2024年1月19日金曜日

壬生城郭・城下町図、精忠神社の干瓢

1月10日、壬生にきた。

壬生城址公園にある町立歴史民俗資料館を訪ねたのだが、運悪く臨時休館だった。
晴れていたが北関東の冬は寒い。城址は見るべきところも大してないので本丸跡にたつ町立図書館で時間をつぶすことにした。
館内に入ると係の人以外、利用者は一人か二人。
14:51
壬生城本丸跡に立つ図書館だけあって、城の本が多い。
驚くのは分類識別のラベルが「城」となっていることだ。
こちらには佐野城、小山城、宇都宮城、長福城など栃木県の城の調査報告書などがある。
当然壬生城もある。
14:52
「壬生城郭・城下町図」(壬生町立歴史民俗資料館編)
閉館だった歴史民俗資料館ではこういう図をいちばん見たかったので嬉しい。
壬生城は6つの曲輪からなる。
同心円状の本丸、二の丸、三の丸の東に東郭、南に下台郭、北に正念寺曲輪がある。
郭と曲輪を区別しているが、堀に囲まれたのを郭、囲まれていないのを曲輪としたのか、よく知らない。
三の丸、東郭、正念寺曲輪には侍屋敷が並び、下台郭は足軽小屋があった。この絵図で足軽は侍ではないということか。
現在の市街地に合わせたもの。
追手門(大手門)は東郭の東にある。前に馬出のようなものがあった。駅から歩いてきた蘭学通り(壬生街道、日光西街道)と大手門通りの交わるところ、つまり足利銀行と淀川肥料店のあったところである。
今の大手門通りは当時の大手門から西に東郭を突っ切って、三の丸の北、二の丸門の前に至る道をそのまま使っている。
壬生小学校は三の丸の東部分と下台郭にある。二の丸の西部分に精忠神社。
他の城地の多くは民家となった。

明治の廃城で住民は保存を選ばず、残ったのは本丸の南の堀と、北と西側にわずかに残る土塁(段差)だけだった。平城というのは斜面、崖がないから、きれいに宅地、田畑に転換できる。

前のブログで壬生城の城主に少し触れたが、この城郭図の本によくまとまって載っている。
15:18
1462~1590に壬生氏5代の時代があり、小田原征伐後に結城領になって廃城。
関ヶ原のあと、結城秀康が越前に転封されると1601年から日根野吉明、阿部忠秋(福山藩阿部家ではなく、白河藩・藩祖)、三浦氏3代、松平輝貞(大河内松平家、知恵伊豆の孫)、加藤氏2代と続いた。
そして1712年、鳥居忠英(ただてる)が近江水口から3万石で入封。忠宝(ただとみ)が版籍奉還するまで鳥居氏7代の居城となった。

年表を読むと、城地を払い下げたあと残った本丸に鳥居家の隠居所があったらしいが、昭和2年に落雷で焼失、そこへ戦後になって壬生中学校を建設した。壬生中学は1981年、本丸跡から移転。歴史資料館、図書館や公民館はそのあとに作られたようだ。

城址をもう一度歩きたくなって図書館を出る。
南の二の丸から入る本丸門のあったあたりの脇に石柱が立っていた。
16:10
壬生藩領榜示杭
「従是南 壬生領」側面に「下野国都賀郡 家中村」とある。
街道筋にでも立っていたのだろうか。
家中(いえなか)村は合併して都賀村、都賀町となり、2010年栃木市に編入された。

公民館、図書館の裏に回ると神社があった。
16:15
精忠神社
祭神は鳥居氏祖、伏見城を死守し自刃した鳥居元忠である。
16:16
神社に似つかわしくない造形物があり、近づけば
「干瓢伝来三百年記念」
横には多くの商店、会社の名前が彫ってある。栃木は干瓢が有名とはいえ、こんなに業者が多いのだろうかと感心した。しかし、なぜ壬生なのか?なぜこの神社なのか?
300年と言えば江戸時代である。

上に乗っているのは原料のユウガオだろうか? 私の知っているユウガオはもっと細長い。
ユウガオの生産は9割、干瓢は98%が栃木県だというが、50年前の3%までに激減したらしい。そういえば干瓢巻きよりかっぱ巻き、納豆巻きのほうをよく見る。確かに干瓢はなければないで困らない。

ふと、右(東)の奥のほうに大きな石碑が目についた。
行って見るとなんと、またしても干瓢。
16:18
堂々と「干瓢発祥 二百五十周年記念」
栃木県と干瓢の関係は分かるが、なぜ壬生か、なぜこの神社なのか?

