に洪水の跡が見える。
長期運休中のレールは泥に埋まり、さぞかし錆びていることだろう。
13:34
電信柱だけでなく、樹木にも枯れた草。
道路のガードレールも水没したようだ。

JR陸羽西線の愛称には「奥の細道」、観光船には「芭蕉」という名前がついているからには、最上川と芭蕉について無視するわけにもいかない。
山形県観光マップ「奥の細道」出羽路編

最上峡芭蕉ライン観光(株)の船頭さんはおそらく次の句を紹介するに違いない。
 ・五月雨を集めて早し最上川
芭蕉が新庄の南、大石田に泊ったとき作ったのは「集めて涼し」という句だった。しかし本合海で乗船し、この最上峡を通ったとき、その水量に圧倒的され、「集めて早し」となったらしい。

後世の与謝蕪村(1716₋1784)は芭蕉(1644ー1694)を尊敬すること篤く、実際に「奥の細道」をたどり、最上川の句を作っている。有名な
 ・さみだれや大河を前に家二軒
である。
絵師らしく絵画的である。わずか17文字で読み手に二次元(三次元?)の情報を与えるというのは素晴らしい。
蕪村の句は好きで、
 春の海 終日のたりのたり哉
 易水にねぶか流るる寒さかな
 菜の花や月は東に日は西に
 寒月や門なき寺の天高し
 帰る雁田ごとの月の曇る夜に
も情景が浮かぶ。

一茶(1763- 1828)は1789年、27歳の時に東北地方への俳句修行の長旅に出ている。芭蕉、蕪村のことは意識していた。
 ・蝉鳴くや空にひっつく最上川
の句がのこっている。一茶は芭蕉、蕪村が風景だけを詠んでいるのに対し、自分の心情、感想を読み込むという近代的な俳人の魁であったが、この句に関しては良さがよく分からない。

正岡子規(1867- 1902)は蕪村と芭蕉の最上川の句を評して蕪村のほうが優れているとした。それまで芭蕉のほうが圧倒的に有名だったから、この評価は人々に衝撃を与えたという。

子規は見たものを(技巧に走らず)そのまま詠むという写生主義を唱えたから、この評価はうなづける。彼もまた芭蕉の足跡を訪ねる旅に出て、
 ・ずんずんと夏をながすや最上川 
を残した。
さすがである。蕪村が絵画的に大河を表したのに対し、さらに水量を具体的な運動として表現している。

恐らくほかの川でこうした有名人が競作?するようなことはないであろう。
山形に行くと決めた時、そんな最上川をどうしても見たかった。
13:38
また遊覧船が見える。
写真では上っているのか下っているのか不明。

江戸時代、山形県内陸から庄内に出るのは最上川の船だった。いま戸沢村役場のある古口集落には新庄藩の船番所が置かれ、舟運が隆盛を極めた。大水がでて船が使えないときは脇街道として板敷峠越えがあったが険しく、時間もかかり、あまり利用されなかった。
明治10年、最上川左岸に今の国道47号のもととなる磐根新道が開削され、ようやく陸路も通じた。

朝ドラ「おしん」(1983)は1年間の平均視聴率52.6%、最高視聴率62.9%という驚異的な数字を記録した。有名な場面に、数え7歳で材木問屋に米一俵と引き換えに売られてしまい、雪の最上川をいかだで下るシーンがある。あれは左沢(あてらざわ)の材木問屋だからここではなくて寒河江の西の最上川である。
そのあと、今度は8歳で酒田の米問屋・加賀屋に奉公する。このときは最上峡に陸路はあったがおしんは船だったかどうか。磐根新道はまだ狭かった。冬季は雪で閉ざされ、やはり船しかなかった。

ちなみに、おしんの人気は山形で数々の便乗商品を生んだ。「おしんまんじゅう」「おしん酒」などの土産物はわかるが、最上峡舟下り「芭蕉ライン」も「おしんライン」に改名されたという。とすると、やはりおしんは船で酒田に出たのだろう。
13:39
対岸に滝と赤い鳥居が見えた。白糸の滝である。
その少し下流に観光船の終点、草薙港がある。

13:44
草薙を過ぎて最上峡も終わりに近い。
対岸は一面ソバの畑。

13:45
橋のように見えるのは、さみだれ大堰。
庄内平野への灌漑を目的に建設された可動堰である。
ふたたび落石除けの庇の下を通った。
ここで最上郡(戸沢村大字古口)から東田川郡(庄内町大字清川)に入る。

郡が変わるとともに最上峡は終わった。
この峡谷は川の名前から取ったともいえるし同時に郡名から取ったともいえる。
こういうことは実際に来ないと分からない。

(続く)

2024年10月4日金曜日

山形6 寂しい新庄市商店街。城址と戸沢氏

9月19日、夜行バスで米沢に来て、置賜盆地、村山盆地の景色を見ながら奥羽本線で北上、新庄まで来た。

ここは奥羽本線が南北に、陸羽西線と陸羽東線が東西に走る。さらには国道13号と国道47号が交差し、交通の要衝である。そして山形県を4つに分けた時の1つ、最上地方の中心である。しかしながら東北地方以外の人にはあまり知られていないのではないか?

