3月19日、定年退職を前に京都を旅行した。
京都旅行も最終日、泊った妙心寺花園会館からJR嵯峨野線(山陰本線)で京都駅に出る。
乗った花園駅も、途中の二条、丹波口も懐かしい記憶を呼び覚ます。
京都駅のロッカーに荷物をいれて奈良線乗り場へ。
二、三回のったJR奈良線も覚えているが、必ず通ったすぐ隣の新幹線改札口のほうが懐かしい。
2022‐03‐21 9:09
左の奈良線は嵯峨野線同様、線路がここで行き止まり。
この日の最初は京都駅から2つ目、5分の稲荷駅にある伏見稲荷。
9:26 JR稲荷駅
駅前広場がいきなり境内。
伏見稲荷は2回来たことがある。
最初は1995年7月9日。翌日から始まるIBRO国際神経科学会(京都国際会館)に先立ち、伏見を一人歩いた。このとき京都は7回目だったが、伏見は初めて。
朝東京を発ち、京都駅から近鉄で南下、中書島でおりた。
寺田屋、乃木神社、桃山陵などを見て夕方、稲荷に来た。
初めて見る千本鳥居に圧倒された。
その後、インバウンド観光客にとって千本鳥居の迫力が「侘び寂び」よりも分かりやすいからか、伏見稲荷は京都でもトップクラスの観光地になった。
俗に千本鳥居というが、一山全部で1000本ではなく、麓に近い二列になっているところ(本殿すぐ裏の奥宮から奥社奉拝所までの間)が「千本鳥居」と呼ばれる。実際は800本程度だが、山全体でくぐれる鳥居は3000本ほどもあるらしい。
1995年に来たとき、夕方で人があまり居なかったこともあり、麓の大鳥居のそばにあった神具店を覗き話を伺った。
千本鳥居のあたりの一番小さいもので15万円ほど(材料費のみ)。永遠ではなく、10年ほどで朽ちてくる。新規に建てたくて場所の空くのを待っている人もいるので、更新されるかどうか聞くそうだ。
千本鳥居は一方通行になっているから、疲れたからと言って戻ることはできない。奥社奉拝所まで行けば下り線に移ることができる。でも、もう少し上がってみよう。
9:40
下り坂になった
9:53 熊鷹社
お土産用の小鳥居が売っていた。大きな1号から6号まであり、12,000円から3,500円。買った人は部屋に神棚でも作って飾るのだろうか。
9:53 狐の石像が並ぶ。
本来は千本鳥居よりこちらが注目されるべきだろう。
池があるが、きりがないのでこれ以上進まず、ここでおりることにする。
この辺りは太い鳥居が並ぶ
千本鳥居は丸太の下を黒く塗っているだけだが、こちらは根元が別の木のように太くなっている。
10:02
10:06
根元は腐った切り株のように見える。あたかも並木が鳥居になったよう。
10:15
本殿を素通りして外拝殿までおりてきた
10:16
一番下の楼門
私はできるだけいろんなところへ行きたいのだが、他の4人はもっとのんびり見たいようだ。そして疲れたからカフェに入ってスイーツでも食べたいという。
私はこれから稲荷から2つ南の駅、桃山にある乃木神社と桃山陵をみたい。
時刻表を調べて桃山駅11:01に待ち合わせすることにした。
10:25発の電車に一人乗る。
10:31桃山着。
あと30分しかないからけっこう忙しい。
しかしこれが私のスタイル。他人と一緒だったらまず無理な観光見物をする。
1995年は宇治川のほとりからJR奈良線の線路をくぐる細い坂道をのぼり乃木神社に行った。
しかし、今回は駅から最短距離でいく。緩い登坂の一本道。
神社についてから、急いで(時間がないからね)JR線路を見に行くと奈良線の上に出て、27年前にくぐった道が西に見えた。
10:40
乃木神社に戻る。この神門は記憶にない。
乃木希典が明治天皇の大喪の礼、1912年9月13日に自決したあと、関西の鉄道王と言われた村野山人が全私財を投じ、桃山陵の麓に境内用地を確保、4年の歳月をかけて1916年、9月、創建した。
10:41
このあたり、慰霊碑が多く並ぶ。
乃木将軍景仰碑は、大阪の女性が自宅に建てて顕彰していたものを寄贈され移設。
