2018年3月24日土曜日

老いた桜も満開

3/18に開花して、6日目。
我が家の桜も、このとおり。
今年は大分枝を切ったから、花が非常に少ない。
周囲 3メートル、
2011年、この家を買うとき、住んでいらした独身男性の叔母にあたる人が心配で世話を焼いていた。破格の安さで私に売ったのは、
「ほとんどの人がケチをつけた、土の私道も気に入ってくれて、この人なら桜を大事にしてくれそうだったから」
と本契約のときおっしゃった。
彼女が小さいころ植えたというから当時で樹齢は70年近く。今は80年近い。
そろそろ寿命ではなかろうか。

幹にはアリが巣を作り、苔はもちろん、サルノコシカケのようなキノコが生え、枯れる枝も出てきた。
根も地中で老いているだろう。
倒れたら周りの家はつぶれる。

根は逆に成長しても心配である。根の広がりは、枝の張るところの真下まで、という。
今でこそ木は小さくなったが、2011年までは二階の屋根も道路も枝で覆われていた。根は今も道路のアスファルトを盛り上げているし、我が家だけでなく、よその家の地下まで広がっているに違いない。いつか土台を盛り上げ家を傾けるのではないかとひやひやしている。

これ以上の根の広がりを防ぐため、また倒れないよう風の抵抗を下げるため、
2012年以来、毎年切って小さくし、ようやくここまでになった。

しかし枝を切れば切るほど、木の老いは加速され、倒れやすくなるという矛盾。
これ以上は切れないかもしれない。

このままの大きさと樹勢で、成長も老化も止まってほしい。
桜だけでなく、自分の体についても、そう願う。

白菜は食べきれず、かといって人にもあげられず、花が咲き始めた。

レッドロビンも赤い新芽を出している。

2年前に挿し木したレッドロビンからも新芽が出た。
切って挿してから1年たった昨年は、生きているのか死んでいるのか分からなかったが、ようやく挿し木に成功したことが分かった。何十本も挿し木して数本だけが生き残った。

2018年3月21日水曜日

六本木の陸軍跡地、ミッドタウンと国立新美術館

1年前に入籍した長女が、春分の日に結婚式をした。

妻は髪のセットや着付けで早々に出かけ、私は家で一人きり残された。
テレビを見ていてもつまらない。
式場は六本木の東京ミッドタウン。

あのあたりは近年歩いていないので、早めに出て、外苑東通りを挟んだ反対側、国立新美術館にいこうと思った。
目的は印象派展ではない。

ここは戦前、陸軍第三連隊が置かれていた。

1928(昭和3)に建てられた兵舎は震災の教訓を生かし、鉄筋コンクリート、エレベーターもある東洋一と言われたモダンな建物だった。
戦後米軍に接収されたが返還され、1962年、東大生産技術研究所(生研)が千葉から移ってきた。

生研の前身は、戦時中の1942年、軍事関連技術者を増やすために東大工学部の定員を大幅に増やし、半分を第二工学部として西千葉に作ったもの。学生の学力は本郷の第一工学部と均等になるよう調整された。
戦後、改組縮小に続いて学生募集停止、最後の卒業生が出た後、第二工学部は廃止され、西千葉には後身の生研が残った。その生研が六本木移転後の西千葉キャンパスは、千葉大になる。

生研はさらに2001年、駒場に移転、跡地は国立新美術館になった。
この場所がどうなったか、見たかったのである。

前回来たのは1995年6月3日、埼玉から赤坂にやってきて乃木邸見学のあと、足を延ばした。

第一連隊跡地にあった防衛庁はもちろん入れなかったが、近くの第三連隊跡地、すなわち兵舎を使っている生研は自由に入れた。
1995年発行 東京地図出版

中央左の「 日 」?「中」?の字が第三連隊、赤坂9丁目防衛庁が第一連隊である。
なお、第三連隊を麻布連隊というのは、昔の住居表示では麻布新龍土町にあったから。いっぽう第一連隊は赤坂檜町で、六本木町というのは今の六本木駅の南の狭い範囲だった。

生研のHPから

1995年、壁の貼り紙、学会ポスターなどみながら、廊下を歩いた。天井には暖房などの太い配管が裸で何本も走り、人がほとんどいなかった記憶がある。
外の木々の間に銅像の台座だけあった。これが誰のものだったか、当時はインターネットの情報もなかったし調べなかった。せめて写真でもとっておけばよかった。

なお第三連隊の南部分、いまの政策研究大学院大学の場所にあった東大物性研(生研とは別。1957年設置)は柏に移った。

旧第三連隊兵舎の廊下を歩いたときから23年。


戦前の貴重な建物であったから、南の一部分だけ残されている。

左の小さな欠片(かけら)が旧連隊兵舎


美術館はここでなくてもよかったのではないか?
お台場や品川あたりに作り、ここは歴史建造物として残してほしかった。
頑丈だから北の丸公園の近衛師団司令部(いま国立近代美術館分室)のように、新しい目的で十分使えたはずである。