16:18
石碑の横は「城内ふれあいファーム」
スイカとトマトの絵が描いてあるが、畑の畝がなく、草すら生えていない。
ヤギでも飼っているのかな?柵があるし、ふれあいだし。

帰ろうと思って戻ると大きな石碑が南に向いてある。
日清日露戦役の戦没者慰霊碑だろうか? それとも戊辰戦争の壬生藩士の慰霊碑か?
16:20
正面にまわってみると「頌徳碑」とある。慰霊碑ではなかった。
しかし誰を顕彰したのかすぐ分からない。
16:25
陸軍大将従二位勲一等功三級男爵奈良武次閣下篆刻
 で始まる。次の行の
鳥居浄泉公追遠記
がタイトルか。
もっと読んでいくと、
浄泉公、諱は忠英、龍見公・諱は元忠の玄孫なり。公は廟を立て龍見公を祀る。即ち精忠神社なり。公は領内の物産乏しきを憂い、旧領江州木津村に於いて瓢の種を取り、郡吏・松本茂右衛門に命じ、これを黒川東西に蒔き始めさす・・・国中耕地三千余町、年産額百万余貫、販路は拡大し遂に海外に及び、我が邦重要物産下野干瓢をなす。・・・二百年後、精忠神社境内に有志相謀りて碑をたて公の徳を表す・・・・昭和十二年四月

なんと、この碑も干瓢だった。
そして栃木の干瓢の碑がなぜ壬生のこの神社にあるか分かった。

この日は栃木市の高校で大麻・覚せい剤に関する講演がある。
16:48の電車に絶対乗らなくてはいけないので壬生城をでた。

大手門通りから蘭学通り(日光西街道)に出る。
ここがなぜ蘭学通りか分からない。
医院があった。
16:36
松本内科医院
奥のほうに立派な門がある。駐車場を通って近づくと、国の登録有形文化財であり蔵は文庫蔵と案内板にあった。
16:37
松本家の板塀はずっと奥まで続く。
ここは蘭学通り、松本家は蘭方医だったのだろうか?
(帰宅後調べたら、壬生で本陣役を担った松本家の分家筋で、蘭方医ではなかった)

駅近くの三叉路でとんがり屋根の家が2軒見えた。
16:39
とんがり屋根の壬生交番と火の見やぐら。
16:40
もう一軒、お洒落なとんがり屋根
喫茶店かケーキ屋かと思ったら、「焼肉もりもり」と看板にあった。

壬生は平坦で丘がなく、つまり斜面の樹木がなく、道路は車社会に合わせて広い。つまり城下町という雰囲気はない。かといって現代的でもない。商店や人が少なく、静かに眠ったような町だった。もっとも、本丸と城下が残っているぶんだけ、本丸が堤防に侍屋敷が畑になった関宿城よりマシか。


2024年1月17日水曜日

壬生という地名、歴史館前の宥座の器

1月10日、薬物乱用防止講演で栃木市の学悠館高校にきた。

三部制の定時制高校である。二回話すことになり、午後時間が空いた。
栃木市は巴波川に沿った蔵の街。散策に適するが、2017年に歩いたことがある。
そこで近くの壬生町に行くことにした。
栃木駅からは新栃木で東武日光線から宇都宮線に乗り換えねばならないが、1時間に2本程度あり、16分、261円で行ける。車両はワンマンカーでドアは乗客がボタンで開閉する。
14:02 壬生駅
自動改札ではないがSUICAが使えた。

壬生は気にはなっていた。
京都・壬生の新選組屯所については、20年ほど前、出張先のKRPに行く朝、壬生寺の境内を通り過ぎたことはあるが、下野壬生については全く知識がなかった。

壬生とは変な地名である。ウィキペディアには「水辺、水生(みぶ)の意で泉や低湿地を意味する」とあるが、それなら水戸のように水生と書けばいいではないか。こんな字は壬生以外に書かない。だいいいち「壬」を何で「み」と読むのか?古代朝鮮の任那(みまな)はニンベンがあるけど。
ここで壬申の乱を思い出した。「壬」は十干、つまり甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の9番目。陰陽五行説の木火土金水の9番目は水の兄、みずのえである。ここから壬をミと読んだか?

