2020年8月16日日曜日

千登世橋と金乗院、目白不動

目白駅はなぜ目白駅というか?
江戸の五色不動のうち、目白不動があったからというが、ちょっとおかしくないか?
と思いながら8月3日、歩いてみた。
2020-08-03
千登世橋
目白駅から学習院を越えて650メートル、8分
下を明治通り、環状5号線が通る。
このあたり高田千登世町といって、明治22年の市町村制で高田村となった。
東南から。
幹線道路の初期の立体交差であるが現役であることに意義がある。
すぐ東の千登世小橋で都電荒川線を跨ぐ。

千駄木から練馬ICに行くにはこの橋を渡る。


右上の工事作業員像の台座に来島良亮君(二五四五ー二五九三)のレリーフ。
関東大震災の帝都復興事業を計画実行した東京府土木部長(1885-1933)である。

・・・
さて目的地は目白不動のある金乗院。
2004年、堀内さんと雑司ヶ谷鬼子母神から歩いてきたときはこのあたりの坂を下った西側にあった。
2020-08-03 のぞき坂
「天気の子」などドラマでも使われるほどの坂。

都電荒川線に沿って環状五号線(明治通りバイパス)が工事している。トンネルでこのあたりの坂下に顔を出すらしい。この景色が残ることを願う。
小布施坂のブログでも書いたが、世の中は景色の美しさ、懐かしさより金儲け(経済という)を優先させる人が主流で、彼らが道路を作っていく。
途中で坂を間違って降りてしまったことに気づく。
下りるべきか戻るべきか迷い、結局坂上まで難儀して戻った。
都内で自動車通行が可能な道路としては、傾斜・延長距離ともに最急の一つに数えられる。最大13度(23パーセント)。別名胸突坂。

金乗院はのぞき坂の東の宿坂だった。
宿坂
道は宿坂通りといって神田川の面影橋から雑司ヶ谷鬼子母神前まで伸びている。

神霊山金乗院(こんじょういん)慈眼寺という。
真言宗豊山派

もともと目白不動はずっと東の江戸川橋の近くにあった新長谷寺にあった。
しかし昭和20年5月の空襲で焼失、西にあった金乗院(これも戦災で本堂など焼失)と合併し、不動明王が移ってきた。
駅名の目白はここではなかった。
 そうそう、樹木もなくコンクリート製の本堂が夕日を背に立っていたのを覚えている。
目白不動はどこだろう?

本殿横、丸橋忠弥墓の案内板に忠弥坂を思い出す。
ふと、目白不動参道というプレート。

覗けば不動明王の彩色像があるが、目の色はわからず。
これは戦災にあわなかったのだろうか?

2020-08-03
帰るとき山門の前に不動明王の石像があった。
下に目白と書いてある。
享保元年とあるから、東の新長谷寺にあったものを戦後移築したものだろう。
堂の中で見えないものより、こちらの方が有難く思える。

このあと、目白不動が戦前まであった新長谷寺跡にむかう。

日本女子大、田中邸、和敬塾、椿山荘などをすぎ(別ブログ)

2020-08-03 目白坂上
左は積水ハウスの所有地。造成は2020年9月完成とある。
もとは何だったのだろう?

2020-08-03
目白坂の下りは続く。
左は正八幡神社、養国寺、永泉寺。
みぎに目白不動、新長谷寺があった。
大和の長谷寺第四世小池坊秀算が中興したからこの名がある。

2020-07-26
目白坂下。戦前、この団地のところに目白不動があった。
目白駅から2.5km、32分である。

さて本題。
目白駅はなぜこんなに離れたものを駅名にしたか?
この駅は1885年(明治18年)開業した。
目白不動ははるか東にある。
駅は清戸道沿いにあることから清戸駅、あるいは高田、雑司ヶ谷のほうが駅名にふさわしい。
江戸庶民は目白不動参詣に行くときは東南から行っただろうから新駅を使うこともなかっただろう。
ではなぜ目白が駅名になったのか?

1885年、品川線が開通した時の駅は、品川、目黒、渋谷、新宿、目白、板橋、赤羽である。まだ池袋(1903年)も高田馬場(1910)もなかった。
つまり、新宿と板橋、7kmの間の地名で考えてよいとすると、2km東の目白不動は許されるのかもしれない。特定の村の名前だと争いがおこるし。
目白駅が田端からの豊島線との分岐駅として予定されたからもう少し東にできる計画もあった、というのは根拠がない。



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