2021年6月11日金曜日

日本橋川5 堀留橋から少年画報社、三崎橋まで

   

5月29日、大手町の大規模接種センターでワクチンを打ってもらった。(別ブログ)

この日は、ワクチンのほかに日本橋川を歩くことが目的だった。

神田駅に8時過ぎについて、日本橋川に出た。
修復終わったばかりの常盤橋から大手町の神田橋まで歩いた。
ここで注射されてから日本橋川散歩を再開、一ツ橋、雉子橋をへて靖国通りの俎板橋まで来た。

いつもは古書店街のほうに行くから、ここから北は初めての道。

靖国通りを越えて初めての橋は南堀留橋
10:10 南堀留橋 昭和三年完成
ということは、これも震災復興の一環として架けられたか。

堀留橋の南にある橋という意味である。
南堀留という地名すなわち堀留の南という言葉があったわけではない。

堀留というのは江戸切絵図を見ればよくわかる。
尾張屋版切絵図(幕末)
一番上が神田川。
神田川、小石川の水は家康入府前は平川として日比谷入り江に流れていが、駿河台を掘削して隅田川に向けた。残った川跡は流す必要はなくなったので、飯田橋から途中まで埋め、南のほうは江戸城防御の堀、運河として残した。その堀の北端が堀留である。

すなわち堀留から北は埋められたわけだが、下水用だろうか、途中から細い川が流れ、橋も架けられた。上の切絵図では「堀留 コオロギハシ」と書いてある。

堀留は橋の名前でなく、堀の終わりという普通名詞のような地名だった。
堀は神田川から分離されたとはいえ、外見は川であるから飯田川、飯田堀といわれた。

明治になると、甲武鉄道のターミナルが飯田橋にでき(飯田町駅)、荷物の運搬のため、堀留から神田川まで埋められた部分を開削した(1903年)。その結果、再び神田川の水は一部、日本橋を経て隅田川に流れるようになった。それが日本橋川である。
橋の名が川の名前になるという本末転倒はこういういきさつによる。
10:12 その堀留橋と傳蔵地蔵尊
ここは専修通りという大通り、写っているのは歩道部分のみ。
傳蔵というのは誰か知らない。

10:13 新川橋
今の橋は震災後の1927年竣工。
しかし明治40年(1907)の地図にもある。
南堀留橋(南の堀留橋)のように新しい川橋では意味が通らない。
新川の橋という意味だろう。

明治36年(1903)に堀留橋から北、飯田川まで新たに掘削され、日本橋川ができた。しかし日本橋川とはいかにもお役人が川筋の地図を見て決めた名前だ。この近所の人は突然掘られてできた川を新川と呼んでいたのではあるまいか。

10:16 あいあい橋
明治40年の地図を見れば新板橋という橋がある。
昭和15年の地図だと新飯田橋である。明治40年は川が掘られて架けられたばかりだから地図製作者が聞き違えたのだろうか。西に渡ると飯田町駅の車両基地だった。
その後、戦災にあったのだろうか、地図から橋が消える。
平成12年になって旧JR飯田町貨物駅跡地の再開発が行われ、それに伴い歩行者専用の橋が2002年かけられた。あいあいとはiidabashiの i-i のようである。

