2022年11月23日水曜日

盛岡、桃山神社とお城の巨石は花崗岩

高速夜行バスで弘前に朝、到着。

弘前、青森、八戸を経て盛岡にやってきた。
(別ブログ)

盛岡駅から東にまっすぐ、盛岡城を横目で見ながら2.8km離れた岩手護国神社まで歩いて、お城まで戻ってきた。
2022-11-03  13:53
いま盛岡城址(岩手公園)はあちこち石垣を直している。

13:55
烏帽子岩(兜岩)
盛岡で一番感動したのはこの岩。
南部27代、盛岡藩2代の南部利直の時代、盛岡城築城の際、三の丸予定地に邪魔な石があった。どかそうと掘ったところ、掘れば掘るほど石は大きくなる。とうとう大きさ二丈(実測で高さ6.6m、周囲約20m)の烏帽子岩が現れたという。途中でよく諦めなかったものだ。現場監督が怖かったのだろう。
しかし今見れば、その下にもっと大きな岩が見える。

すぐ下には桜山神社があり、この岩が地震などで滑り落ちたらどうなるだろう?
13:56
桜山(さくらやま)神社
神門のしめ縄から、紙垂(しで)のほか、のれんのようにモミジがぶらさがっていた。真ん中の紅葉のひもは、くるぶしあたりまである。いいセンスをしている。
御祭神は奥州南部氏初代の南部光行、26代の南部信直(盛岡藩初代)、27代南部利直、36代南部利敬の4人。
13:59
1749年、城内本丸の下、淡路丸に創建された時は盛岡藩初代信直を祭ったものだったが、1818年に南部光行、大正時代1912年に利直、利敬を合祀したという。
13:59
桜山神社の東は内堀で、鶴が池と呼ばれる。
(一方、城の西の内堀は亀が池)

13:51
駅前から来る大通りは桜山神社の前を通ってお城の北を横断している。

14:00
鶴ヶ池(内堀)にかかる橋の上から下曲輪方向(北)をみる。

大通りによってお城から分離された部分(下曲輪、勘定所があった)には時鐘のほかに商業施設、飲食店などもある。

写真では時鐘(ときがね)と岩手公会堂のてっぺんが見える。

時鐘は1679年に鋳造され明治維新のころまで用いられた。
鐘銘「奥州路磐手郡盛岡県城北更鐘」にある「路・郡・県」は中国の地方行政区に擬したもので、「更鐘」は時鐘のこと。

そちらは後で行くとして、南側のお城のほうに行く。
14:01
桜山神社と鶴ヶ池の間を行くと多目的広場にでる。
古絵図では御台所と書いてある。
石垣の上は三の丸

14:03
広場の一部は石垣修復中の石置き場になっていた。
新しい石かと思ったら、いったん外した古い石らしい。矢穴がついている。
説明版によれば、この城のある丘は花崗岩の山だそうだ。
各曲輪を作るにあたり、切り出した石がそのまま石垣に使えたようだ。
古代からの平野にある弘前城、河岸段丘の根城、八戸城と違って、石材に困らなかった。

多目的広場から三の丸に上がる。
14:05
三の丸の石垣の一部は、全貌が分からないほどの巨石だった。
しかし当たり前のように、説明版などはない。

14:05
三の丸へ上る斜面から西をふりかえる。
見事な石垣の上は二の丸
14:06
三の丸に上がるとまた新たな巨石が頭を出している。
もう少し奥のほうに烏帽子岩の頭がある。
盛岡城の土をはげば、オーストラリアのエアーズロックのような巨石なのではなかろうか。

麓にあった城内地図を改めてみれば、三の丸にはこの石と烏帽子岩のほかに、2つの巨石が頭を出しているようだ。

14:07
三の丸から北側(桜山神社方面、瓦門、鳩門址)をみる。
14:08
西側
見事な石垣。昔はすぐ先を北上川がぶつかってくるように流れていたらしい。

14:15
三の丸から二の丸へ入る車門

14:16
二の丸から車門址を見る。
江戸城のような見事な石垣
石材が豊富だと形もよい。
14:14
啄木歌碑
不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心

