2018年11月13日火曜日

西ヶ原一里塚、七社神社

11/11、ダンスの練習はパートナーと喧嘩になったので早く切り上げた。
おかげで秋の日も残っており散策を続ける。

消防署、滝野川体育館のある公園、花と森の東京病院、国立印刷局、と本郷通りの東側は、明治以来農事試験場などであったから、一切、民家がない。

滝野川警察署までくると一里塚がある。
本郷通りは、かつての日光御成街道。
将軍が日光に行くときは千住、草加を通る日光奥州街道ではなく、この道を通った。
また、岩槻も通ることから岩槻街道ともいう。

一里というから東大農学部前の本郷追分から3.927㎞か。
千駄木の家から2.9㎞、徒歩35分とグーグルマップで出た。
ちと遠いが、田端坂巡りの続きなので、このブログは「ご近所」カテゴリーに含める。
両側二基の間を上り車線が通っている。

横断禁止の標識に気が付かず、滝野川警察署の前で堂々と中之島にわたった。
木は榎。
近くの城官寺墓地に榎本という姓が多いことと関係あるかと思ったら、一里塚の木は榎が圧倒的に多いそうだ。

上がって石碑を読もうとするが、風雪に崩れて読めず。
公爵徳川家達 題
三上参次 撰
○○ 書
とある。家達は題字の部分だけ書いたのかな?

裏面は文字が少なかったので読んだ。
江戸城虎ノ門の石垣の石で捨てるところを持ってきた。江戸のものを記念するにふさわしい石だと。

歩道に戻ってもう一つの塚の上の案内文をみたら、碑文が全部書いてあった。

隣は、さらに碑文を解説している案内板。
大正時代に東京市電がここを通るとき、撤去されそうになったらしい。
役に立たなくなったものより新しいものに目が行った時代、近くの渋沢栄一や地元住民らによって保存に成功したのは特筆すべきことだ、のようなことが書いてある。

この裏に一里塚クリニックという医院があった。

ちょうど七社神社の参道になっていて、七五三の宣伝をしていた。
行ってみる。
途中、素敵な羊羹じゃなくて洋館

七社神社というから神社が7つあるのかな、と思ったらそうでもない。
七所神社というのも各地にある。
(岡崎に六所神社があったな)
本殿脇の夏みかんが印象的。枳殻もあった。
神主さんは柑橘類が好きなのかな。

本殿脇に社あり。
天祖神社
七社神社はもと西ヶ原村の鎮守で別当の無量寺境内にあった。

「新編武蔵風土記稿」に
「西ヶ原村七所明神社、村の鎮守とす。紀伊国高野山四社明神をおうつし祀り、伊勢・春日・八幡の三座を合祀す故に七所明神と号す。末社に天神・稲荷あり云々」
とあるらしいが、それでは4たす3たす2で、9社になる。

明治になって神仏分離のとき、この地にあった一本杉神明宮の社地に移ってきた。
このとき神明宮のほうは天祖神社と名前を変え(駒込神明宮と同じ)
七社神社の末社になったというが、10社になる。
それにしても神明宮の方から見たらひどい話だ。
住民が神明様より七社神社を欲したということか。

尾張屋版江戸切絵図



読めば、祭神が7人という。
伊邪那岐命
伊邪那美命
天児屋根命  春日神社?
伊斯許理度賣命 
市寸島比賣命
仲哀天皇
応神天皇  八幡?

天祖神社の天照大明神も天神の菅原道真もいない。
これらの神社は末社として7に入らないということか。

神社というのは祭神が一人でないから、神社が7つなら、もっと祭神が多くなりそうだが。
伊勢神宮が7つのうちに入るなら、天照大御神はいなくていいのか。
無理して7にしたような気がする。
よくわからないが、関係ないからどうでもいい。


今回は素敵な坂道を探す目的なので、道の未知でなくて、未知の道を歩く。
すなわち、七社神社をでて、印刷局の塀に沿って降りていく。
まったく人通りがない。
右の崖上が、印刷局。
印刷局裏坂とでも呼ぶか。

坂としての景色はいまいちだが、電車がよく見えた。
京浜東北のすぐ東の低いところはたぶん湘南新宿ライン。
(この線路は中里で京浜東北の西側からくる。
ということはいったん京浜東北の東へくぐって、また西に戻る)
その東、高くなっている線路は何か不明。
新幹線の高架の向こうが尾久の方からくる上野東京ライン。
この先で、やはり京浜東北線をくぐって西に出る。

最初から計画されていれば、くぐったり乗り越えたりしなくて済んだのだろうが、運行しながら、だんだん路線を増やすと、こんなふうに入り乱れる。


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