ほかにも装甲巡洋艦「吾妻」の主錨や旧海軍将兵慰霊碑「蒼海に眠る若人の碑」などが木々の間に立つ。
10:42 記念館
日露戦役での第三軍司令部を移設したもの
日本軍は柳樹房にあった周玉徳・周金夫妻の住居を借り上げ、第三軍司令部とし、乃木大将が約一年間起居した。1年とはいかに旅順攻略が難航したか分かる。
1916年、神社創建時に、村野山人が現地の周夫妻から買い上げ、 家屋を解体し土台石など資材一切を運搬移築し記念館とした。
記念館の中は資料が展示されているが、見る時間がない。
10:42
10:43
記念館の隣は長府乃木邸。生家を模して復元したもの。
6畳、3畳、小さな土間、ここに一家7人、借家住まいだった。
米を搗きながら本を読む希典少年の像がある。
10:44 拝殿
将軍の愛馬だろうか、狛犬の代わりに馬。
拝殿は北向きだが、旅順でもなく明治天皇陵の方角でもない。
10:44 社務所
実は、27年前の乃木神社では、記念館も拝殿も復元生家も見た記憶がない。
全く覚えていない。
1995年7月9日、唯一覚えているのは、境内は誰もおらず、静寂の中に百人一首の声がしたこと。声のほうに歩いていくと、社務所の一部が畳敷きの集会所のようになっていて、開け放れた窓から、子どもたちが百人一首の練習会をしているのが見えた。
10:46
今その和室は戸が閉まっていて、お札、御朱印などの販売所になっていた。
10:48 宝物殿
ここは有料。のぞく時間もない。
27年前の道をもう一度歩きたい。
しかし桃山駅を出てから17分、あと13分で駅に戻らねばならない。
もう二度と来ないことを思うと足が向く。
伏見桃山の明治天皇陵は、秀吉の居城だった伏見城の本丸跡地にある。
10:54
御陵は思ったより離れていて、時間が足りない。
駅での待ち合わせ時間まであと7分。ここまで来ると引き返しても間に合わない。記憶のある所まで行って反転しようと、半ば駆け足になる
10:57
ようやく御陵到着
ここまで来ると長い石段を一目見たくなる。
10:58
10:59
27年前と同じように、やはりトレーニングで駆け上がっている人がいた。
トレーニングする気もないのに駆け上がる。
が、すぐ息が切れた。27年前だったらどうだっただろう?
11:02 頂上
土饅頭と鳥居
やはり27年前同様、体操をする人。
11:02
11:03
土饅頭の御陵本体
京都に生まれ京都に葬られた最後の天皇である。
ちなみに、豊臣秀吉は大阪城のイメージが強いが、九州征伐が終わった51歳の時、1586年大阪城から京都聚楽第に住まいを移し、さらに最初の朝鮮出兵(文禄の役)のあと1594年には伏見城に移った。そして、この木幡山伏見城で死去した。
秀吉在住のころは麓に大名屋敷が連なり日本の首都の様相だっただろうが、いまや京都と奈良の間の丘陵地帯、すっかり片田舎になっている。
伏見城は徳川時代の1619年に廃城とされ、跡地には桃が植えられ桃山と呼ばれた。信長秀吉の時代を安土桃山時代というが、秀吉の時代に桃山はなかった。
11:01から桃山駅にいるはずの家族にラインした。
「待たせてごめん、今駅に向かっている」と書くと、「私たちも11:18着です」と返事が来た。
11:10
参道を下っていく。
11:18までに駅なら楽勝。しかし砂利道は歩きにくい。
半分駆け足で駅に着き、改札口で4人を出迎えた。
彼らは伏見稲荷でお茶を飲んでいたらしいが、家族と向かい合って何を話すのだろう?
私は乃木神社から桃山陵をまわり、景色もろくに見ず、史跡としての説明書きも読まず、ひたすら歩いた(走った)。しかし27年前を思い出せて満足した。
普通の人は私のペースに絶対ついて来られない。
別行動こそ、お互いハッピーなのである。
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