啄木は盛岡中学時代、よく授業を抜け出してきて200メートルと離れていなかったこの城で昼寝や読書を楽しんだという。その情景が見事に浮かぶ。

不来方は盛岡の古名。むかし鬼が暴れていて、神にとらえられた後、二度と来ない地として不来方と一帯が名付けられた。南部氏が三戸からこの地に来たとき、初代藩主利直が不来方の文字を嫌い森が丘と改名し、3代重信が盛岡に変えたという。

二の丸には啄木歌碑のほか、新渡戸稲造記念碑がある。

14:19
二の丸(左)と本丸を結ぶ渡雲橋(御廊下橋)
ここが岩山だったとすると空堀でも掘るのは大変だっただろう。
石は豊富でも、切り出し加工し、さらに積むには高度な技術を必要とした。

それにしても大きな木も生えているお城が本当に岩山だったのか?
念のためネットで調べた。
http://www.asahi-net.or.jp/~zd2t-swgc/localneta/geo/gmorioka/gmorioka.htm

本当に花崗岩の山だった。

(続く)

2022年11月22日火曜日

盛岡八幡宮から利久の冷麺まで

高速夜行バスで弘前に朝、到着。

弘前、青森、八戸を経て盛岡にやってきた。
(別ブログ)

盛岡駅から東にまっすぐ歩いて岩手護国神社まで、2.8km、36分。
実際は立ち止まって写真を撮ったこともあったが、雨の中、45分くらい歩いた。

護国神社を10分ほど見て、隣の盛岡八幡宮の境内に入る。
二つの本殿は並んでいて、一つの神社のように敷地もつながっている。
もともと護国神社が八幡宮の境内に作られたのだから当然か。
12:31 盛岡八幡
本殿の前で結婚式の撮影だろうか。
花嫁が衣装を直されている間、新郎は雨空を見上げていた。

12:31
八幡宮本殿
盛岡八幡は1062年、源頼義が安倍氏討伐の際に、戦勝を祈願して石清水八幡を勧請したのに始まるという。その後、南部氏が盛岡城を築城したさい、城内鎮守の神社として再建された。八幡は源氏の氏神であるが、南部氏は甲斐源氏を自称した。
奥州南部氏の発祥の地と言われる八戸にも櫛引八幡があり、宗家が三戸から盛岡に移った後も櫛引八幡を飛び地として管理した。

境内に玉ねぎが干してあるようなものがあった。
近づけばひょうたん。
12:32
ひょうたんには自筆で名前と年齢が書かれている。
願いごとが書かれていないところが絵馬と違う。

12:34
本殿前から西を望む。
まっすぐ伸ばせば盛岡城にぶつかる。
境内も広い立派な神社である。

12:35
狛犬の向こうに祠が一列に並んでいた。
12:37
近づくと「申年」「酉年」などと十二支が書いてある。
12:37
12の祠は、生まれ年によって決まる一代守護神社(十二支神社)というようだ。
一生守ってくれるというが、願掛けの定番すなわち受験、恋愛、就職などは同じ干支がライバルであり、一代守護神に絵馬の奉納すれば良いと言われても・・・・。
12:38
恵比寿さんと大国さん
よくみる七福神は一か所で一体だから気にしなかったが、並ぶとほぼ同じ顔をしている。

12:39
古札納所
古札だけでなく達磨やら破魔弓やら、段ボールごと納められたものもあり、まるで粗大ごみ置き場のようになっていた。
まあ、確かに持ってきた人にとっては、ふだんのゴミに出すわけにいかず粗大ごみだったわけだが。

岩手護国神社、盛岡八幡宮をあとにして、繁華街に戻った。
12:52
左は江戸時代から続く盛岡最古の商店街、
アーケードがある「ホットライン肴町」

12:52
岩手銀行赤レンガ館
1911年に盛岡銀行(現岩手銀行)の本店として落成した。東京駅で知られる辰野金吾の作品としては、東北地方に唯一残る。
2012年8月まで銀行として使われ、保存修理工事を経て、2016年からイベントなどに使われている。

さて、昼食はどうしよう。
例によって長時間、空席だらけの電車でお菓子を食べていたからまだ空腹ではない。
しかし雨中歩いて座りたくなっていた。
広い庇の大通り商店街にはいると、「木曜日は冷麺の日 500円」と表に出ている店があった。
確かに今日は木曜だが祝日である。近年は平日休日関係なくサービスランチを出す店が増えた。