ちなみに今の飯田橋駅は飯田町駅と牛込駅が統合され中間に作られたもの。
10:17 少年画報社
あいあい橋の東詰にあった。
子どものころ家では「小学〇年生」を定期購読してもらったが、漫画は買ってもらえなかった。しかし「少年画報」は3日違いで生まれた従兄、畦上喜平ちゃんの家でよく読んだ。(以前ブログに書いた)
少年画報は怪物くん、マグマ大使などを連載していたというが、テレビの記憶が強すぎて実際に何を読んでいたか思い出せない。ただ従兄の家の景色だけ浮かんでくる。1960年代が終わると売り上げ不振で同社が刊行していた週刊少年キングに合併された。
少年キングは1963年創刊、マガジン、サンデーとともに少年週刊漫画雑誌の3本柱であったが、ジャンプ、チャンピョンが出た70年代前半には5つのうち最弱となり(私の印象)、1982年、休刊した。
少年画報で「0戦太郎」を連載した辻なおきの「0戦はやと」(少年キング)はテレビアニメになった。私は小学校低学年だった。そのテレビの記憶は、従兄の家の景色と一緒になっている。
いまどき少年画報なんてびっくり。
存続していることが嬉しかった。
10:22 新三崎橋
大正15年(1926)に初めて架けられた。当然50メートル北の三崎橋より後である。
公衆便所があって往来も少ないから職業運転手が休憩している。
JR中央線の電車が横を走る。
むこうのビルは神田川の北側。

10:24 三崎橋
左は中央線の土手、右は神田川との合流点。
1903年以前は日本橋川がなかったから橋もなかった。
架橋は日本橋川掘削と同時だろう。
今の橋は1954年。

日本橋川のこちらは神田、向こうが飯田橋(旧飯田町)だが飯田橋駅までは少し距離がある。
水道橋駅はすぐ。
10:26 水道橋駅
今は地下鉄か自転車だが、埼玉から後楽園に来るときはこの改札から出た。
左の橋は後楽橋という。1927年架橋。
あまりいい名前とは思えないが代案も浮かばない。
この歩行者専用の橋は後楽園ブリッジというらしい(1964年完成)。
この名はレジャー施設に向かう橋らしくしっくりくる。

ダンスの競技会はよく後楽園ホールで行われた。
朝暗いうちに埼玉の家を出て、この橋を渡った。
エレベーターも着替え場所も混雑、緊張、1回戦負けが多くあまりいい記憶はない。

10:27 東の水道橋をみる。
ここから隅田川まで、神田川の橋はすべて写真に撮ったはず。

2021‐05‐29
逆に後楽橋から西の、神田川・日本橋川の分岐点をみる。

朝8時過ぎに神田駅から出発し、日本橋川に沿って歩いた。
途中、ワクチンを打たれるも最後まで(神田川との分岐点まで)来た。
これで日本橋川は河口から全部歩いたことになる。

三崎橋、新三崎橋、あいあい橋、新川橋、堀留橋、南堀留川、俎板橋、
宝田橋、雉子橋、一ツ橋、錦橋、神田橋、鎌倉橋、竜閑さくら橋、
新常盤橋、常磐橋、常盤橋、一石橋、西河岸橋、
日本橋、江戸橋、鎧橋、茅場橋、湊橋、豊海橋

一石橋、西河岸橋だけ写真がない。

 20210609 日本橋川4 一橋の如水会館、雉子橋、俎板橋まで

 20210529 ワクチンと大手町合同庁舎、気象庁

 
千駄木菜園・お出かけ 目次へ  (ご近所から遠くまで

2021年6月9日水曜日

日本橋川4 一橋の如水会館、雉子橋、俎板橋まで

  

5月29日、大手町の大規模接種センターでワクチンを打ってもらった。
(別ブログ)
この日は、ワクチンのほかに日本橋川を歩くことが目的だった。

神田駅に8時過ぎについて、注射前に常盤橋から大手町の神田橋まで歩き、9時前に注射されて15分別室待機してから散歩を再開、和気清麻呂像とか錦橋、一ツ橋をみてきた。

一ツ橋北詰にあった地図
見ていると神田方面など他に行きたいところはいっぱいあるが、初めの目的通り日本橋川に沿っていく。
それにしてもこのあたり、日本橋川と内堀が近い。
駿河台の神田川掘削以前ならこの川が外堀だったから、ここまで押し寄せ大砲を並べれば本丸を狙える。

一ツ橋から雉子橋に向かう。
2021-05-29 9:57 
共立女子大が見えた。
鉄筋コンクリート4階建ては1937年竣工? 右に行けば共立講堂がある。
女優の菜々緒がかつて大宮から通っていた大学としても知られる。

