13日の迎え盆。日帰りで長野の実家に行く予定だったが、前日の午後、高速バスで南信州の飯田に来た。
同じ長野県とはいえ、飯田は山梨県の向こう、浜松市に境を接し、方角は長野とは全然違う。長野は上野から北へ新幹線で1時間半ほどだが、飯田は新宿から西へ南へ4時間以上、そして飯田から長野までは列車で4時間以上かかる。すなわち実家への途中で立ち寄るのではなく、全く別の旅行といえる。
13:05 に新宿バスタをたち、
17:23 飯田駅前着。
真っ先にバスを降りる。
暗くならないうちに、雨の中もくもく歩いて飯田城(長姫城)に向かう。
(別ブログ)
17:52 二の丸跡にくると飯田市美術博物館があった。
17:52
出丸から二の丸に入る門のあったところ。
すなわち二の丸の西の端。
飯田城は南北と東が断崖絶壁だが、西は市街地と標高差なく連続していたから廃城令のあと、いろんなものが建った。
二の丸跡には1884年(明治17年)長野県中学飯田支校(現飯田高校)がたてられた。それが1925年(大正14年)郊外に移転。その跡地に飯田町立飯田商業学校が建つ。この学校は後に県に移管され、戦後、長姫城にあることから飯田長姫高校と名を変えた。(別ブログ)
飯田長姫高校は1982年、下伊那郡鼎町に移転した。(鼎町はドーナツのように飯田市に囲まれていて1984年飯田市に編入)
その後、美術館、博物館が欲しいという市民の声を受け、空いた二の丸で翌年から調査が始まり、1987年着工、1989年に飯田市美術博物館が開館した。
17:53 岩石園
伊那地方は木曽山脈(中央アルプス)と赤石山脈(南アルプス)の間にあるが、南アルプスの手前(西)に並行して低い山脈、伊那山地が走っている。
だから天竜川沿いの狭義の伊那谷は木曽山脈と伊那山地の間である。
そして東の伊那山地と赤石山脈の間は伊那谷と並行してV字型の谷が延々と南北に伸びている。この谷が九州から四国、渥美半島をへて諏訪湖に至ってフォッサマグナにぶつかる大断層、中央構造線である。
すなわち伊那は日本でもとくに造山運動が盛んだった場所で、地質学的にも重要な場所である。それを反映して、美術館博物館の西側に岩石園がつくられていた。
正面に向かう。
本丸跡には二つの記念館があり、美術館博物館の付属施設となっている。
この本丸跡にはほかに長姫神社がある。
ここは飯田市立の美術館兼博物館であるから、岩石園に加え、中には恐竜の骨格模型も展示されている。
手前は美術館建設中に発見された二の丸の井戸。
17:55
当然閉館後なので、ガラス越しに中を覗き、ポスターを読んで想像する。
菱田春草記念室では第36期の企画展。
生誕160年記念・安藤耕斎もやはり飯田出身の画家。
博物館のほうでは特別陳列「南アルプスジオパークをめぐる」
美術館の前に石碑。
17:56
「菱田春草誕生之地」
リンゴ並木にあったものを移設したらしい。
写し損ねたが碑の題字は横山大観。
春草は飯田藩士の三男として生まれ、二の丸の西にある追手町小学校に入学、高等科では中村不折(ブログに何回か書いた)に図画と数学を教わった。
高等科を終えて上京、東京美術学校で日本画を学んだ。卒業後美校に残ったが、岡倉天心校長が美校を追われたとき、1学年上の横山大観、下村観山らと従い、在野の日本美術院を起こした。彼らとともに谷中八軒屋に貧しく住み、日本美術院が茨城五浦海岸に移転したときも従った。36歳、腎臓病で死去。無二の親友だった大観は大酒を飲みながら90歳まで生きたが、大家と呼ばれるたび「春草こそ本当の天才だ。もしもあいつが生きていたら、俺なんかよりずっと上手い」と語っていたという。
兄の菱田為吉は東京物理学校教授、弟の菱田唯蔵は九州帝大、東京帝大教授。
17:58