さて、下野壬生が気になったのは、千駄木に引っ越してから近所を歩いていて本郷通りに江岸寺を見たから。三河以来の徳川譜代大名、鳥居忠政が建立し、彼の墓もある。父の元忠は関ヶ原前哨戦で伏見城を2千人で守り4万の大軍を相手に奮戦、戦死したことで知られる。江戸大名としての初代・鳥居忠政は山形22万石であったが、長男・忠常は後継を決めず死去、改易された。しかし祖父の功績を考慮され異母弟が3代目として高遠藩3万石で家名を残され、5代目忠英が近江水口から壬生に転封され、以後、明治まで壬生藩は鳥居氏8代が治めた。
この江岸寺には子孫の鳥居忱( まこと)の墓もあり、彼は箱根八里の作詞者である。

次に壬生が気になったのは2か月前、第20回全国殿様・藩校サミット2023が文京区で開かれたとき。壬生藩は全国最大の16人の関係者を送り込み、また第18回大会の主催地でもあった。これは行かねばならない、とその時思った。
14:03
駅前広場に壬生タクシーという会社はあるが、タクシーはいない。
人もいない。店もない。とても城下町に思えない。
14:06
歩くと少し動きのある通りに出た。
壬生街道(県道18号)だが、「蘭学」という旗が通りに沿って下がっている。
電柱を地中化し、しゃれた街灯にしたが、北関東らしく車社会であるから道路が広く(新しく)、樹木もなくてあまり風情はない。
14:08
「壬生城 大名最中 大師塩羊羹 なからい」という看板。
笹の家紋のようなものが見える。鳥居家の家紋は鳥居笹だが、ちょっと(だいぶ)違う。
閉まったシャッターは汚れていて、営業していないように見える。

車は通るが、歩いている人は少なく、商店街ではない。
これが壬生一番の通りだろうか?
14:10
なからい菓子店の隣は営業していないどころか廃屋に近い。
「喜沢屋質店」「壬生金融株式会社」という看板。
質店と金融会社は同じなのか別なのか?
14:12
しかし、いったいどこが蘭学通りなのか、全く分からないまま歩いているとICHIKAWA ENGLISH HOUSEという英語教室があった。これでは英学通りである。

蘭学通りと大手門通りの角、足利銀行の向かいに立派な木造商店があった。
14:14
造り酒屋かと思ってみると淀川肥料店とあった。
肥料のほか農薬、米麦の集荷を業とされているようだ。

大手門通りは壬生街道から直角に西へ向かう。
壬生小学校の体育館がお城のような屋根をもっていた。
道路端に新しい石碑があったので見ると、
14:18
壬生論語教育之礎 藩校 学習館 故址
正徳三年(1713)正月創立
とある。
下の説明を読めば、全国260の藩校のうち、10番目に古いという。
2021年の全国藩校サミット開催地を記念して建てららしい。

小学校の向かいは城址公園になっている。
14:20
駐車場なども屋根付きの塀で囲み、城址らしい景観を作っているが、人工的な新しさに風趣がないことは否めない。
14:21
公園正門
建造物はどれも新しい。
14:22
典型的な平城である。
しかし石垣や石段、斜面、老木が生えて崩れた土塁などの古い遺構がなく、アスファルトの駐車場や整備された植え込みなどの雰囲気は、まるで田んぼの中に作った体育館、運動公園のようである。

案内看板を見ていたら、屋外スピーカーからメロディーが聞こえてきた。カラスが鳴くから帰りましょうといった夕方の放送ではなく、「箱根八里」のメロディーであった。
なぜ箱根八里か、町外から訪ねた人で分かる人はあまりいないであろう。私も近所の江岸寺に行っていなかったら気づかなかった。

ちゃんと説明板があった。
14:26
作詞者、鳥居忱は壬生の出身としか書いてない。箱根八里は「中学唱歌」の中で人気が高かっただけでなく、明治期を通してもっとも歌われた歌の一つとある。

