2018年11月12日月曜日

西ヶ原農事試験場の跡地と印刷局

11/11、ダンスの練習はパートナーと喧嘩になったので早く切り上げた。
おかげで秋の日も残っており、散策を続ける。

この滝野川体育館を含む一帯は、明治26年以来、農事試験場だった。
「西ヶ原」というのは、「永田町」や「日本橋」、「神保町」のように、ある人々にとっては独特の響きがあったであろう。
2018-11-11
読めば1980年、筑波に移転したという。
2001年3月初めて体育館に来たときは、まだ農事試験場関連の事務所が残っていたような気もするのだが、現在は滝野川公園事務所になっている。
転がっている石灯籠は試験場本館の庭にでもあったものか。

ダンスの練習に通い始めて永らく、体育館の裏側一帯は、工事中のフェンスがあった。数年ぶりに見に来ると広々した西ヶ原合同研修所なるものに変貌していた。

さて、体育館、消防署などある滝野川公園を出て本郷通りを北上する。
すぐ、というか公園隣の「花と森の東京病院」(2013年まで印刷局東京病院)の前に石碑。
東京高等蚕糸学校発祥の地
この学校は
 明治19年、農商務省の蚕病試験所として麹町区、内山下町からこの地に移転
 大正3年、文部省移管、東京高等蚕糸学校
 昭和15年、小金井に移転
 昭和24年、東京農工大に昇格

再び書くが、この辺り一帯は農業の研究、試験場であった。
当時の地図を確認しよう。

1909(明治42)
通りに面した農事試験場の奥に獣疫調査所の文字が見える。
蠶(蚕)業講習所は、小さな建物が多数並ぶ。敷地のかなりの部分は桑畑である。
桑畑の地図記号を何十年ぶりかで見た。
渋沢邸、古河邸のほか、今の滝野川女子学園のところに芸州浅野家の別邸もある。

1932(昭和7)
蠶業講習所は蠶糸学校になり、桑畑は印刷局工場になった。

一里塚の山の間は、市電も上り線だけ通っている。
まだ自動車はほとんどなかった時代である。
霜降り銀座は暗渠になっていない。

1957(昭和32)
農事試験場は農業技術研究所となり、蚕糸学校の跡はすべて印刷局になった。

現在の本郷通を行く。病院と隣は印刷局。
大蔵省印刷局、と思ったら独立行政法人・国立印刷局東京工場と書いてあった。
ここでは紙幣など、王子工場では切手などを印刷するらしい。

一里塚のところから裏に回る。
セキュリティーはかなり厳重。
監視カメラがやたらとある。

印刷局の裏もずっと塀は続く。

線路への坂から見上げると、印刷局のフェンスの向こうに敷地内神社のような小さな屋根が見えた。印刷局が作るとも思えないので、桑畑のころのものだろうか。
そういえば京都嵯峨野に蚕ノ社ってなかったっけ。


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