新庄は私にとっては山形全県13市のうち、知らなかった2つの市のうちの一つであった。(あと一つは南陽市)
昨年文京シビックホールで行われた藩校サミットに新庄藩があったが、山形のどこにあるのか知らなかった。

駅は新しい。
ここも山形新幹線がきたときに建て替えたのだろう。
11:35
新庄駅
とりあえず、駅からまっすぐ、新庄城にいく。
新庄藩6万石は成立から明治までずっと戸沢氏が治めた。
11:36
駅前通り。
出羽の隔離された小盆地ということで城下町の雰囲気を期待したのだが、それらしさがまったくない。道路も広い。

この、城下町らしさがないというのは、戊辰戦争と関係あるか?
新庄藩は、いったんは奥羽越列藩同盟に参加したが突然脱退し、秋田藩とともに西軍についた。慶応4年7月、裏切りに激怒した庄内藩の攻撃を受けて新庄城は陥落、城下町は大半が消失した。
恐らく復興もされていない明治11年、米沢、置賜を東洋のアルカディア(桃源郷)と記したイギリス人旅行作家イザベラ・バードは新庄を「みすぼらしい町」と見たらしい。

(もっとも後で江戸時代の絵図を見たら、このあたりは田畑で、城下はもう少し先の最上公園のほうだった)

11:41
それにしても閉店された店舗が目立つ。
鰹節・今田商店、長沢陶器店など。
広い道路に、電柱を地中に埋めたことで、さらに何もないという印象の町になった。
11:43
大黒屋
看板はLadys Total Supporter。

lady の複数はladiesだからladysはない。では「女性の」という意味でlady'sのつもりだったかというと、それも複数形のladies' (sは省く)のほうが良い。ハイソでない普通の婦人服ではむしろwomen'sのほうが良いらしい。ま、カタカナ語を英語っぽく書いたのだろう。
 since 1901とあるが、ここもまわりと同じように閉店したようだ。
言っておくが、ここは駅前通りと本町商店街が交差する町一番の場所なのである。

ポスターが貼ってあって地元出身の演歌歌手かと思ったら、かとう鮎子、自民党衆議院議員。鶴岡市出身。宮崎謙介と結婚したが離婚。宮崎は金子恵美の夫で不倫問題でテレビによく出たが、この人(加藤鮎子)とも結婚していたとは知らなかった。

駅からまっすぐ新庄城址に向かってずんずん歩いていく。
駅前通りはこのあたり中央通り商店街というが、商店らしき店も人も見当たらない。
11:48
通りに何本もある看板から、ここは「こぶとり爺さま通り」というらしい。
新庄を中心とする最上地方は民話の宝庫とされ、それを生かそうと通りの名前にした。
他に「かわうそど狐通り」「笠地蔵どおり」「金の茶釜通り」「鴨とり源五郎通り」がある。
笠地蔵やこぶとり爺さんは新庄・最上地方の発祥ではなく、全国各地に伝わっている。民話がここで作られたというより、つい最近まで多く語られていたということだろう。
11:51
通り・商店街に沿って何本、何十本も看板が立っていて、民話の一部分が少しずつ書いてある。
地方都市にありがちな商店街の空洞化を食い止めようということなのだろうが、空回りしている気がしないでもない。

新庄城址に到着。
藩主は戸沢氏。
11:52
新庄城址(最上公園)
残っているのは本丸の堀。
別名沼田城。1625年、新庄藩祖戸沢政盛が築いた。
築いたのは土木人夫と大工さんだが、政盛の時代ということだ。
11:53
県社・戸沢神社という表柱。

戸沢氏は室町、戦国時代には角館を本拠とし、最盛期には仙北三郡を支配する戦国大名だった。秀吉の小田原征伐のとき東北の大名では一番早く参陣し、本領を安堵される。
秀吉の死後、戸沢政盛は徳川の重臣・鳥居元忠の娘と縁戚を結び、徳川方へ急速に接近し、関ヶ原では最上氏とともに東軍に属した。しかし消極的な行動を咎められ、戦後、常陸国松岡(いまの高萩市)へ減転封された。
それでも鳥居忠政の次男を婿養子に迎えるなど、鳥居氏そして幕閣との結びつきを深めた。