入ると洒落た焼肉の店のようで、窓際の席に案内された。
13:08
盛岡冷麺とはよく言うが、普通の冷麺とどこが違うかよくわからなかった。
関東で食べるより麵のこしが強い気がしたが、一回食べただけでは分からない。

2枚入ったチャーシューを見るとなんか違う。
牛タンのよう。
口にするとますますそう思った。
薄かったが柔らかくて美味。
ここで改めてメニューを見たら仙台牛タンの名店・利久の盛岡店だった。
サービスでついていた半ライスが麦飯という理由も分かった。

13:25
ふと窓の外を見ると向かいは東家。
わんこそばで有名な創業明治40年

昔からいつか盛岡でわんこそばを食べたいと思っていた。
今回、たぶん最初で最後の盛岡へ行くにあたり、一応調べた。
その中に東家があった。

前掛けをつけて、全てに給仕のお姉さんが付き、目の前にお椀が積み重なっていく。もうこれ以上食べられないと思っても、すぐふたをしないとお姉さんに次のそばを入れられてしまう。お姉さんとの闘いは笑い声に包まれ、さぞかし楽しい席のようだが、これを一人で食べるのはどうなんだろう?
やぶ屋のように二人以上という店と、東屋のように一人でもいいという店がある。大体一人前3000円プラス税。しかし私としては一人ではしゃぐのは無理だし、腹も身のうち、この年では大して食べられない。
結局わんこそばは諦めた次第であった。

わんこそばの代わりに冷麺を静かに食べ終わった。
念のため、レジで支払うとき、あれが牛タンかどうか聞いた。彼女は厨房まで聞きに行き、「そうです。でも非売品だそうです」と言った。レジの前にはお土産用に、牛タン真空パックやソーセージなどの冷蔵庫があった。

(続く)

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2022年11月21日月曜日

盛岡駅から北上川、護国神社まで

高速夜行バスで青森県に朝、到着。

日中、弘前、青森をみて八戸で泊る。
翌日、八戸市内を少し見て、各駅停車の電車で盛岡にやってきた。
2022‐11‐03 11:20
盛岡駅前(東口)
弘前、八戸と違って、ちゃんと駅前から繁華街になっている。
人口29万。
岩手県は奥州(水沢)、一関、北上、花巻の4つが10万人クラスである。

中心街の地図をもらうため、観光センターを探した。
駅ビルの中を探して歩く途中、「岩手の先人」という岩手県出身の有名人9人の顔写真が大きな柱のまわりに貼り付けてあった。
11:27
田中館愛橘 二戸市 地球物理学者
米内光正 盛岡 総理大臣、終戦時の海軍大臣
野村胡堂 紫波町 銭形平次の作者
萬鉄五郎 花巻 洋画家
佐藤昌介 花巻 初の農学博士、北大初代総長
三船久蔵 久慈 柔道家
斎藤實 水沢 海軍大臣、総理大臣 
後藤新平 水沢 医師、内務大臣、東京市長
長沼守敬 一関 彫刻家

田中館の家は弥生の異人坂の上、東大向ヶ岡寮の前だったことは以前書いた。米内、斎藤、後藤はよく知っていたが、野村が岩手県とは知らなかった。萬、佐藤、三船、長沼は名前も知らなかった。
一見地味だな、と思うが、もっと有名な5人は一人で一本の柱を使っていた。 
11:28
石川啄木 
新渡戸稲造
原敬
金田一京助
宮沢賢治
の5人である。

石川、新渡戸、金田一は文京区とも縁が深く以前ブログでも書いている。宮沢も本郷菊坂に下宿していた。

ここまで地元出身の偉人を大々的に宣伝するのは珍しいが、私は好きである。
盛岡、岩手県は郷土愛が他より強いのかもしれない。
「古来山河の秀でたる国は偉人のある習い」と『信濃の国』6番の歌詞にあるように、岩手山、北上川と厳しい気候によるものか、あるいは明治の薩長に対する反骨精神だったか。

無事、観光センターで市街図などをもらって町に出た。
11:38
駅前から大通りを東に向かうと開運橋が見えた。

11:41
開運橋と北上川
晴れていればここから岩手山が見えるらしい。

北上川は、この少し下流で雫石川、中津川と合流する。盛岡はこの地点に発達した。
桓武天皇の時代、征夷大将軍・坂上田村麻呂がここに志波城を築いたのは、当時の交通が河川であったのかもしれない。