77年から80年のどこかで町田憲一と学園祭に来た。アスファルトの中庭で剣道部が模範演技をしていた。何の収穫もなく二人で帰った。

9:58 雉子橋
一ツ橋方面を振り返る。
左の高いビルは一橋大学千代田キャンパス、2000年竣工、
その右の14階建て同色ビルは如水会館。

一橋大は前身の東京商科大時代に震災で校舎壊滅した。
仮校舎で講義は再開され、翌1924年には石神井に仮校舎も完成したが、25年には国分寺と立川のあいだに移転することが決まった。堤康次朗の箱根土地が誘致したようだ。27年から移転が始まり1931年には移転を完了した。神田一ツ橋の跡地は小学館になったと書かれているものもあるが、明治40年の地図だと今の如水会館から共立講堂あたりにあったようにみえる。

新たに駅もできた国立へ移転後も、ずっと戦後も東京商科大のままであったが、1949年、学制改革に伴い大学名を一橋大学と変えた。移転して長年経過しても発祥の地を校名にしたのは東京女子高等師範・お茶水女子大も同じ。

如水会の如水というと一般人は黒田如水を思ってしまうが関係なく、一橋大学の同窓会、後援会である。1914年同窓会の名前を如水会とした。命名は前身の「商法講習所」設立に協力した渋沢栄一という。一般の利用も可能だから会館の名前はよく聞く。
9:59 同じく雉子橋
日本橋川をこえて竹橋方面を見る。緑は内堀(清水濠)の石垣。
家康の時代、朝鮮通信使をもてなすのに雉に勝るものなしと、付近に雉小屋が置かれ、そこにあった橋をこう名付けたという。
キジはワードで変換すると「雉」一文字になるが、雉子と書くのは古語のキギスからきているのかもしれない。
江戸城本丸に近いから雉子橋御門が置かれ防備を固めた。

江戸切絵図(幕末)、明治の地図を見れば今のように南北でなく、100メートル上流に東西に架かっている。今の橋は震災後に架けられた。

10:01
さらに上流へ向かうと再び共立女子大。
一か所に集めたいが地価が高すぎる。
山手線沿線でも十分都心なのに、こんなに皇居に近い大学はかえって不便かもしれない。

明治40年の地図では共立女子職業学校としてこちらにあり、東京商科大が移転後、こちらが寄宿舎、共立講堂のあるほうが講義棟になったようだ。

10:03 宝田橋 
今の橋は昭和43年竣工。
ウィキペディアには、昔あった宝田村から橋名をとったというが、信じがたい。
初めてかけられた震災後に、そんな地名はない。江戸時代であっても武家屋敷ばかりで村などない。

渡れば千代田区役所。となりが東京法務局。
2017年3月、千駄木の家の抵当権抹消のために来た。埼玉にいたときは大宮の法務局だったが、個人の住宅なのに九段の合同庁舎なんて、さすが東京だと感心したものだった。
無事手続きが終わるとすぐ目の前が清水門で、初めて入ったが人気のない良い門だった。

10:06 靖国通りに出た。
北の丸公園、靖国神社など、ここは何度も渡っている。
マナイタバシと入れたら俎板橋と変換されたが、銘板は爼橋である。
(嘉永年間の江戸切絵図では俎板橋とある。)

江戸時代初期から橋はかかっていたが、今のようなまっすぐな道もなく往来は少なかったらしい。しかし明治以降、靖国通りが開かれ市電が通ると一気に交通量が増えた。

いつもは俎橋から東の古書店街を覗きながらぶらぶらお茶の水駅へ行くのだが、今回は日本橋川をさらに歩いていく。(続く)

2021年6月6日日曜日

日本橋川3 佐藤朝山の清麻呂像と丸紅、一橋家屋敷跡

 

