高等学校医学部薬学科の修学旅行(明治31年)
薬学雑誌1898年度 629頁 など
1894、明治27年、高等学校令により、各学区に1つずつ,5校あった高等中学校は高等学校と改称された。それらは学部も持っていて、そこに医学部薬学科もあった。
本部と付属医学部薬学科の所在地は
一高 本郷弥生 千葉猪鼻
二高 仙台 仙台
三高 京都 岡山
四高 金沢 金沢
五高 熊本 長崎
都道府県立の旧制中学の卒業生の中には、高等学校付属の官立薬学科に進むものもいた。
修学旅行という語は当時もあった。
しかし彼らの旅行は、ほとんど徒歩だ.
当時は有機化学も製薬会社も未発達で、薬は昔ながらの草木や鉱物だったし、衛生化学,裁判化学などの無機分析がハイカラ、花形の学問だった頃である。
目的地の多くが温泉場だったのにはちゃんとした理由があった。
一高(千葉)は5月8日出発で5日間。医学科1,2年は日光,3年箱根に対して,薬学科は房総.「房総各地は風景絶佳にして異卉珍草は山野に充ち,加ふるにヨウド製造所,峰岡銅鉱山あり。修学旅行には最高の地方にして・・」(629頁)
仙台の二高では、塩浜肝油製造所,沃度加里製造所,石灰製造所、薄荷培養所その他温泉場を見分して5日間の旅行(516頁).
岡山の三高は記事がないが、そのはず、三高医学部薬学科は、1894年に4年で廃止されている。
金沢の四高は、1年生が1泊にて江沼郡馬場山付近へ植物採集(536頁)。3年生は5月26日より3泊で鉱泉分析実地試験のため,加賀国能美郡山中村温泉場へ (638頁).
長崎の五高医学部は2月23日から11日間熊本,鹿児島へ(301頁)。
「特に薬学科第3年級および第2年級の十数名の学生は別に薬学隊を組織し,植物採集用具あるいは鉱泉試験用器械および薬品を銃に代えて携帯し,途中・・薬学上に関係あることは悉く研究材料となせり」。
鉄道のない時代、三角に上陸,比奈久,佐敷,水俣(以上肥後),大口,横川,加治木(以上大隈)等を経て鹿児島市では島津公の鉱石分析所など見学、夢のような直行汽船で帰校した。
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