2021年12月11日土曜日

谷中墓地11 西片の福山藩阿部家のお屋敷

     10月24日、ランチに行く途中、谷中墓地を通った。

このとき見たものについては、既にいくつかブログに書いた。

まだ書いていない写真があった。
備後福山藩、阿部家の墓地である。
2021年現在のグーグル
阿部家墓所(左上)と渋沢家墓所(中央)

阿部家の墓所は広くて目立つ。
しかし谷中墓地の中心、すなわち桜並木や交番があるメインストリートからは行きにくい。
要するに道がない。なぜか?
阿部家の墓所は寛永寺墓地であり、いま交番などのある天王寺墓地と背中合わせであった。だから、アプローチの道路は寛永寺側すなわち上野桜木のほうからしか、ついていないためである。
左、阿部家墓所の外壁
右、寛永寺墓地管理事務所
突き当り:青山胤通

2021‐10‐24 11:48
阿部家墓地
ここ数年何回か通っているが、いつも門が閉じられていた。
工事のフェンスに囲まれていたこともあった。
しかしこの日は開いていた。

昔から非常に手入れが行き届いた墓地である。
国土地理院1979-11-14
かつて谷中墓地は墓石より木が目立つほど樹木が多かった。
大きな墓ほど手入れもされず、茂っていた。
しかし阿部家墓所は、その中でも樹木を生えさせなかったようだ。(写真中央)
現在、上野桜木側入り口近くに放置自転車保管所があるが、ここも以前は鬱蒼とした森だった(中央、やや下)。

2021‐10‐24
奥は殿様一家らしい石塔が並ぶ。

阿部家は備後福山の殿様。
1997年、広島の学会出張の帰り、新幹線の福山駅ホームから復元された城が見えた。
そのころ、阿部家については幕末小説に出てくる阿部正弘くらいしか知らなくて、特に関心もなかった。

それが2011年、千駄木に家を買ってから本郷地域の文章をよく読むようになり、2013年に引っ越してからは自転車で文京区役所の帰りなど福山坂を上がって西片を通るようになった。そのころから阿部家の知識が増えていった。西片はかつて福山藩の中屋敷があって、明治以後も阿部伯爵家の邸宅があったからだ。

ところで江戸時代、本郷に西片という地名はなかった。
本郷追分から中山道の西側一帯は阿部伊勢守の中屋敷を中心に武家屋敷であり、東の片側のみ町屋があった。そこを駒込片町といった。
それが明治になって武家屋敷も宅地化され、中山道の両側が町になったため、東片町、西片町としたのである。
しかし昭和39年の住居表示で駒込東片町は、向丘一丁目となり消滅。駒込西片町だけ、文京区西片となった。

阿部正弘は阿部家宗家の11代当主、福山藩主としては7代目。
第5代藩主・阿部正精の5男として生まれた。兄の6代目正寧が藩政に熱心でなく28歳で隠居したため、17歳で家督を継ぎ7代目となった。
優秀さを12代将軍家慶に見いだされ、25歳で老中就任、2年後には老中首座であった水野忠邦をその地位から追い、老中筆頭となったが39歳で急死。
青天を衝けでは大谷亮平が演じたが、肥満体だったそうだ。

墓地中央の古くて大きな石は戒名だけで誰だか分からない(強いて横や裏を見なかった)。しかし左の一角に来ると阿部幽蘭之墓、阿部家之墓、と堂々と書いてあり、ここでようやく阿部家とわかる。
幽蘭は6代藩主・阿部正寧の長女。正弘の姪にあたる。
こちらは2つとも阿部伊勢守正弘の室と横の目立つところに彫ってあった。
正室:松平治好の娘・謹姫
継室:松平慶永の養女・謐姫

さて、阿部家はどういう家だったのだろう?
戦国時代、酒井、本多、大久保らとともに三河の安祥譜代7家に数えられた。すなわち古くからの徳川家直参の家臣である。家康の関東移封後、阿部正勝が鳩ケ谷で5000石を与えられた。1615年大坂の陣で豊臣が滅亡、徳川の天下が定まった後、正勝の子の正次が2万石の大名となった。正次は大阪城代を務めるなど急速に発展、加増され(1626年で8万6千石)、彼をもって江戸期の阿部宗家の初代とする。