二の丸と本丸の間の空堀。
飯田城は自然の断崖を利用した城であるため、石垣がない。
また崖が高いため、濠に水もない。
柳田國男館(旧喜談書屋)
柳田は兵庫県の医家、松岡家に生まれたが、東大法科を卒業後、旧飯田藩士の大審院判事、柳田直平の養子になった。
この建物は昭和2年、世田谷に書斎(兼住居)として建てられ、昭和63年に養父の出身地、飯田城址に移築された。今掲げられている表札が「民俗学研究所」となっているのは、昭和32(1957)年まで30年にわたって日本民俗学研究および教育の拠点となったからである。
18:00
日夏耿之介(ひなつこうのすけ)記念館
本名樋口國登。飯田の樋口家は清和源氏につながる家系という。
飯田中学のとき上京、京北中学に編入、早稲田を出て早大教授。
戦時中、早大教授を辞任して飯田に疎開、1956年からは飯田に定住した。
詩人、作家、英文学者である。
本丸の東、さらに台地の先端部分は弾薬庫などがあった山伏丸であったが、明治の廃城令の後ことごとく壊された。
明治8年、その地を譲り受けた者が眺望を生かした料亭をつくり、現在は天空の城「三宜亭本館」という温泉ホテルになっている。
雨天で暗くなってきたこともあり、長姫神社を柵越しにちらりと見ただけで引き返す。
18:07
長野県天然記念物「長姫のエドヒガン」
樹齢400年、周囲6.7メートル、樹高20メートル
このあたり二の丸だが家老安富氏の屋敷だったため、安富桜とも言われる。
近年までここは飯田長姫高校の校庭だった。
18:09
追手町小学校から二の丸に来るとき、道路側がすべてガラス張りでスーパーマーケットかと思っていたのは飯田市立中央図書館だった。
ちょうど閉館したところ。
図書館の裏に城門が見えた。
18:10 桜丸御門
この門の外から県合同庁舎のあたりは、桜丸といったようだ。
飯田城の郭(曲輪)は風雅な名前だ。
18:13
長野県合同庁舎の窓に
「売店 どなた様もお気軽にご利用ください。おにぎり、お茶、パン、、」
という手書きの貼り紙があった。
18:15
桜丸から谷川を隔て北東をみる
18:16
複雑な地形は建物も複雑になる。
18:19
谷川を埋めた中央公園の横を通り、橋北地区に入る。
細道をいくとこの日の宿、ファミリーハウス民宿若松があった。
お城から4分。
勝手口のような引き戸をあけると、こちらを向いておじさんが一人食事をしていた。突然現れた私にびっくりしながらも「受付は裏だよ」と教えてくれた。
裏に回っても受付は分からない。
18:20
食堂とは細い道を挟んだ別棟、ここかな?
戸を開けて声をかけると、おばあさんが出てきて、鍵を渡された。
部屋は向かいの食堂のある建物。崖の途中に立っているから2階にみえても403号室。
18:24
4畳半に板の間
素泊まり3000円だから文句は言えない。
野宿にあこがれたものの、ベンチや板の上は痛そうだし、寝袋など荷物を持って動くのは嫌だし、ま、こんなところだろう。
トイレ、洗面所は共同
冷水と熱湯は自由にとれる。
18:42
さきほど間違えて覗いた食堂。
調理室含め、誰もいない。
18:44
食堂から入るふろ場
後でおばあさんに聞いたら、もともとは理髪店をやっているかたわら、飯田工業高校の学生を下宿させていたのだという。下伊那郡の村々は広く、ポツンと一軒家もないくらい山が深い。例えば2005年に飯田市に編入された上村、南信濃村(遠山郷)は伊那山地と南アルプスに挟まれた谷と山の村で、静岡県(こちらも山)に境を接している。森泰生研で助手をされていた原雄二君の出身地、上村は日本のチロルと言われた。
飯田市内に下宿する高校生は非常に多かったようだ。