5月29日、大手町の大規模接種センターでワクチンを打ってもらった。
(別ブログ)
注射してもらった合同庁舎3号館のある一角は1960年代に建てられたビルが多く、再開発が盛んである。1号館、2号館は取り壊され日経本社などの大手町カンファレンスセンターに生まれ変わった。3号館も注射会場になったほど中身は移転、空っぽになっている。隣の気象庁は昨年12月虎ノ門に移転、取り壊しを待ちフェンスに囲まれていた。

2021‐05‐29 9:35
気象庁前交差点。
坂名や通りや駅の名は、名前のもとになった施設が移転しても簡単に変わらない。しかし交差点はどうだろう? 歴史がないから違う交差点名になる気がする。

左のビルはKKRホテル東京。
KKRは国家公務員共済組合連合会の略。

気象庁交差点の皇居側、大手濠緑地内に銅像あり。
この交差点は何回か通っているはずだが急いでいる時が多かったせいか初めて見た。

9:38 国体擁護と書いてあるのかな。
「ここに立たせるは護王大明神の神号を給はりし贈正一位和気清麻呂公の像にして・・」

和気清麻呂といえば、女帝孝謙天皇に寵愛された怪僧道鏡の野望を砕いたとして知られる。
のちに彼は桓武天皇に平安遷都をすすめた、という時代。

紀元2600年、民間募金で建立された。
それにしてもなぜ大昔の和気清麻呂をわざわざ持ち出したのだろう?
当時天皇に取り入って国を乗っ取ろうとした奸臣がいたとも思えない。

さて、この像は髙村光雲の弟子である山崎朝雲の弟子、すなわち光雲の孫弟子の佐藤朝山が制作。(一文字ずつ変わるのが面白い)
ちなみに光雲も朝雲も住んでいたのは(いまは跡形もないが)千駄木の我が家のすぐ近くであることは以前書いた。

清麻呂像は、朝倉文雄と北村西望も同時に依頼された競作案件だった。彼らも千駄木からそう遠くない谷中と滝野川西ヶ原にいた。

朝倉は途中で競作と知り辞退、彼の清麻呂像は石膏像の段階で橿原神宮に献納されたという。北村は長崎平和祈念像で有名。王子北とぴあ入り口に彼の作品がある。

佐藤朝山は師・朝雲が「銅像のような大作は佐藤より朝倉さんや北村さんの方が良い」とのことばを聞いて憤慨し、朝山の号を返上して師弟の関係を絶ったという。本名の清蔵で通したが戦後、玄々と号した。

ところで戦時中の金属徴収は免除されたのだろうか?

清麻呂像の向かいにイチョウがある。
震災イチョウ
もとは少し西の文部省構内にあった(一ツ橋1-1-1,現毎日新聞本社)が、関東大震災で一帯は焼失。この木だけ一部焼けたものの残った。
区画整理などで切られる運命にあったが、当時の中央気象台長・岡田武松が復興のシンボルとして残したいと、当局に頼んで中央気象台(今の気象庁)の近くに移植したという。
1860年ころ植えたものというから樹齢は160年くらいか。
葉の色づき、落葉など、気象庁はこの木をイチョウの標本木にしているらしい。

脇を市民ランナーが走りすぎていく。
今日は土曜の朝。

9:41
内堀通りを北に渡ると丸紅本社。
丸紅は1858年、伊藤忠兵衛が創業した。すなわち伊藤忠と同根。
1918年、伊藤忠商店と伊藤忠商事にわかれ、前者が丸紅になった。
創業時は麻布の行商で、忠兵衛が染料の紅を好み、紅忠を屋号としマルベニが通称であったことから社名になった。