手前には阿部姓でない墓石も一角に並ぶ。家臣の墓であろう。
豪徳寺井伊家の墓所も藩士の墓があった。
墓誌の南無妙法蓮華経の字を見ると福岡家は日蓮宗だろうか?
もちろん寛永寺は天台宗である。

大名家らしい古い墓石のなかに、まったく異質の新しい墓があった。
2021‐10‐24
阿部家奥津城
林立する代々の巨石に比べ、何と上品なことか。まるで芸術品のよう。
横が墓誌になっていて三人のお名前があり、裏に回ると
阿部正実 平成四年七月
とあった。いまも正の字を通字(とおりじ)とされているようだ。

ここで、西片における阿部家について書いておこう。
明治16年(1883)参謀本部陸軍部測量局
(国際日本文化センター所蔵)

明治維新で江戸の大名屋敷は政府が没収した。
福山藩中屋敷跡は、竹、桑、茶の栽培地となったが、敷地の南のほうに「阿部邸」が描いてある。ちょうど今の誠之舎のあたりである。

その後、阿部家は元の敷地を買い足されたのであろうか、屋敷地も南の崖線まで広げ、明治から戦後まで西片台地の先端部分に邸宅を建てた。
また、他の大部分の地は分譲され、東大教授をはじめとする明治上流階級の住宅地となった。
東京都区分図文京区詳細図(日本地図株式会社、1947)
(国際日本文化センター所蔵)
当時すべて10番地ということは、一人が一区画として保持していたことを意味する。
もちろん南端にみえる阿部家である。

かつての阿部家跡に行ってみる。

自転車で本郷通を越えると、中山道までの間は旧東片町である。
古くから家が立て込んだため、ごちゃごちゃしている。
2021‐12‐10
旧駒込東片町、現文京区向丘1‐16
江戸、明治と町の成立が全く違うとはいえ、西片と東片は街並みがあまりにも違うのが面白い。中山道を越えると西片。

西片公園からさらに南下
ゆったり分譲したのだろう、広い道路の中に木がある。
目白近衛町を思わせる。

明治以降、都内有数の高級住宅街というより、文明開化を進めた東大教授らが集まった元祖山の手という西片。
戦後できた田園調布や成城学園などと違い、ここに居を構えることは金持ち以外に特別な意味があった。
誠之舎(別ブログ)の隣が更地になっていた。
低層マンションになるのだろうか。ここから南が広大な阿部邸だった。

誠之舎の斜め前
豪邸が並ぶ。この左からかつての阿部邸。

阿部邸の正門は敷地北側で、このあたり右側だったと思うが表札はなし。

戦後、阿部邸の敷地の大部分はさらに分譲され、一般住宅となった。
かつての阿部家敷地内に新たにできた道路(誠之舎の南)を東に進み、やはり戦後新たにできた坂道をおりる。

崖下の道を西に行く。
この道は、まだ西片台地、南崖の中腹で、かつては阿部家の敷地内だった。
右に豪邸が続くが表札は阿部でない。

菊坂下から上がってくる石坂の中腹に出る。
その坂を上がり始めると表札があった。
2021‐12‐10
阿部正実邸
谷中墓地に新しく墓石を据えた方と同じ名前であった。


別ブログ

2021年12月8日水曜日

長野の墓参りと過去帳をみる

先月、ようやくコロナが落ち着いてきたので、2年ぶりに帰省した。
妻と息子夫婦も同行した。
早く着きすぎて善光寺を回って時間をつぶした。
(別ブログ)

長野電鉄はガラガラ。
信州中野駅からゆっくり家まで歩きたかったのだが、駅を出ると弟が車で待っていてくれた。岩船の家に着くと浦和の妹がすでに来ていた。

昼食前にみんなで村はずれの墓に行った。

いつも裸で持っていく花が、ま新しい手桶に入っている。見れば家紋も付いていた。
弟が墓を新しくして、業者がくれたという。

2021‐11‐06
遠くに北信五岳「まみくとい」がみえた。
写真では斑尾と、その隣の妙高が頭を少し出している。

我が家は他の家より墓石がいっぱいあり手狭だったため、それ以上増えないよう昭和30年代に私の祖父、8代袈裟太郎が「先祖代々の墓」を建てた。
昭和40年代、50年代になると他の家も大きな「先祖代々の墓」を建てていく。その際ぎりぎりまでコンクリートで土台を作るものだから、我が家の墓地だけ取り残されたようになっていた。
また、大正以前の先祖の墓石は、ほとんどが傾いて無秩序にたち、各墓石の間には萱だか葭だかが、強靭な根を張り、弟は草取りに難儀していた。

