2018年11月28日水曜日

子規の墓が大竜寺である訳

11月11日、上中里の体育館に行ったとき、道中写真をいっぱい撮った。
その中でブログに書いてないものあり。

真言宗大龍寺。
2018-11-11
自転車でこの前を通るのは数え切れず。
入るのは3回目か4回目だが
写真を撮るのは初めて。

門前左側、石柱2体あり。
左は大龍精舎とある。
精舎とは精進する者たちの舎宅だろうが、寺の意味だろうか。

右の子規居士墓所の文字は誰が書いたのだろう。
親友の中村不折とは少し違う。裏を見ればよかった。

寺院はなかなか入りにくいが、案内の石柱があるくらいだから、入らせてもらう。

本堂うらの墓所に入ればいきなり板谷波山。
そういえば彼の自宅兼工房は(別ブログで書いたが)すぐそばだった。
ご子孫の板谷家は区画整理で消えてしまったが。

この大きな墓所は大川家とあった。
製紙王といわれた大川平三郎のようだ。

裏の工事は田端中学の新築だろうか。
田中家墓所。
こんなに大きな墓域はだれだろう。

田中家の墓には犬塚もあった。

墓地の一番上は大龍寺累代和尚の、墓石というより石塔が並んでいた。
その下には「勲二等イ、エチ、ハウス」と書かれた大きな墓があったが、だれだか知らない。

さて、子規の墓。

左から正岡氏累世墓、子規居士之墓、正岡八重墓
八重の墓など不折っぽい。
中村不折は根岸の子規庵のすぐ前に住んでいたが、子規の亡くなったときはフランス留学(1901-1905)でいない。

母八重の墓はあるが、妹の律の墓はどこだろう。
彼女は母方の叔父・加藤恒忠の三男・忠三郎を正岡家の養子として迎えたから、阪急に就職した忠三郎氏が関西に作ったのだろうか。

有名な子規自筆の墓誌銘
まだピカピカ。初めて来たときは古い石だった。

正岡常規 又ノ名ハ處之助 又ノ名ハ升 又ノ名ハ子規 
又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人 
伊豫松山ニ生レ東京根岸ニ住ス 
父隼太松山藩御馬廻加番タリ 卒ス 母大原氏ニ養ハル 
日本新聞社員タリ 明治□□年□月□日没ス 享年三十□ 月給四十圓

この墓誌銘は、死ぬ4年前、河東銓(可全、碧梧桐の兄)宛の書簡に別紙として添えられたもの。
子規の墓は最初、墓石だけだったが、三十三回忌にあたる昭和9年、子規の手筆のままに銅板に刻まれた。子規が残したものは、そのまま貼ってもいいくらいの紙に書いてあったという。しかし盗難にあい、昭和11年、石に彫って再建された。

私が最初に来たとき(多分1995年ごろ)は、その石だったが、1999(平成11)年に建て替えられた。二回目に来たときは既にこの石でちょっとがっかりした。

それにしても、死んだ日が空白の  □ のままになっている。
子規は数字を埋めてもらうつもりだったであろうが、弟子たちはもちろんそのままにした。
□こそ、彼が書いた証である。一字一句、変えられない。


明治35年9月19日、
  おとといの糸瓜の水もとらざりき

筆は自分でとったが、書いて置こうとして畳に墨が付いたという。

最初の喀血から14年、寝たきりも長かった。
あれだけ死にそうな状態が続いていた中で、よくも死ぬ日がぴたりと分かったものだと思う。

亡くなった根岸の子規庵の周りには谷中など寺がいっぱいある。
しかし、「酔った花見客にステッキの先で墓石をつつかれるのは嫌だ」と生前佐藤紅緑にいい、死期が近くなって友人門人は田端の大龍寺を探し伊藤佐千夫らが下見したという。

確かに谷中では上野や根津の酔っ払いが来そうだ。
ここは今でも谷中の寺よりも落ち着いている。

土葬だったそうだ。
葬列は日暮里の踏切を渡り花見寺の前を通ったというから、芋坂、もみじ坂ではなく、御殿坂を上がって六阿弥陀道を歩いたのだろう。

日露戦役の前で、秋山真之は弔問したが葬列には加わらなかった。
彼は3年後、戦争が終わって一人根岸に立ち寄り焼香してからここに来た。
どの坂を上がったのだろう。
雲はあったかな。




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