鳥居忱(まこと、本名は忠一。1853-1917)は、藩主家の出身ではないが、父は藩祖の鳥居元忠につながる壬生藩江戸家老・鳥居忠敦(志摩)である。大学南校でフランス語を学び、また外国語学校にも入っている。明治15年(1882)、音楽取調掛(後の東京芸術大学の前身)を首席で卒業。直ちに助手に採用され、1891年和漢文と音楽理論を受け持つ教授となった。生徒の中に瀧廉太郎がいた。箱根八里は滝の作曲である。

14:25
壬生城は室町時代なかば、文明年間(1469-1486)に壬生氏第2代・壬生綱重によって築かれたとされる。
戦国時代、壬生氏は北条氏についたため、1590年小田原征伐で滅んだ。その後は小山氏の旧領も併せて結城秀康の所領となった。結城氏が越前に転封された後は多くの譜代大名が2万石から3万石で入った。

というような説明板には城址公園を整備する前の古い写真があり、それは空堀の土の斜面に木が生えている。
14:27
しかし、1989年公園として整備されたのは水をたたえた立派な石垣の堀。
子供にはお城らしいかもしれないが、明治維新の廃城時の面影はない。壬生城は本来、石垣もなければ天守や櫓などもなかった。明治の壬生では保存を考えなかったようで、本丸をのぞいて宅地や畑となり、堀も本丸の南を除いてすべて埋めた。

堀をわたって本丸跡にはいる。
中には中央公民館、図書館、歴史民俗資料館がある。

室町時代に近世の平城のようなものはなかったから、当初は(例えばこの本丸部分だけの)壬生氏の館のようなもので、後に堀、郭を増やして城郭にしたのであろう。
14:31
壬生町医師会による「種痘医 齋藤玄昌翁碑」があった。
下野近代西洋医学の先駆者、とあるから、駅から歩いてきた蘭学通りに屋敷があったのだろうか?
14:32
壬生町立歴史民俗資料館

ショック!
展示替えのためこの日だけ臨時休館している。

歴史資料館なのに「壬生論語 古義塾」という堂々とした看板が掲げられていた。
小学校のフェンスにも論語をもつ子供たちのイラストがあったし、壬生に論語は特別なのだろうか? それを聞くべき資料館が閉まっているのだから仕方がない。

ふと振り向いたら足元に水槽がある。
みれば壷のようなものが鎖でぶら下がっていて、宥座の器という。
14:33
「宥」というのは宥和政策のように穏やかに許す、なだめる、という意味だが、座右に置いて戒めとする器という。
空のときは傾き、程よく水を入れると水平を保ち、さらに水を入れるとひっくりかえる。孔子が桓公の廟でこの器を見て弟子たちに「満ちて覆らないものはいない」と中庸、謙譲の徳を教えたという。

私もひしゃくで水を汲み、少しずつ器に入れて確かめた。
水平になってから徐々に傾き、ざばあーんとひっくり返る。
このひっくりかえる瞬間のインパクトと装置が面白くて、肝心の教訓まで思いが至らない。

その代わりに、孔子以前にこの器があったなら、この教えも有名だったはずで、孔子が出る必要はないではないか?なんて思う。

そばに作者のパンフレットがあった。見れば館林の工房「銅司」針生清司氏の作。
氏は1938年生まれ、20歳で建築板金業を始められる。宥座の器は、教訓はあっても現物がないことから製作をこころみた。試行錯誤を13年、1992年に完成したという。2004年、孔子直系77代子孫・孔徳成氏にも寄贈したとか。(2550年前の孔子から77代というと1代33年か、とつい計算した)

これで何度も水遊びするわけにもいかず休館中の歴史資料館のほうを見ると中に人がいる。
14:36
入り口のドアは動いたのでパンフレットでももらおうと入ってみた。
しかし何もなく、窓口の奥の人も来訪者に気づいているのかいないのか、声をかけられない。このまま二階の展示室にも行けそうな気もしたが、階段を上がるのは憚れた。
ふと階段下に何かごちゃごちゃしたものがある。
14:39
覗くと埴輪がある。壬生は古墳が多いことでも知られる。
古墳時代というのは稲作が始まった時代で、稲を作るには給水・排水が可能な斜面地が良い。だから関東平野でも真ん中より北西部の山に近いところから開けた。壬生は黒川と思川が山から出たところに作った複合扇状地の末端部にある。