そこで弟は土の部分をなくし、墓石をきちんと並べたのである。
(並べたのはたぶん業者だろうが、法隆寺を建てたのは聖徳太子というのと同じ)

また初代「先祖代々之墓」は彫りが崩れ始めていたので新しく建てた。
正面の題目は「小林家」だけ。筆跡が弟の文字に似ていると思ったら、紙に書いて渡したのだという。

彼は自然石のような墓石で建てたくて、参考にしようと谷中墓地など歩いていた。しかし、業者に「うちには石がないから、探してきてくれ」と言われ、面倒になって平凡、普通にしたらしい。
祖先の墓石を並べ直すにあたり、土台や袴石は処分し、一番上だけ残した。

戒名しか書いてないから誰が誰だかわからず、多分順番なく並べたのだろう。
しかし両脇にぴったり置かれ、数とスペースが丁度良すぎると、まさか全部並べなかったなんてないよね?

新しく建てた墓誌は我々が知る、祖父母と父の3人だけ書いてあり、ずいぶんスペースがあった。
「子どもも帰ってくるかどうかわかんねえから、こんなに空いてなくてもいいんだけどな」
弟の娘は今年埼玉で就職、息子は3年前長野で就職したが、今年東京に転職した。

農業をする人もどんどん減り、墓の周りを見渡せば、畑だったところに新しいアパートが建っている。子供のころと比べてずいぶん景色が変わってしまった。

さて、並べ替えられた小さな墓石たちをみて、その主たち、先祖たちを見直してみようと思った。
名もない人々ばかりだが、自分の遺伝子のルーツがある。
我が家に家系図なんていう気の利いたものはない。
幸い、過去帳が2冊、仏壇の下にゴミと一緒に放置されていた。
2006年、父のがんが発覚したとき、デジカメで写した。
ぼろぼろの、何十年も誰からも忘れ去られていた、私も初めてみるものだった。
しかし結局、写真を撮っただけで15年パソコンの中に放置していた。
それを取り出して載せる。

2冊とも横に長い紙を折りたたんだもので、朔(1日)から晦日(30日)まで分かれている。そこには亡くなった人の戒名が書いてあった。

一番後ろを見ると、この冊子を買い求めた先祖の名前があった。

上は、「信濃國高井郡岩船村 小林清七 天保十二辛丑年」 
下は、「大正六巳年五月廿九日善光寺ニテ求ム 小林安治」 
と書いてある。

ちなみに清七さんは第5代、天保12年は1841年である。
我が家は、昭和29年中野市成立まで「下高井郡平野村岩船」といったが、江戸時代は「高井郡岩船村」だったようだ。人家が少ないと住所も簡単だ。

下の安治さんは7代で、善光寺参りした時のお土産か。
家から善光寺までは今の最短距離で20.5キロ、4時間15分。千曲川を渡った橋や道すじはよく分からないが、普通に日帰りできた。(私は高校時代、自転車で1,2回行ったことはあるが、歩いた記憶はない。もちろん計算根拠の10分800メートルのペースでは長時間歩けない)

1日から4日まで
見開き2ページで1日分。毎朝その日のところだけ開いてお祈りしたのだろう。
宝暦二年、天明八年とか遡れば、毎日、見知らぬ先祖の誰かの月命日だった。
5日から8日まで
上は古く、下は新しい。
下の新しいものは、古い過去帳を書き写している。
そして、転写の後、新たに死んだ人を書き足していた。

9日から12日まで

古い過去帳のほうは毎日仏の名前が書いてある。
朔から順に、定光仏、燈明仏、とある。
この写真だと、9日からは大通智勝仏、日月燈明仏、観喜仏、難勝仏、
西暦900年代に中国で定められた三十日秘仏という。

その朝、先祖の亡くなった日でなければ、代わりにこれらの仏の名を唱えたのだろうか。

13日から16日まで
古いほうは戒名没年だけだが、新しいほうは俗名、続柄も書いてある。
17日から20日まで

21日から24日まで
うえは21日から26日まで破損している。
毎朝何十年も開いたり閉じたりしたら、そりゃ破れるだろう。
乳幼児の死亡が多かったようだ、童子、童女が多い。
25日から28日まで