ところで北上川は思ったより小さかった。
地図で見れば川幅は雫石川のほうがずっと広いが、宮城県の海まで行く本流は北上川である。

どっちが本流になるかという基準はあいまいである。
例えば信州の千曲川と犀川では、水量、流域面積、水源までの長さでは犀川のほうが勝り、本流とされる千曲川が勝つのは川床の低さだけである。結局、合流した後の川を下流の長野、中野、飯山などの人々が昔から千曲川と呼んでいるから、本流になっている。
ではなんで千曲と呼んだかというと、犀川が松本平からいったん山間部に入ってしまったのに対し、千曲のほうは上田、佐久と善光寺平から連続した平地が続いていて、上流と下流で人々の交流があったからである。つまり計測可能な物理量ではなく、文化、歴史的要因で決まる。

北上川がなぜ本流かは知らない。
そんなことを考えていたら雨がぽつぽつ降り始めた。
11:47
開運橋を渡り、駅から離れていくと庇のある商店街になる。

11:54
商品か自家用か、干し柿がぶらさがる吉田青果店

11:56
盛岡城公園の北西角についた。

11:57
石垣の工事をしている。
盛岡城は一番の見どころだが時間がかかりそうなので、後回しにして先に遠いところから見ていくことにした。

12:19
盛岡八幡宮に到着
はて、参道の向こうには何もない。

工事中の柵がある駐車場を超えて進むと左に直角に参道があった。
進むと盛岡八幡ではなく、護国神社だった。

12:21
岩手県護国神社

12:22
明治2年、明治天皇の命により、維新で殉難した士を全国で祀ることになった。藩知事南部利恭は、目時隆之、中島源蔵の二人を盛岡市東中野茶畑(地名、現在地の東のほう)に奉祀した。その後、盛岡城跡公園、さらに1906年、ここ八幡宮境内に遷座し、戊辰、西南、日清・日露の戦役、満州・支那事変、大東亜戦争まで岩手県ゆかりの英霊三万五千余柱を祀る。

12:23
神楽殿の脇に廃材、ガラクタとともに仏像が捨てられたように置かれていた。
世の中に欲しい人はいるだろうが、多くの人は気持ち悪いからもっていかない。
12:25
ビアク支隊戦没者顕彰碑
大平正芳書

左は「南部ルソン島マニラ地区 振武集団第八師団
歩兵三十一連隊戦没者将兵一同之霊」という碑。

ビアク支隊は、昭和18年の暮れ、急遽、北支山西省よりニューギニアに派遣された第36師団(1939年、弘前で新設、雪部隊)のうち、ニューギニア北方のビアク島に分遣された歩兵第222連隊(葛目部隊)を中心とする11,267名の混成部隊。
連合軍は突如昭和19年5月ビアク島南岸に殺到。以来制海・制空権ない中よく抵抗したが、7月2日軍旗を奉焼し、司令官は引責自決した。7月25日「ビアク支隊は玉砕することなく極力ビアク島に健在し、現地自活を徹底しつつ次期攻勢を準備すべし」との持久命令を受け、生き残った将兵は密林に分散したが、その殆んどがあたかも大地に吸われる水の如く戦場の土に帰した。

振武集団は、それまで満州にいた弘前第8師団を昭和19年にフィリピンに移し、現地編成の105師団とあわせて昭和20年1月にできた組織。

二つの碑の後ろには岩手県戦没者遺品館があるが、閉館中だった。
12:28
平和の塔
いかにも昭和戦前のデザインだが、名前から想像される通り、昭和27年に建てられた。
旧盛岡陸軍墓地,観武ケ原(練兵場があった),旧歩兵31連隊などに忠霊塔を建てる計画で収集していた約5,500余柱の分骨や混骨ならびに遺品が納められているらしい。

岩手の偉人として盛岡駅にも紹介されていた米内光正の銅像を探したが見つからない。
日米風雲急を告げる1940年、総理大臣に就任したが対立する陸軍によって総辞職させられた(後継は近衛文麿の再就任)。また、終戦工作に努力した最後の海軍大臣でもある。
同じく海軍大臣、総理大臣を歴任した斎藤実は岩手でも水沢のほうだから盛岡に無いのは分かるが、米内の銅像はここにあると昔来た信州の弟に聞いていた。