階段下には埴輪のほかに、「論語検定」ののぼり、車いす、角材、また鎧、兜などが置かれていたが、説明板がないとただのガラクタと同じである。

資料館が休館で当てが外れ、16:48発の栃木行き東武電車までどこかで時間をつぶさねばならない。冬の午後の太陽は小さくて弱弱しく寒い。
幸い隣が町立図書館である。
14:41
図書館に入るとまたもや書架案内の下に宥座の器。
「虚則攲 中則正 満則覆」
壬生というのはずいぶんと論語に関するものが多い町だ。
(続く)

別ブログ

2024年1月14日日曜日

小山一族、祇園城と小山御殿

小山にきた。
宇都宮線だと栗橋(埼玉)、古河(茨城)、野木(栃木)、間々田のつぎ。栃木県では野木町に接する最南端の市である。
新幹線、宇都宮線のほか、両毛線、水戸線の起点でもあり、駅舎は新しくて駅ビルも立派。
2024₋01₋10 9:39
小山駅。
西口のロータリーに降りると2本の柱のキャッチフレーズが迎えてくれる。
「徳川家康 決断の地 開運 小山評定」
「祝 本場結城紬ユネスコ無形文化遺産登録」
しかし結城市は小山と結びつきが強いとはいえ、隣の茨城県である。
もう一本のキャッチフレーズも、偉人(家康)生誕の地とかいうならわかるが、「決断の地」というのはあまりに市の紹介として弱い。

ロータリーの裏に回ると(写真)
開運小山評定の柱の裏は
「祝 渡良瀬遊水地ラムサール条約湿地登録」とあった。
渡良瀬遊水地の栃木県側は野木町と藤岡町がメインだが、小山市も少し接している。しかしほんのわずかであり、このフレーズも他の自治体と比べ大々的に言うには弱い。

こういうキャッチフレーズより、小山と言えば小山遊園地(1964年開業)が有名だったが2005年に閉園した。私のように行ったことがなくても名前だけ聞いた人は多いだろう。この遊園地がなかったら、県外の多くの人は小山をコヤマと読んだのではないか?

小山はオヤマと読む。
小川はオガワ、小山は人名にしろ武蔵小山にしろ、コヤマが普通。
小さいものをコといったりオといったり、どういうことかと考えたけど、調べるのは面倒だ。

小山に降りるのは3回目。
最初は1985年11月、剣道班の友人で富士通にいた関屋幸雄氏の結婚式で和田屋新館(2010年倒産)に来たが、全く記憶がない。
二回目は2017年11月、このときはダンスの競技会のためすぐバスで県南体育館に行ったため市内は歩いていない。ただ駅前で目についた小山評定の看板についてのブログは書いた。

今回は短時間でも少し歩く。
小山には城がある。中世の小山氏が築き、一般には、例えばwikipediaでは小山城という。しかし地元では、例えば小山市の観光案内やグーグル地図では祇園城という。
地元で小山城と言わないのは、思川に沿って小山市内に鷲城、中久喜城があり、いずれも小山氏の城であり、鷲城などは保存の市民運動もあったことから、3つの城を区別するため、ここだけ小山城と言うのを避けたからと思われる。

駅からまっすぐ西に祇園城通りを歩く。
新しくできた道のように歩道も車道も広くて店舗があまりない。小山宿本陣つまり日光街道は駅の西側だからこちらが繁華街のはずだが。
やがて国道4号に出た。東北自動車道のほかに市の東のほうにバイパスがあるから、それほど交通量は多くない。
交差点の南西の角、市役所の東に芝生の広場があった。
9:45
小山市役所と小山御殿広場
今時これだけの何もない芝生広場は珍しい。犬の散歩ができる広場ということだが、そのためだけの芝生とは思いたくない。