29日から31日まで
上は旧暦だったから29日と晦日(30日)までしかない。

上の過去帳を1841(天保12)年に買った第5代は、小林清七と署名している。

苗字(姓)は明治4年の戸籍法以降に庶民も名乗れるようになったと思っている人が多い。
(明治3年「平民苗字公称許容」の布告)
しかし江戸時代の百姓も普通に使っていたことがこれで分かる。

調べたら武士以外のものが公式に禁止されたのは、享和元(1801)の苗字帯刀の禁令で、その前後でも、私的には使っていたようだ。
そういえば小林一茶(1763-1828)も信州柏原の農民だし、苗字を使い、読み書きができて、意外と文化的な生活をしていたのかもしれない。

2021年12月5日日曜日

中村彝記念館と学習院職員住宅跡

目白近衛町とおとめ山公園を歩き、目白通りに戻る途中、ふと中村彝を思い出した。
以前、2015年ころ妙正寺川ほとりの中井駅から薬王院、七曲坂を上がって目白駅まで歩いたことがある。中村彝のアトリエのそばを通ったが夕方遅くて寄らなかった。

今回ようやく機会がきた。
2021-11-26 12:29
素敵な家の角の左の道をいく

豪邸を見ながら歩くとすぐ着いた。
12:33 中村彝アトリエ記念館
新宿区立の無料施設である。

彝はツネと読む。
意味は1 昔、中国で、宗廟に供え置いた器。2 人のつねに守るべき道。常道。
2の意味からツネと読むのであろう。

この人の名前以外にこの字を見たことがない。
あまり美術に詳しくないので、中村彝は千駄木の家を買った10年前まで知らなかった。2011年に家を買ってから引っ越すまで2年の間に、谷根千関連の文章をよく読んだ。40年前谷中に住んでいたときは全く興味がなかったのに、30年たつと知識も増え興味も老成する。


私が初めて入った美術館は、中学校で連れていかれた安曇野の荻原守衛(1879 明治12 - 1910 明治43)の碌山美術館だった。碌山は1899年、郷里の先輩、中村屋の相馬愛蔵を頼って上京、千駄木の不同舎で絵を学んだ。

彼はアメリカ、ヨーロッパで絵画から彫刻に転向、1908年3月帰国した。
本郷赤門前にあった中村屋は1907年新宿に支店を出し、2年後に現在地に拡張移転した。碌山は帰国して新宿中村屋のそばにアトリエを建てると、留学中に知り合った戸張、柳、高村、斎藤をはじめ、新たに中村彝、中原悌二郎、鶴田吾郎らが訪れ、中村屋は碌山を中心に若手芸術家が集まるサロンのようになった。

しかし1910年4 月碌山は柳啓助のためのアトリエを中村屋裏に完成させた夜に吐血。 帰国して2年、30歳で死去した。
以後、中村彝が中村屋サロンの中心人物となる。柳のアトリエは彼が結婚すると中村彝に譲られた。
https://www.city.azumino.nagano.jp/uploaded/attachment/23827.pdf

中村彝はそれまで太平洋画会のあった谷中、日暮里にいたが、
1911年、中村屋裏のアトリエにうつった(24歳)。しかし17歳の頃からの結核が悪化していく。中村屋、相馬夫妻の長女俊子をモデルに多数制作し、彼女に惹かれていった。
1915年、新宿のアトリエを出て再び日暮里に戻る。そして俊子との結婚を申し込むも反対された。
1916年、支援者により下落合にアトリエが完成、転居。

大正末期ともなると目白の西、下落合も家が建ってきたが、まだまだ別邸、畑が多い。
家々も一軒一軒名前が書けるほどゆったりしていて緑の多い閑静な土地であっただろう。

1918年、相馬俊子、ラス・ビハリ・ボースと結婚。かれはインド独立運動の志士で相馬夫妻が匿い支援した。
1921年、谷中以来の親友中原悌二郎(32歳)、結核で死去
1923年、関東大震災
1924年(大正13)12月24日、喀血、窒息により死去(37歳)