就職した1981年か82年、研究所の上司だった針谷祥一部長に「米内光正」(阿川弘之)を紹介された。それまで自然科学の本以外ほとんど読まなかった私が、海軍から始まって、軍事、歴史、人文地理の本を読むようになったきっかけの本だった。

境内は見落とすほど広くもない。
米内の像はここへ来た一番の目的であるが、諦めて隣の盛岡八幡に向かった。

(続く)


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2022年11月20日日曜日

八戸から各駅停車で南部をゆく

2022‐11‐03 8:38
本八戸駅から、八戸城、根城をへて、JR八戸駅に来た。
駅舎こそ新幹線停車駅らしく新しいが、周りに繁華街はない。

8:38
こちらが八戸市中心街のある方向の東口
9:12
西口のほうは、駅舎から見下ろせば、まるでつい最近まで東北の原野だったかのように何もない。

八戸駅は
1891年(明治24年)日本鉄道青森線の尻内駅(しりうち)として開業した。
1894年 日本鉄道青森線支線が八ノ戸駅(のちに八戸駅に改称)を開業
1906年 日本鉄道が国有化
1909年、青森線は東北本線、支線は1909年八戸線となる。
1971年、八戸駅(初代)は本八戸駅に、尻内駅が八戸駅に改称された。

もともと、八戸という城下町にできた駅ではなかったのである。
さて、八戸から盛岡に行く。
新幹線にのると自由席(特定特急券)が1840円、乗車券が1690円で合計3530円。
所要時間28分から32分。
一方、在来線各駅停車は3110円。所要時間が1時間22分。

わずか420円の違いでこれだけ時間が違えば全員新幹線に乗るだろう。

なんでこんなおかしなことになったかというと、新幹線開通により東北本線がJRから離れ、青い森鉄道と岩手銀河鉄道になったからである。運賃は1690円から3110円と倍増した。これではますます客は離れ、本数も新幹線と比べ圧倒的に少ない。
実際、盛岡行きは9:30の次は驚くことに13:35までないのである。

各駅停車は、駅を2つ3つ乗る高校生など地元の人だけの電車になっている。

さて、改札口の前で大分迷ったが、各駅停車で行くことにした。
もう二度と来ることはないので、八戸、盛岡のほかに、その間の小さな駅、南部地方の町まで(車窓からだけでも)見てしまおうと思ったのである。特に用事のない旅行というのはこういうものだろう。

駅の土産物屋で好きなピーナッツ入り南部せんべいを買って電車に乗り込む。
このせんべいを食べると杉原重孝さんを思い出す。

9:30定刻通り電車は八戸駅を出発。
9:32
本数少ないのに乗客が少ない

八戸駅を出てすぐ東北の原野が広がる。
9:34
八戸から一つ目、高岩駅着
新しい道路(国道104号)と新幹線のほかは何もない。

9:38
苫米地駅
人名にもあるが、どういうところか知らない。

9:38
ガラガラなので反対方向も撮り放題。

9:42 剣吉
八戸から3つ目の駅。

9:44
名久井岳。
南部小富士ともいわれる。標高615メートルと意外と低い。

9:47 諏訪の平
青い森鉄道は八戸からずっと馬淵川(まべちがわ)に沿って走っている。
八戸城や根城のすぐ北を流れていた川である。
電車が諏訪の平を出ると、川は蛇行し、まっすぐな線路にまとわりつくため、電車はしばしばこの川を渡る。ゆったりとした流れに木々が枝を張って、あたかも河童が住んでいそうな景色。そうした伝説が生まれるのも分かる。
9:51 三戸
「南部利康霊屋」という名所案内板
南部27代利直(盛岡藩2代)の4男であった利康は、1608年三戸城中で生まれた。1626年、一族である南直義の家を継いで浅水城主となり、五千石を領した。
 三戸城内に邸宅を構えて常住し、1631年、病のため24歳で逝去した。
盛岡藩3代、南部重信と八戸藩初代、南部直房の兄にあたる。