史跡説明板があった。
小山御殿
祇園城は関ヶ原のあと本多正純が3万石で封じられ、その後宇都宮に移封されると廃城となった。しかし将軍の日光参拝が始まると祇園城の南の部分に休憩所が造営され、それが小山御殿である。日光への途中というだけでなく、関ヶ原の戦勝のきっかけとなった小山評定の場所ということも意識されていたであろう。
しかし、3代家光は10回も参拝したが、4代家綱の1663年以降参拝は途絶え、御殿は20年後の1682年古河藩の手で解体された。
思川の左岸の丘陵に築かれた祇園城は御殿広場、市役所のあたりまで広がっていた。
会津討伐に向かった家康軍がここに陣を敷いたのは、祇園城があったというだけでなく、兵糧などの輸送に使った思川の河岸があったからでもある。
9:50
川側の、広場より一段と高いところに上がってみる。
発掘調査された礎石が並んでいるのかと思ったら、木の切り株であった。不思議なほど太さのそろった大きな切り株が、ほぼ等間隔で並んでいた。
犬の散歩を許可した公園ということで、足元に注意したが、フンは気付かなかった。
9:50
御殿広場の南西の端から市役所駐車場を越えて思川をみる。

藪の中を歩いて道路に戻るとズボンのすそに草の実がいっぱいついていた。
9:55
小山御殿から祇園城通りを少し歩くと、観晃橋の手前に石垣があった。
この道路は空堀のあとを通したものだろうか?
橋から北を見れば日光連山がよくみえる。1899年にかけられ、晃(分解すれば日光)を観るということで名付けられたとか。
水戸城などと同じく連郭式平山城である

祇園城の入口は工事中で封鎖されていた。
石垣の積み方は新しく、後世のものと思われた。
いずれにしろ、入れないので登り口を探して、城の崖下、民家の裏を入っていった。
9:57
城の東側はすぐ石垣から土塁になった。
これが本来の姿であろう。
関東の城はほとんど石垣がない。
多くの城主が徳川譜代で石高が小さかったのと石切り場が遠かったからによる。
それにしても、この角度の土の斜面が、廃城後もよく崩れなかったものだ。

9:59
城址公園への入口があったので入っていく。
ここは空堀のあとだろう。
上がると上段曲輪。
上段曲輪
片隅に子どもの遊具が立ててある。

小山氏は、藤原秀郷(俵藤太)を祖とする太田氏から分かれ、1150年ころ小山政光が初めて下野小山に移住し、小山氏を名乗った。彼の後妻で三男・朝光(結城家初代)の母である寒河尼(さむかわに)は源頼朝の乳母。すなわち、頼朝の挙兵から幕府成立まで強力に支援し、以後鎌倉御家人、下野国守護として確固たる地位を築いた。以後、代々の当主が着々と力を蓄え、11代小山義政は室町幕府創設にも功あり、南北朝時代のころには東日本最大級の勢力となった。
しかし、宇都宮氏を滅ぼしたことから、鎌倉公方足利氏満の不興を買い、鎌倉府から追討軍の攻撃を受ける。合戦は数次にわたり、やがて滅んだ。
しかし氏満は分家の結城基光の次男・泰朝を小山城に居城させて、家督相続(12代)を許した。
祇園城が初めて文献に出るのは、この1380年の小山義政の乱のときで、城はそれ以前からあり、築城したのは藤原秀郷とも小山政光ともいわれるが分かっていない。当時の小山氏の本拠地は神鳥谷(ひととのや)曲輪(小山駅から線路に沿って南、1.2km、土塁が残る)とされており、祇園城が小山氏代々の本拠となるのは12代以降と言われる。

小山氏は祇園城を本拠地として戦国時代をむかえ、小田原北条氏と争うも降伏、臣下となった。しかし秀吉の小田原征伐で北条とともに滅び、子孫は水戸徳川家の家臣となったという。
いっぽう、分家筋の結城氏は小田原征伐で秀吉に参陣したため、戦国時代を生き残った。しかし家康が関東に来ると、家康次男で秀吉の養子になっていた秀康を養子に迎え、結城の家名を残す。しかし結城秀康は越前に転封され、鎌倉以来の名族は結城の地から去った。
10:01
上段曲輪から空堀を経て南は本丸、二の丸、三の丸だが工事中で封鎖されていた。
本丸との間の空堀の隙間から思川と観晃橋をみる。
川に守られた高台であり、敵が来る関東平野を遠くまで見渡せたと思われる。
10:04
上段曲輪の北は塚田曲輪
塚田曲輪にある大銀杏