敷地内に一橋徳川家邸跡という標柱あり。

田安、清水が北の丸にあり一橋だけ内堀の外なので、一橋は御三卿の中で3番目かと思っていたが、そうでもないようだ。

吉宗の四男、宗尹(むねただ)が家祖。
ちなみに吉宗長男は9代将軍家重、次男が田安宗武、三男は早世。
清水家は家重の次男、重好が家祖。

子だくさんで有名な11代将軍家斉は一橋家出身。
しかし一橋が今有名なのは慶喜の存在が大きい。
血筋は一橋家や吉宗と関係ない水戸家であるが。

田安家、清水家から将軍は出なかった。
しいて言えば15代慶喜が隠居したあと16代として徳川宗家を継いだ徳川家達が田安家出身。

9:43 一ツ橋
家康が江戸に来た時はすでにかけられていて、一本の丸太だったことからこの名がある。
今の橋は大正14年竣工、震災復興計画による。

この日は神田駅の向こう、常盤橋から日本橋川を歩いてきたので、接種後も日本橋川を歩いて帰ることにする。
ワクチン会場から気象庁、清麻呂像に行ってしまったため、神田橋と一ツ橋の間の橋を見るのを忘れた。見逃すのも気分悪いので少し東に戻る。

9:47 錦橋
震災復興事業として1927年に架けられたから鎌倉橋より少し古い。
首都高の下だから雨が当たらず日当たりも悪い。こんな場所ならツワブキが適していることを私も千駄木菜園で知っている。味も普通のフキと同じことを知っている。

一ツ橋北詰にあった地図
さて、どこまで歩いて行こうか。(続く)


2021年6月5日土曜日

イチジクの鉢を拾ってきた

不忍通りから西日暮里駅へ向かう道灌山通りの歩道に大きな鉢が2つ出ていた。

2つともイチジクにみえた。
「御自由にお持ち帰り下さい」と貼り紙がしてある。

2021‐06‐02
数年前、どうしてもイチジクを作りたくて植えたが、十分取れる前に、昨年カミキリムシに食われ枯れてしまった。今年再挑戦しようと思うも、なかなか苗が売っていない。
大宮以南では見つからず、3月、以前買った上尾のセキチューに行ったが閉まっていた。

それが、今目の前にある。
しかし植えるところがない。
前回イチジクのあった場所は数年間で樹木が茂り、この高さの苗木では日が当たらない。

迷ったまま立ち去った。

しかし一日ずっと気になり、夜練習帰りにわざわざ遠回りして見に行くとまだ残っていた。
これは私が持っていくべき運命の鉢だと思った。
捨て猫を拾うように。

交差点を渡りサミットの前を通って、人目を気にする余裕もないほど鉢は重かった。
何度も休みながら、必死に坂を上った。

翌朝、庭でイチジク植える場所を探す。

左落花生、右サツマイモ
冬は大根、白菜だったところ。
イチジクのような樹木は半永久的に一角を占有するから、場所が難しい。
下手に植えると野菜が日陰になる。

2021‐06‐02 トウモロコシ

手前は枝豆
大豆は半分くらい地中で腐り、育つのは3割くらい。
いまもポットで発芽育苗中。
狭い庭を目いっぱい耕し、いろんなものを植えているからイチジクの場所などない。

キャベツは例年より良いが、巻いていないものもいくつかある。

キャベツ20株のうち6株収穫
その空いた所へ枝豆を順に植えようと思ってネットを外した。
キャベツの間に枝豆を植えていくとは、土地の回転率がすごい。二毛作どころか三毛作である。

ネットから出した株にモンシロチョウがきた。

ミニトマトとトマトも生ってきた

ナスとパプリカは種から育てたが、発育悪い。

2021‐06‐02
スナップエンドウは種が熟してから抜こうと自然に枯れるのを待っているが、なかなか枯れない。この場所は実生のナス、パプリカを植える予定だが、幸か不幸か苗の発育悪いからまだ抜かずに済んでいる。

イチジクの場所はない。

6月3日夜、レッスンから帰る途中、再び例の場所を通るとイチジクは私が2日前に一鉢持って行っただけで、一鉢はまだ残っていた。貼り紙もそのまま。

「御自由にお持ち帰り下さい」だけではなく「イチジクです」と書き添えたら持っていく人もいるのではないか? ここを歩く人の多くはイチジクの木など知らないだろう。
2021‐06‐03
書き足してあげようかな、と思ったが、葉っぱだけだと私も自信がない。
イチジクじゃないかもしれない。