目時駅は写真を撮り損ねた。
以後、各駅の写真を撮ることはやめた。

0 09:30八戸
1 09:35北高岩
2 09:38苫米地
3 09:42剣吉
4 09:47諏訪ノ平
5 09:51三戸
 苫米地から三戸まで三戸郡南部町
6 09:55目時 

ここまで青い森鉄道、八戸から25分 25.9km 690円
次の金田一温泉からいわて銀河鉄道、盛岡まで1時間22分 82.0km 2,420円
9:56
河童が出そうな景色は何回もあったのだが、山と違って一瞬だがら撮ることができずに、そのうちこんな人工的な川になってしまった。

9:58
7 10:00金田一温泉
  駅に「ざしきわらしの里」と書いてあったが、岩手県なら遠野はじめどこにもいるだろう。それより金田一京助のほうが気になる。彼は盛岡市内の生まれ。

8 10:04斗米(とまい)
  このあたり各駅に到着の際は音楽が流れる。演歌なのか民謡なのかよく分からず。

9 10:08二戸

10:08 二戸駅
久しぶりの町。
二戸市は岩手県最北端の市で、新幹線の停車駅でもある。
ここは二戸郡で、九戸郡はまた別にあるが、九戸城址(九戸氏の居城)は二戸にある。

10:08
二戸駅の東に崖が見えた。
馬淵川の馬仙峡である。
10 10:13一戸
11 10:18小鳥谷(こずや)
 小鳥谷駅を出てすぐ、線路と並行して流れる小繋川(馬淵川の支流)で工事をしていた。ちょうど休憩時間のようで、工事の人々が線路わきの草の上で車座になってお茶を飲んでいた。紅葉の中、笑い顔がまるで絵のようだった。

12 10:24小繋(こつなぎ)
小繋川は小さいが、線路のすぐそば、葦と笹の湿原を蛇行するように流れていて、雨が降ったら一面水浸しになりそう。人家、田畑はほとんどない。

10:27
小繋駅と奥中山高原のあいだ。
13 10:33奥中山高原
14 10:40御堂(みどう)
15 10:44いわて沼宮内
16 10:49岩手川口
17 10:54好摩(こうま)
ここから盛岡市である。
10:52
姫神山 標高1123メートル
日本二百名山の一つ。独立峰だが火山ではないらしい。
石川啄木が愛した山。
渋民を挟んで反対側の西にそびえる岩手山の妻だったという物語がある。
岩手山・早池峰山とともに盛岡城から仰げる南部三山のひとつ。

10:58 渋民駅
啄木の故郷である。
彼は1886年(明治19年)南岩手郡日戸(ひのと)村(現盛岡市日戸)に、曹洞宗常光寺住職の石川一禎の長男として生まれた。1887年春、1歳の時に、父が渋民村(現盛岡市渋民)の宝徳寺住職に転任したため一家で渋民村へ移住した。

10:58
啄木の顔入れ看板が奥のほうにしまってあった。
本来はホームで山などを背に置くのだろう。
しかし乗降客もおらず、誰も利用しそうもない。
それにしても、これを作るのは観光協会だろうか? 
なくても困らないと思うが。
18 10:58渋民
19 11:03滝沢
滝沢村は南に隣接する盛岡市のベッドタウンとして人口が増え、2002年には5万人を超える日本一の村だった。2014年に単独で市に移行。西の岩手山の山頂まで市域であり、陸自岩手駐屯地、岩手県立大学、盛岡大学がある。

20 11:05巣子(すご)
巣子を過ぎると新幹線と並行して走る。
新しい家、大きなビルも見えた。
盛岡が近くなったことが分かる。

いつの間にか電車も混んできた。今日は文化の日。
向かいの長い椅子席に女子高生(中学生?)が4人並んで座っていた。
盛岡の街に遊びに行くのかな?
弘前美人、青森美人とよく言うけど、盛岡も美人が多い気がする(関東甲信と比べて)。そんなことを考えていたら一人と目が合って慌ててそらした。

21 11:10厨川(くりやがわ)
22 11:13青山
23 11:18盛岡 終点

11:20 盛岡駅前
弘前、八戸と違って、同じ城下町だが、駅前から大都市の雰囲気がある。

八戸から移動を兼ねて24駅も初めて見られて良かった。
一県で四国の面積に相当するという岩手の山河も見れた。
ところどころ眠ってしまったけれど。

(続く)