2021年6月9日水曜日

日本橋川4 一橋の如水会館、雉子橋、俎板橋まで

  

5月29日、大手町の大規模接種センターでワクチンを打ってもらった。
(別ブログ)
この日は、ワクチンのほかに日本橋川を歩くことが目的だった。

神田駅に8時過ぎについて、注射前に常盤橋から大手町の神田橋まで歩き、9時前に注射されて15分別室待機してから散歩を再開、和気清麻呂像とか錦橋、一ツ橋をみてきた。

一ツ橋北詰にあった地図
見ていると神田方面など他に行きたいところはいっぱいあるが、初めの目的通り日本橋川に沿っていく。
それにしてもこのあたり、日本橋川と内堀が近い。
駿河台の神田川掘削以前ならこの川が外堀だったから、ここまで押し寄せ大砲を並べれば本丸を狙える。

一ツ橋から雉子橋に向かう。
2021-05-29 9:57 
共立女子大が見えた。
鉄筋コンクリート4階建ては1937年竣工? 右に行けば共立講堂がある。
女優の菜々緒がかつて大宮から通っていた大学としても知られる。

77年から80年のどこかで町田憲一と学園祭に来た。アスファルトの中庭で剣道部が模範演技をしていた。何の収穫もなく二人で帰った。

9:58 雉子橋
一ツ橋方面を振り返る。
左の高いビルは一橋大学千代田キャンパス、2000年竣工、
その右の14階建て同色ビルは如水会館。

一橋大は前身の東京商科大時代に震災で校舎壊滅した。
仮校舎で講義は再開され、翌1924年には石神井に仮校舎も完成したが、25年には国分寺と立川のあいだに移転することが決まった。堤康次朗の箱根土地が誘致したようだ。27年から移転が始まり1931年には移転を完了した。神田一ツ橋の跡地は小学館になったと書かれているものもあるが、明治40年の地図だと今の如水会館から共立講堂あたりにあったようにみえる。

新たに駅もできた国立へ移転後も、ずっと戦後も東京商科大のままであったが、1949年、学制改革に伴い大学名を一橋大学と変えた。移転して長年経過しても発祥の地を校名にしたのは東京女子高等師範・お茶水女子大も同じ。

如水会の如水というと一般人は黒田如水を思ってしまうが関係なく、一橋大学の同窓会、後援会である。1914年同窓会の名前を如水会とした。命名は前身の「商法講習所」設立に協力した渋沢栄一という。一般の利用も可能だから会館の名前はよく聞く。
9:59 同じく雉子橋
日本橋川をこえて竹橋方面を見る。緑は内堀(清水濠)の石垣。
家康の時代、朝鮮通信使をもてなすのに雉に勝るものなしと、付近に雉小屋が置かれ、そこにあった橋をこう名付けたという。
キジはワードで変換すると「雉」一文字になるが、雉子と書くのは古語のキギスからきているのかもしれない。
江戸城本丸に近いから雉子橋御門が置かれ防備を固めた。

江戸切絵図(幕末)、明治の地図を見れば今のように南北でなく、100メートル上流に東西に架かっている。今の橋は震災後に架けられた。

10:01
さらに上流へ向かうと再び共立女子大。
一か所に集めたいが地価が高すぎる。
山手線沿線でも十分都心なのに、こんなに皇居に近い大学はかえって不便かもしれない。

明治40年の地図では共立女子職業学校としてこちらにあり、東京商科大が移転後、こちらが寄宿舎、共立講堂のあるほうが講義棟になったようだ。

10:03 宝田橋 
今の橋は昭和43年竣工。
ウィキペディアには、昔あった宝田村から橋名をとったというが、信じがたい。
初めてかけられた震災後に、そんな地名はない。江戸時代であっても武家屋敷ばかりで村などない。

渡れば千代田区役所。となりが東京法務局。
2017年3月、千駄木の家の抵当権抹消のために来た。埼玉にいたときは大宮の法務局だったが、個人の住宅なのに九段の合同庁舎なんて、さすが東京だと感心したものだった。
無事手続きが終わるとすぐ目の前が清水門で、初めて入ったが人気のない良い門だった。

10:06 靖国通りに出た。
北の丸公園、靖国神社など、ここは何度も渡っている。
マナイタバシと入れたら俎板橋と変換されたが、銘板は爼橋である。
(嘉永年間の江戸切絵図では俎板橋とある。)

江戸時代初期から橋はかかっていたが、今のようなまっすぐな道もなく往来は少なかったらしい。しかし明治以降、靖国通りが開かれ市電が通ると一気に交通量が増えた。

いつもは俎橋から東の古書店街を覗きながらぶらぶらお茶の水駅へ行くのだが、今回は日本橋川をさらに歩いていく。(続く)

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