碌山も中村屋相馬愛蔵の妻、黒光に惹かれ、許されぬ恋に苦しみながら結核で亡くなったから、似ている。

記念館は旧アトリエの東に細長い管理棟が作られた。
老いた静かな男性が一人、受付にいらした。
見学者は誰もいない。

手前は「頭蓋骨を持てる自画像」
その向こうは「小女」(モデルはもちろん相馬俊子)。

こんな名品が、こんな空調も照明もいい加減な、こんな小さな無料展示室にあるのは、複製品だからである。大日本印刷が提供した高精度写真であった。

12:42
アトリエは靴を脱いで上がる。
ここは彝の没後、中村彝画室保存会が維持し、やがて洋画家鈴木誠が所有した。増改築が繰り返されていたが、新宿区が当時の部材を使って最初の姿に復元した。

アトリエの南は彝が寝ていた居間で、今はビデオ上映室になっている。
座って休もうとすると、管理棟から係の人が来て最初から巻き戻してくれた。

居間の隣は身の回りの世話をした岡崎きいの小さな納戸のような部屋だった。
彼女は死ぬまでの7年間、彼の世話をした。俊子に失恋し、結核で衰弱した人を看病し続けるとは、彼女は一体どういう人だったのだろう。

13:01
居間の前の庭。彼は庭や花壇にもこだわったらしい。

満足した記念館だった。
展示は複製品であったが、狭いながら情報量が多かった。
私のようなものには、広いスペースに1点だけ荘厳、厳重に見せる有名美術館より面白かった。
誰もいなくて無料だったし。


(以下、蛇足、というか別の話)
中村彝記念館前の道を戻る。
右側は崖である。相馬邸(おとめ山公園)の谷が続いているようだ。
芝生広場の南の谷ではなく、公園東縁、近衛町との境の谷のほうである。

次は近くの佐伯祐三アトリエ記念館(区立、無料)にいってみよう。
新宿区は歌舞伎町とは逆に、文化に理解がある。
おとめ山公園も素晴らしい。
うらやましい。

いっぽう、夏目漱石、樋口一葉はもっぱら文京区で活動したのに、それぞれの記念館は新宿区、台東区にある。サトウハチロー記念館に至っては文京区は遺族を怒らせてしまい、向丘弥生町から岩手県に移転、旧宅を利用していた記念館は駐車場になった。あの区はマンション建設には規制をゆるめ、人口増だけを目指している。文京区というのは恐らく明治大正期の文化人ゆかりの地としては23区随一と思う。しかしイメージとは裏腹に、文化に関心のない区であるのが、残念で、悔しい。いまの区長はもう4期目、サトウハチロー記念館騒動の時の区側担当者のお一人(区議会文教委員長)だった。

そんなことを考えながら下落合の住宅街を目白駅のほうに向かった。
13:04
こういう家に住んでみたかったなぁ。
不便な田舎なら豪邸を建てられるかもしれないが、大きいだけでは飽きてしまうだろう。むしろ自然と一体化した小さな家がいい。
都心の目白にあるからこそ、の満足感が大事なのだ。

腹が減った。
駅を通り過ぎて学習院に入った。
コロナ下でも東大などと違って入構規制はない。

輔仁会館の学食に入るも、コロナかつ13時半近いとほとんど人がいない。営業中かどうかも分からないほど。
自動販売機で食券を買った。メニューはテイクアウトできる3種類のみ。いい天気だったので外のテーブルで食べた。
食べ終わると 14:03

ふと、秋篠宮文仁親王妃、紀子様の父、川嶋辰彦(1940- 2021年11月4日)が先日亡くなられたことを思い出した。紀子様の婚約当時、3LDKのプリンセスと話題になった学習院職員住宅の跡に行ってみた。

野球部グランドを左に見ながら、森の中の坂を下りていく。
南門

14:32
職員住宅は南門の東側に2棟建っていたが、入居者の減少と老朽化のため2007年までにすべて取り壊された。跡地は新校舎敷地等に当てられる予定。

厩舎の前を通ると、だれもおらず、無人の廃屋のようだった。
二年間のコロナの影響だろうか、と思ったら、
静寂の中で突然一頭の馬が音もなく顔を出し、廃屋でないことを気づかせた。


別ブログ




2021年12月3日金曜日

相馬邸とおとめ山公園の歴史

明治末期、目白駅の西側に、五摂家筆頭・近衛家が広大な土地と屋敷を持っていたことを前のブログで書いた。

公爵・近衛篤麿(1863- 1904)が明治37年40歳で病没したあと、
大正初めに広大な敷地の西側、1万5千坪は磐城中村藩主であった相馬家に売却された。
1914(大正3)年、長岡安平が庭園を設計し、翌1915年、相馬子爵が内幸町より転居した。
1932(昭和7年)
明治末期の地図にあった近衛邸が消え、代わりに相馬邸が描かれている。
目白駅は崖下で目白通りに面していなかった。