ちなみに飯田市には飯田高校、飯田風越(戦前の県立女学校と市立女学校が合併)、飯田長姫(旧飯田商業)、飯田工業、下伊那農業の高校があった。
ちなみに飯田工業高校は、少子化が進んだ2013年に飯田長姫高校に吸収され廃校、長姫は飯田OIDE長姫高校と改名した。OIDEは、Originality(独創)Imagination(想像力)Device(工夫)Effort(努力)の頭文字で「おいで」と読む。初代校長が言われた言葉らしい。長野県人なら、校名にするにあたって何人も反対したと思うが。
夕食に街へ出る。
ラーメン屋、飲み屋しかないかな、と思ったら千劇映画館の隣に食事処「信濃屋」があった。ここも人がいない。窓際の席をとる。
みそ汁は非常にしょっぱかった。
18:48
長姫橋(めがね橋)から来る銀座通り
橋から南は、昔、城(三の丸)と町家をわける堀端通りだった。
閉店時間が早いのか、ほとんど閉まっている。
19:03
漫画があったが、ワンピースとドラゴンボールでは読む気がしない。
19:12
メニューの上から2つ目、味噌カツ定食 910円
名古屋名物が普通にあるのは、飯田が古くから三河、遠江と文化的に交流があり、今でも愛知県の主要都市と結びつきが強いからだろう。
県歌「信濃の国」4番の「~訪ねまほしき園原」は古代の東山道が信濃に入ってすぐの景勝の地とされるが、飯田の西のほうと考えられている。すなわち上代は都に一番近い先進地域だった。江戸時代の中山道、明治の中央本線は伊那谷ではなく木曽谷を通ったが、中央高速道路は再び伊那谷に戻ってきた。諏訪から南下して飯田から岐阜県中津川市、名古屋に抜ける。
中央道が開通したとき、飯田から時間的に一番近い県庁所在地は岐阜で、以下名古屋、津、甲府などがきて、長野市は7番目だった。それくらい北信は遠いが、しかし「信濃の国」でまとまっているのである。
信州を離れて47年、私の舌は受け付けなくなっていた。
伊那谷の行き止まりのような飯田は、長野、松本よりも昔の信州の味を残しているのかもしれない。
宿に帰って文庫本を読みながら早めに寝た。
8月13日。
スマホのアラームを初めてセットしたが、鳴るかどうか不安で自然と目が覚めた。
前夜に言われた通り、鍵をドアに差し込んで未明に宿を出る。
弟の田中義廉も兄の芳男とともに伊藤圭介の門下となり、蘭学や医学を学んだ。幕府に出仕し上野戦争では彰義隊に属した。明治政府では文部省に入り多くの教科書編纂に携わった。
2022‐08‐13 4:41
上映中の映画はワンピースとジェラシックワールド
ふたたびリンゴ並木を横断。
飯田が「日本一の人形劇の町」とは知らなかった。
4:43
リンゴ並木の間に田中芳男とその弟・義廉の顕彰碑があった。
田中芳男は、飯田の医師で長崎で蘭学も学んだ田中隆三の子として生まれた。名古屋の伊藤圭介の門下に入り、伊藤の助手として幕府の蕃書調所、開成所に勤めた。幕末から明治にかけて博物学、生物学、農学の分野で名を成し、官僚、貴族院議員としても活躍した。
日本の博物館の父とも呼ばれ、飯田市美術博物館だけでなく、上野の国立科学博物館のなかにも銅像があるらしい。
そういえば、江戸、明治の人物を調べていると、よく「信州飯田の人」というフレーズに出くわす。かつてはそういう土地だった。
4:49
飯田駅到着。
並木のリンゴをイメージした新しい駅舎だがほぼ平屋。橋上駅ですらない。
5:00始発の茅野行きの電車で飯田を離れる。
私の飯田見物は、昨日の夕方着いて、駅からお城まで急いで歩いただけだった。
薄暗い雨の中、たった1時間にも満たなかったが、来たことがあるのと無いのとでは大違い。念願の地を踏んだだけで満足した。
(続く)
別ブログ
20220819 高速バスで飯田に行き光沢毅を思い出す
0 件のコメント:
コメントを投稿