塚田曲輪の北の空堀は急峻で深い。
10:07
この角度で、よく300年の風雨に崩れなかったものだと感心する。
粘土質なのか、地中に竹など何か補強材でも入れているのか、説明板などは一切なく、よく分からない。石垣がないと城址というより市街地に近い山林という風情である。
10:08
橋を渡って本祇園曲輪に入る。
思川から大分高い丘陵なので、水を蓄えることは難しく、すべて空堀だったと思われる。
10:10
本祇園曲輪
祇園城の名は小山氏の守護神である祇園社を城内に祀ったことによる。京都の祇園牛頭天王(八坂神社)を勧進したのは藤原秀郷で、小山氏が中久喜からこの城内に移したという。
その祇園社は、いま市役所の南の須賀神社のことだが、本多正純が現在の位置に移したらしい。
10:11
江戸時代の絵図に本祇園曲輪はあるが、神社はない。
本多正純以前、祇園社はこの曲輪にあったのかもしれない。

本多正純は父・正信とともに家康の知恵袋、側近として仕えた。1608年に小山藩3万3千石のち5万3千石となり、1619年には宇都宮藩15万石に加増移封された。しかし宇都宮城の無断修築や吊り天井事件(実際はなかった)などを理由に改易された。実際は秀忠に疎まれ、台頭してきた秀忠側近の土井利勝らの謀略という話もある。
10:17
中曲輪。
塚田曲輪の一部が空堀で独立しているが、どういう機能があったか分からない。

小山市教育委員会の地図では、塚田曲輪の南を本丸、二の丸、三の丸としているが、3つは空堀で隔てられておらず、空堀が郭の境ならば、この中曲輪が本丸で、それを囲むような塚田曲輪が二の丸、その南の(本丸とされている)一角が三の丸となるだろう。
(あとで市役所でもらった地図だと、南の本丸のある郭には空堀があったようだ)

一つ一つの曲輪が小さく、空堀も深いが狭く、いかにも鉄砲のなかった中世の城という縄張りである。
10:22
塚田曲輪と本丸の間の空堀の底を通って思川に出る。
思川を下れば渡良瀬川に入り栗橋に出る。そこから利根川、江戸川を使えば江戸に出られる。鉄道、自動車がなく水運が盛んだった時代は、交通便利な城であっただろう。

本多正純の改易、廃城後、小山には将軍の日光参拝用の御殿ができ、日光・奥州街道の宿場町(小山宿、間々田宿)さらには東照宮のための資材の船下ろし場でもあるなど、思川の舟運によって栄え、明治を迎えた。

この城址公園は「ここは犬の散歩ができる公園です」と、飼い主マナーを詳しく箇条書きで述べた看板ばかりが目立ち、城に関する歴史説明板はまったくない。曲輪の名を書いた、風で飛びそうな立て看板が照明の柱に立てかけてあるだけである。歴史資料館とか土産物店とか一切なく、小さな東屋以外ベンチすらないところは観光地化されておらず好ましい点ではあるが、長居することもなく、御殿広場まで戻ってきた。

広場の前に真新しい小山市役所があったので入ってみた。
人口16万人、新幹線も止まる栃木県第二の都市である。両毛線、水戸線で結ばれる西の栃木市、東の茨城県結城市と合併し中核都市となる構想もある。
10:30
広報などが置いてある場所に観光案内のパンフレットがあるかと思ってきたが、何もなかった。総合受付の女性に祇園城のことを書いたパンフレットがないか聞くと、4階の商工観光課を案内された。
4階に上がり、商工課のカウンターで尋ねると、どんどん集まり4人の人が探してくれて、昔のパンフレットの白黒コピーを出してくださった。しかし小さな字がよく読めない。現物が残っていないことを詫びられたがとても親切だった。

借りたトイレもとてもきれいだった。
あまりきれいなので調べたら2021年新築だった。

正面玄関から出ると史跡小山評定跡の立派な柱石が立っていた。
10:37
繰り返すが、小山評定などという歴史好きな人以外は知らないものを、わざわざ市の一番の場所に顕彰することもないと思う。 すぐそばに祇園城、御殿広場があるのだから、何も立てなくても小山は十分良いところだ。

前のブログ
 
千駄木菜園・お出かけ 目次へ  (ご近所から遠くまで