よく見ると元気がない。水を上げなければ枯れてしまうだろう。
持ち主が引っ越したのなら置いておくと枯れる。

しばらく迷ったが、こいつも持ち帰ることにした。
欲しい人にあげてもいい、と理由をつけながら、
重い鉢を何度も休みながら必死で持ち帰った。

貧乏性だから2つとも植えたりして。

別ブログ

2021年6月3日木曜日

日本橋川2常盤橋の渋沢像から大手町、神田橋まで

 

5月29日、大手町の大規模接種センターでワクチンを打ってもらった。
(別ブログ)

大手町というと東京駅や丸の内のイメージがあるが、実は神田も近い。
以前神田から日本橋川を海まで歩いたから、今度は逆に大手町までさかのぼろうと思った。

ワクチン接種の予約は9:00.
神田駅に8:09に着いた。
2021‐05‐29 8:16 新常盤橋
首都高がじゃま。
右(西)は並行して中央線、山手、京浜東北、上野東京ラインから新幹線までJRの大動脈というべき線路が走る。
橋の道路は江戸通りという。すなわち東に曲がって浅草橋まで行く。
総武線も江戸通りの地下を走っている。

江戸時代はここに橋はなく、大正時代に市電を通すために架けられた。

前回、4か月前はこの橋から東へ歩いた。
橋を渡れば大手町二丁目、西に行けばワクチン接種会場だが、時間があるので東隣の常磐橋を見に行く。前回来たときは修復工事中だったが今月完成して渡れるようになったという。

8:18 常磐橋
橋の内側には桝形門があった。奥州・水戸街道は東の日本橋が起点だが、将軍、大名などがお城や大手町から諸国に向かうときはこの門から出入りした。田安門(上州道)・神田橋門(芝崎口)・半蔵門(甲州道)・外桜田門(小田原口・旧東海道)と共に江戸城と街道を結ぶ要所として江戸五口に数えられた。

今の橋は明治10年に作られた東京最古の石橋である。
片側一車線の車道もあったが手狭であったことから関東大震災後、下流側に新たな常盤橋ができた。昭和15年の地図を見ると、既にこちらは公園の一部、歩行者専用の橋になっている。

老朽化と東日本大地震で2011年から通行止めになっていたが、ようやく修復完成した。
元々公園の一部だったから工事もゆっくり。

橋の北詰には日銀本館
江戸時代は江戸五口のなかでも正門扱いの大手口と呼ばれ、また商業の中心、日本橋にも近いから日銀がここにあったのもうなづける。しかし今は皇居、官庁街との間に広い線路が走り、少し離れた印象がある。

8:19 常磐橋から東の常盤橋をみる。
新橋ができてから区別の意味もありこちらは磐の字を使うようだ。

8:21
橋の南は常盤橋御門の石垣が残り、渋沢栄一像がある。
震災復興計画で新旧常盤橋の間が公園となった昭和8年に建立。
しかし戦時中に金属供出、昭和30年に再建された。
住所はここも大手町である。

8:23 東北線常盤橋ガード
東京駅から北に向かうすべての線路がこの上を通る(地下鉄のぞく)。

8:24
ガードを西に出るとすぐ住友商事本社。いわゆる大手町オフィス街。
よく考えると三井も丸紅も本社は大手町。大手商社があるから大手町ではないが。
三菱商事の丸の内と比べると東京駅から離れているせいか、丸ビルで代表される派手なイメージはない。
8:26 線路の西に歩行者専用の橋あり。
竜閑さくら橋というらしい。
竜閑というのは、かつて日本橋川のこのあたりから分かれ、北東に、千代田区神田と中央区日本橋の間を流れていた川(人工の掘割)の名前である。戦後がれき処理のために埋め立てられた。

