2021年6月3日木曜日

日本橋川2常盤橋の渋沢像から大手町、神田橋まで

 

5月29日、大手町の大規模接種センターでワクチンを打ってもらった。
(別ブログ)

大手町というと東京駅や丸の内のイメージがあるが、実は神田も近い。
以前神田から日本橋川を海まで歩いたから、今度は逆に大手町までさかのぼろうと思った。

ワクチン接種の予約は9:00.
神田駅に8:09に着いた。
2021‐05‐29 8:16 新常盤橋
首都高がじゃま。
右(西)は並行して中央線、山手、京浜東北、上野東京ラインから新幹線までJRの大動脈というべき線路が走る。
橋の道路は江戸通りという。すなわち東に曲がって浅草橋まで行く。
総武線も江戸通りの地下を走っている。

江戸時代はここに橋はなく、大正時代に市電を通すために架けられた。

前回、4か月前はこの橋から東へ歩いた。
橋を渡れば大手町二丁目、西に行けばワクチン接種会場だが、時間があるので東隣の常磐橋を見に行く。前回来たときは修復工事中だったが今月完成して渡れるようになったという。

8:18 常磐橋
橋の内側には桝形門があった。奥州・水戸街道は東の日本橋が起点だが、将軍、大名などがお城や大手町から諸国に向かうときはこの門から出入りした。田安門(上州道)・神田橋門(芝崎口)・半蔵門(甲州道)・外桜田門(小田原口・旧東海道)と共に江戸城と街道を結ぶ要所として江戸五口に数えられた。

今の橋は明治10年に作られた東京最古の石橋である。
片側一車線の車道もあったが手狭であったことから関東大震災後、下流側に新たな常盤橋ができた。昭和15年の地図を見ると、既にこちらは公園の一部、歩行者専用の橋になっている。

老朽化と東日本大地震で2011年から通行止めになっていたが、ようやく修復完成した。
元々公園の一部だったから工事もゆっくり。

橋の北詰には日銀本館
江戸時代は江戸五口のなかでも正門扱いの大手口と呼ばれ、また商業の中心、日本橋にも近いから日銀がここにあったのもうなづける。しかし今は皇居、官庁街との間に広い線路が走り、少し離れた印象がある。

8:19 常磐橋から東の常盤橋をみる。
新橋ができてから区別の意味もありこちらは磐の字を使うようだ。

8:21
橋の南は常盤橋御門の石垣が残り、渋沢栄一像がある。
震災復興計画で新旧常盤橋の間が公園となった昭和8年に建立。
しかし戦時中に金属供出、昭和30年に再建された。
住所はここも大手町である。

8:23 東北線常盤橋ガード
東京駅から北に向かうすべての線路がこの上を通る(地下鉄のぞく)。

8:24
ガードを西に出るとすぐ住友商事本社。いわゆる大手町オフィス街。
よく考えると三井も丸紅も本社は大手町。大手商社があるから大手町ではないが。
三菱商事の丸の内と比べると東京駅から離れているせいか、丸ビルで代表される派手なイメージはない。
8:26 線路の西に歩行者専用の橋あり。
竜閑さくら橋というらしい。
竜閑というのは、かつて日本橋川のこのあたりから分かれ、北東に、千代田区神田と中央区日本橋の間を流れていた川(人工の掘割)の名前である。戦後がれき処理のために埋め立てられた。

8:27
日本橋川の南を西に歩くとベンチにもなりそうな蛇篭のようなものあり。
この石は日本橋川護岸あるいは桝形門の石垣を砕いたものだろうか?
説明板は見つからなかった。

江戸城外郭すなわち日本橋川や神田川などの天下普請は東北諸藩が担当した。しかし江戸近辺に石材はない。人力と船しかなかった当時、石垣の石は貴重であっただろう。戦国時代の城では墓石なども転用したと聞くが、江戸でも石は再利用されたことだろう。
この石はもちろん石不足を補う再利用ではなく、現代的なデザインを狙ったものであるが。

8:28 鎌倉橋が見えた。
このあたり江戸城建設のとき鎌倉方面から運んだ木材や石材を荷揚げしたため鎌倉河岸と呼ばれた。江戸時代、幕末切絵図で鎌倉河岸は北岸にかいてある。そこは昭和41年まで神田鎌倉町といった。

神田川が駿河台を貫くまで、ここが江戸城の外堀であったから、防御のため橋は少なく、このあたりも常盤橋から神田橋まで橋はなかった。もっとも南岸は二つの橋の間には、越前松平家、鶴岡藩酒井家の上屋敷しかなかったから橋も必要なかった。

鎌倉橋はコンクリート製のアーチ橋。関東大震災後の復興工事で1929年新たに架橋された。
渡る道は東京駅広場の前、丸ビルの前からくる大名小路である。
8:29
それにしても首都高。
東京オリンピックに合わせ突貫工事だったとはいえ、用地買収が簡単な川の上を通したことで大いに景観を損ねている。
今年になって江戸橋の東からここ鎌倉橋の東まで地下化事業が始まった。まだ江戸橋と呉服橋の出入り口の閉鎖だけだが、2040年完成を目指して動き始めた。
いっそのことここから西、飯田橋くらいまで地下にしたらどうだろう? 金がかかるなら飯田橋まで4kmほど廃止したらどうか? なければないで、あまり困らないのではないか?

8:32
ウィークデーの昼休みは付近のOLらで賑わうのかな?
などと思いながら歩いていると、
「日本橋川沿いに残る江戸城外堀の石垣」という説明板があった。
使われた地図は「新撰東京名所図会 神田区之部 東陽道、1900年」とあるが、これは本来、有名な地図。
参謀本部陸軍部測量局が明治19‐20年(1887)に刊行した「五千分の一東京図」であろう。(当時参謀本部は陸軍と海軍を統括していた)。
この地図は内務省地理局が発行した「実測東京図」とともに明治初期に出た傑作とされる。ともに明治8年から測量に着手、片方が民生用、片方が軍事用とされたが、以後内務省地理局の業務は参謀本部に移管された。
8:33
さて改めてこの看板、すなわち大手町付近の地図を見れば、これから行くワクチン接種会場は昔、陸軍軍馬局である。
また日本橋川の北を見れば神田区役所、徳大寺邸、学習院、東京大学がある。
東京大学の場所は開成学校(旧大学南校)があったところ。
1877年4月12日、開成学校は東京医学校と統合され東京大学となった。
(創立記念日はこの日としている)
その後もここは法、文、理、3学部の校地であったが、1885年までに本郷へ順次移転した。この地図は前述のとおり、1875年製作着手、1887年刊行である。

8:34 神田橋南詰とワクチン会場
ここにあった門は江戸五口の一つ。神田橋は将軍が上野寛永寺に行くとき渡った橋である。
かつての御成り道は今日比谷通りだが、天皇が北へ行くときのお車もここを通るらしい。

通りの向こうは大手町合同庁舎3号館。
ワクチン接種会場に続々と人が向かうのが見えた。
私は9:00の予約だから、脇を通り過ぎてもう少し日本橋川を歩こうとした。
しかし近くまで行ったら迷っている人と思われ、誘導されて接種会場に入ってしまった。

 20210529 ワクチンと大手町合同庁舎、気象庁

千駄木菜園・お出かけ 目次へ  (ご近所から遠くまで

0 件のコメント:

コメントを投稿