1622年、現在の山形県全土(上杉の置賜地方を除く)と秋田県の一部57万石を版図とした最上氏が改易されると、鳥居忠政が22万石で山形城に入った。周りの佐竹、伊達、米沢の抑えということもあったのだろう、最上氏旧領は庄内(酒井)、左沢(酒井)、上ノ山(能見松平)と、鳥居氏の縁戚で占められた。戸沢政盛も忠正の縁戚ということで2万石を加増され旧領近くの最上郡全域と村山郡の一部を与えられ、新庄藩6万石となった。以後、明治まで続く。
11:53
本丸跡には城を思わせるものは何もなく、戸澤神社がメインで新荘護國神社、稲荷神社、天満神社もある。
11:55
裏に回っても城らしいものは全くなく、まさに神社の裏である。
なおも進むと濠の跡のようなものに出た。

11:56
本丸の北の堀跡
11:59
新庄城絵図
この絵だけでは縄張りが分からない。

幸いネットに縄張り図があった。
元禄3年新庄城修復願付図(新庄デジタルアーカイブから)

新庄城は、本丸の南西側(正門を入って左側)に出丸のように小さな二の丸が並列状に置かれ、その外側を三の丸が囲む平城であったようだ。

本丸跡を出た。
絵図によれば三の丸にあたる。
12:02
活気はない地方小都市だが、これだけ広い公園を持っているというのは素晴らしい。
いい財産である。
この公園の南東側が三の丸の堀(二の堀、外堀)だったようだ。
12:04
新庄ふるさと歴史センタ―
この前の道が外堀跡で、センターの敷地は三の丸の端にあたる。

しかし休館。7月25日の豪雨災害から2か月もたつのに電気系統が復旧していないという。
ひょっとして、閉店の商店が多かったのは豪雨災害の影響か?とも思った。
12:06
正面玄関から中をのぞいたが人の気配がなかった。

このあたりも道路が広く、武家屋敷らしき家は見つからない。
人もいないし、見るものもないので駅に戻る。

12:16
日本で一番小さなセントラルホテル
セントラルホテルというのは本当に数えきれないほどあるようだ。
グーグル検索すればいくらでも出てくるが、総数が分からない。
新庄のこのホテルに聞けばわかるだろうか?

ところで新庄は商店がなくともビジネスホテルが割とある。
陸羽線、奥羽線の交差する最上郡の中心都市で、県の内外からの出張者が多いのだろうか。
新庄セントラルホテル外観
駅に着いた。
これから鶴岡に向かう。
本来なら最上川沿いの陸羽西線で行くのだが、新庄酒田道路(自動車専用)の建設工事のため、2022年5月から2024年度中までの予定で全線が営業休止、バス代行輸送となっている。こんなに長い期間の代行輸送なんてあるのだろうか。
バスの発車時刻まで時間があるので駅舎の隣の「ゆめりあ」に入ってみた。
12:25
ゆめりあの正式名称は最上広域交流センターである。
入ってみると、まず「花と緑の交流広場」。ガラス張り、無料のテーブルと椅子のある休憩スペースが広い。ステージまである。レストラン、物産館(土産物店)、さらに中庭の向こうは鉄道ギャラリーがあるようだが行かなかった。

駅側には「もがみ情報案内センター」がある。
ここは新庄に到着したとき入口のラックから地図を1枚もらっただけだったので、今更ながらじっくり椅子に座って新庄だけでなく真室川、舟形、鮭川など最上郡の地図や観光パンフレットを眺めた。

陸羽西線のバスは13:00出発なので大分時間があり、情報案内センター(職員3人)の窓口にいた女性に気になっていたことを聞いてみた。

「商店がほとんど閉まっているのですが、歴史センターと同じように7月の山形豪雨の影響ですかね?」
「(笑いながら)いえ、関係ありません。もともと新庄もどんどん人が減っていますから。でもコロナで大分閉まりましたね。」
調べれば新庄市は昭和40年代初頭には人口49,000人を数えたが、戦前の軍馬生産、養蚕はなくなり戦後の木材加工、農業も厳しく、人口は減り続けた。
(私にとっては最近である)2000年には4万2000人あったものが、2020年には3万4000人になっている。

山形新幹線の誘致、「ゆめりあ」建設、昔ばなし通りの設置など盛り上げに努力はしているが、あまり効果がないようだ。

昔の城下と今の市街が重ねてある地図があるかどうか尋ねたら、江戸時代の絵図と、それを挟めば現在の市街地のどこに当たるか分かるクリアフォルダーを奥から出してきてくださった。彼女は50代くらいか、郷土愛が強く、知識もある有能な職員に見えた。

「改札口のまえの山車をご覧になりましたか? 新庄まつりで何台も出るんですよ。市外からもいっぱい見物客が来るんです。来年は戸沢氏入部400年というので茨城の高萩と合同で盛大にやるんですよ。ぜひ来てください」

しかし来年どころか、縁もゆかりもない新庄に来る機会は二度とないだろう。
今年初めて来たのだって気まぐれの偶然だし。
と思いながら代行バスの乗り場に向かった。

(続く)