8:27
日本橋川の南を西に歩くとベンチにもなりそうな蛇篭のようなものあり。
この石は日本橋川護岸あるいは桝形門の石垣を砕いたものだろうか?
説明板は見つからなかった。

江戸城外郭すなわち日本橋川や神田川などの天下普請は東北諸藩が担当した。しかし江戸近辺に石材はない。人力と船しかなかった当時、石垣の石は貴重であっただろう。戦国時代の城では墓石なども転用したと聞くが、江戸でも石は再利用されたことだろう。
この石はもちろん石不足を補う再利用ではなく、現代的なデザインを狙ったものであるが。

8:28 鎌倉橋が見えた。
このあたり江戸城建設のとき鎌倉方面から運んだ木材や石材を荷揚げしたため鎌倉河岸と呼ばれた。江戸時代、幕末切絵図で鎌倉河岸は北岸にかいてある。そこは昭和41年まで神田鎌倉町といった。

神田川が駿河台を貫くまで、ここが江戸城の外堀であったから、防御のため橋は少なく、このあたりも常盤橋から神田橋まで橋はなかった。もっとも南岸は二つの橋の間には、越前松平家、鶴岡藩酒井家の上屋敷しかなかったから橋も必要なかった。

鎌倉橋はコンクリート製のアーチ橋。関東大震災後の復興工事で1929年新たに架橋された。
渡る道は東京駅広場の前、丸ビルの前からくる大名小路である。
8:29
それにしても首都高。
東京オリンピックに合わせ突貫工事だったとはいえ、用地買収が簡単な川の上を通したことで大いに景観を損ねている。
今年になって江戸橋の東からここ鎌倉橋の東まで地下化事業が始まった。まだ江戸橋と呉服橋の出入り口の閉鎖だけだが、2040年完成を目指して動き始めた。
いっそのことここから西、飯田橋くらいまで地下にしたらどうだろう? 金がかかるなら飯田橋まで4kmほど廃止したらどうか? なければないで、あまり困らないのではないか?

8:32
ウィークデーの昼休みは付近のOLらで賑わうのかな?
などと思いながら歩いていると、
「日本橋川沿いに残る江戸城外堀の石垣」という説明板があった。
使われた地図は「新撰東京名所図会 神田区之部 東陽道、1900年」とあるが、これは本来、有名な地図。
参謀本部陸軍部測量局が明治19‐20年(1887)に刊行した「五千分の一東京図」であろう。(当時参謀本部は陸軍と海軍を統括していた)。
この地図は内務省地理局が発行した「実測東京図」とともに明治初期に出た傑作とされる。ともに明治8年から測量に着手、片方が民生用、片方が軍事用とされたが、以後内務省地理局の業務は参謀本部に移管された。
8:33
さて改めてこの看板、すなわち大手町付近の地図を見れば、これから行くワクチン接種会場は昔、陸軍軍馬局である。
また日本橋川の北を見れば神田区役所、徳大寺邸、学習院、東京大学がある。
東京大学の場所は開成学校(旧大学南校)があったところ。
1877年4月12日、開成学校は東京医学校と統合され東京大学となった。
(創立記念日はこの日としている)
その後もここは法、文、理、3学部の校地であったが、1885年までに本郷へ順次移転した。この地図は前述のとおり、1875年製作着手、1887年刊行である。

8:34 神田橋南詰とワクチン会場
ここにあった門は江戸五口の一つ。神田橋は将軍が上野寛永寺に行くとき渡った橋である。
かつての御成り道は今日比谷通りだが、天皇が北へ行くときのお車もここを通るらしい。

通りの向こうは大手町合同庁舎3号館。
ワクチン接種会場に続々と人が向かうのが見えた。
私は9:00の予約だから、脇を通り過ぎてもう少し日本橋川を歩こうとした。
しかし近くまで行ったら迷っている人と思われ、誘導されて接種会場に入ってしまった。

 20210529 ワクチンと大手町合同庁舎、気象庁

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