近衛家は残る東側の大部分も堤康次郎に売却した。
その結果、一帯は分譲地となり今に残る道路ができた。

今の地図と見比べれば、中央の道路の真ん中にそびえるケヤキの北、下落合三丁目駐在所の場所に、すでに当時交番がある(x印)。
その西北の一帯、下落合436番地、437番地から目白通りまでの、まだ広大な敷地が(小さくなった)近衛邸。
交番からまっすぐ南下し突き当たった406番地は学習院昭和寮。ここは戦後、日立目白クラブとなった。
また、交番から東南に下る道の南の414番地に新しい学習院昭和寮が建てられたことは前のブログで述べた。

この日訪ねた中村彝アトリエ資料館にあった地図(大正末期)
道路はほぼ今と同じ。相馬邸と近衛邸に注目

さて、相馬邸。
例の交番からまっすぐ西に延びる道に接した南側に広がっていた。
この道に面して黒門という大名屋敷のような門があった。

この門から南がすべて相馬邸であった。
しかし、いまは北半分がすっかり住宅地になり(下落合2丁目22番地)、いくつか低層マンションが並んでいる。
その南がおとめ山公園である。

この日、おとめ山公園には東南から、すなわち近衛町の日立目白クラブのほうから入った。

四阿と池

新宿観光協会の公式サイトには
”「おとめ山」一帯は、江戸時代の将軍家の狩猟地で、立ち入り禁止の意味の「御留山」からつけられた名といわれています。明治以降は、山を南北に分けて、北側を近衛家、南側を相馬家が所有しました。”

と書いてある。
しかし近衛、相馬が南北に分けたわけでないことはすでに述べた。
また、将軍家の鷹狩の場ということも怪しい。幕末の地図には百姓地と書いてある。260年も続いた江戸時代、途中からは狩猟地も開墾され、山の名だけ残っていたのではないか。

おとめ山通り
公園はこの道路で2つに分かれている。

道路を渡って再び公園に入る。

相馬家の領地、陸奥中村藩6万石は福島県浜通り北部。宮城県に接している。1954年の市制施行前は宇田郡中村町と言っていた。相馬野馬追祭りで全国的に有名なことから、殿様の名前が市の名前になったのだろう。

相馬氏は鎌倉初期に千葉氏から分かれた。
私ごとだが、妻の実家の茨城県取手市はかつて利根川をはさんで千葉県我孫子などとともに下総国相馬郡といった。相馬氏はここが本拠である。鎌倉時代末期にお家騒動から分裂し、相馬重胤が頼朝以来安堵されていた陸奥中村に下向した。

明治以降は野馬追祭りのほか、ドラマのような相馬事件でも知られる。
また福島原発事故で大きな被害を受けた。
渓谷のような地形を上から見下ろす遊歩道。
東京とは思えない。

後楽園や六義園など手入れされた木々でなく、原生林のような森。

戦後、相馬家はここを手放し、北は民有地に、南は国有地となった。
国有地の部分はしばらく放置されたが、起伏にとんだ地形と樹林を残したいと近隣住民の強い要望が実り、東京都が整備した。1969年公園として開園、同時に新宿区に移管された。


1995
以前の地図を見ると、かつての公園は南の斜面と池を中心として今より狭い。
台地の上の芝生広場は公務員宿舎があったようだ。
つまり、旧相馬邸すなわち黒門から南は、一般住宅地(下落合2丁目22番地)、公務員住宅、公園、と3つに分かれていた。

その後、中央部分の公務員住宅が廃止され、敷地を新宿区が買い取って拡張、2014年10月に全面開園した。
この日、子どもたちが遊んでいた「みんなの原っぱ」は10年ほど前まで公務員住宅だったのである。

公園を出て周辺の住宅地を歩く。

おとめ山通りの坂上。下落合2-19-12
ここもかつては相馬家の敷地であった。
戦後、民間に分譲された部分は一区画が大きかったのだろう。
工事看板を読めば907平米に豪邸が建っていたようだ(溝呂木邸?)。
しかし、地上3階の共同住宅になるようである。

このあたりのマンションの名前は目白近衛町を冠する。
相馬家の前の近衛のブランドが生きている。
電信柱の表示番号も近衛xx号であった。


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