西側に残る木々は戦前からあったものだろうか。
フェンスの向こうは、今も立ち入り禁止。
1995年は、はっきりアメリカ軍の警告看板があったことを覚えている。

生研から外苑東通りに戻る道は中央に植栽された分離帯があり、これは戦前からある。

この交差点の景色から見れば確かに、多くの人は生研も防衛庁も場所柄ふさわしくないと言うだろう。

いつのまにか結婚式の時間が迫ってきたので第一連隊、防衛庁跡のミッドタウンに移動。

ここは明治維新の前は萩毛利家の下屋敷だった。(上屋敷は日比谷公園の北西部分。なお、六本木ヒルズは分家の長府毛利家の上屋敷)
宴会場から。このあと雪に変わる。

檜町公園は芝生が広がり、どうみても、毛利家の屋敷も、第一連隊も、防衛庁も、いずれの名残もない。草彅剛が裸で寝ていたのはどのあたりだろう。

防衛庁時代、95年の地図を見れば崖のようなものが描いてある。いまの大規模開発は地形から変えてしまう。

51階のホテル客室から。
中央四角が国立新美術館。その左に三角の離れ小島のようなものが旧第三連隊兵舎(かつ東大生産技術研)の一部。写真左上に(米軍用?)ヘリポートが見える。

 北西方面、巨大ビルはパークコート赤坂檜町ザタワー
中央の森が乃木神社。その向こうの白いビルは乃木坂パークハウス。
赤坂小学校が右下、右上の森は青山御所。

長女は初めての子供だったから、3人の中で一番かわいがり、常人離れした能力の高さから一番期待した。その分、干渉しすぎて(良かれと思ったアドバイスが命令のようになり)、大学院進学のころから関係は悪化した。
彼女は就職で苦労したことが決定的となり、父を許さず10年たっても修復しない。親しく話したことなど、ずっとない。昨年の結納、今回の結婚披露宴に当たっても、彼女が一人で準備し、様子は妻を通して伝わり、私は客のように出席しただけだった。

この日は親族だけの集まりだったから、花嫁父親として、あいさつを振られるかもしれないと、少し話のネタを考えていたのだが、指名されることはなかった。

しかし、優しそうな新郎の隣で、幸せそうな、かわいらしい顔を見ると、父親として心から良かったと思った。


2018年3月19日月曜日

フキ、ニラ、チューリップ サクラ他

3月に入って一気に暖かくなった。
2018-03-12
この日、早起きして南側のザクロの切り株を掘り出していたらニラの匂い。
出たばかりの芽を踏んでいたらしい。

手前はラッキョウ、奥は今年初めてのニンニク。
ラッキョウは特に食べる当てはないのだが、前年食べきれないほどあったので球根として埋めたもの。

暖かくなると白菜、野沢菜、大根などアブラナ科は花芽が出てくる。
2018-03-12
白菜は昨年同様、大きくならず、葉もまかず、花芽が出てきた。
ただでさえ緑のまま、しかも葉の間に土が入って人に差し上げられないのに、ますます上げにくくなった。畑に埋めるのも忍びないし、食べきれるものでもない。

ところが、妻はこんなときでもレタスを買ってくる(今よりずっと高い時でも)。
サラダにするなら、この緑の白菜で十分である。大根の葉と違い、柔らかいし、むしろ旨いかもしれない。しかし、そんなことを彼女に言えば激怒する。
彼女にすれば私に対する慢性的不満という歴史的な理由があるのだが、料理とか食材に対する口出しはタブーになった。結婚前、野菜嫌いだった彼女は、工夫することもなく、教科書から逸脱しない。白菜は緑色であっても鍋以外にない。

大根は4年目、1キロを超すものも何本か取れ、まあまあ。
3月になると筋っぽくなるが、まだ大丈夫。
今年は宮重大根だけ。過去に筋っぽかったのは聖護院だったからか? 
3/12はまだトウが立っていない。

野沢菜はすべてトウが立ってきた。

以降の写真は1週間後、3月19日早朝
野沢菜はすべてトウだけ収穫、人にあげた 。
秋まき冬越しのキャベツはまだ小さい。
2018-03-19
フキは、日当たりのよい、大きな葉っぱのところはフキノトウだけ出たが、日陰のほうは小さな葉っぱだけ出ている。おなじ植物とは思えない。
2018-03-19
フキは90年代の指扇時代から何回にもわたって長野から移植したもの。遺伝子は同じだと思うが、年月経つと小さくなる。

チューリップは千駄木に来た翌年2014年から育てている。
咲いたあとに掘り出した球根は小さく、翌年植えると、葉っぱしか出てこない。
しかし葉だけのものは大きな球根ができる。それは翌年、花がつく。
つまり1年おきに花が咲くのだが、いまや群れの半数ずつ毎年咲くようになった。

柿の新芽。今年はなるかな?

前日3/18夜、5輪咲いていたので、2018年開花は3/18とする。
今テレビで高知は満開、横浜は開花といっている(3/19)

2018年3月18日日曜日

池上本門寺の地形と池上宗仲

本門寺のとなり、池上会館に行ってきた。
2012、2016年に続き3回目。すべてダンスがらみ。
今日はDSCJスタンダードA級戦、ジャルダンカップ。

五反田から池上線。
池上線という歌があったなぁ(1976)
しかし、ここに来ると、なぜか同じ1976年チェリッシュの
「あなたと初めて会ったのは、品川どまりの山手線~」
が出てくる。

池上線は、駅間が短く、踏切多く、生活感があって、低地を渡るときは(高架でなく)草の生えた土手の上を走る。

今まで考えたことがなかったが、東急路線名の池上とはなんだろう?
地名としては池上本門寺の周りしかない。
五蒲線とか本門寺線のほうが合理的な気もするが。

池上駅下車。
葛(久寿)餅、仏具店の並ぶ参道を過ぎると、呑川(ドン川ではない)。
橋の向こうに総門がみえる。
岡の上に城を作れば、この川は堀の代わりになる。
その岡全体が長栄山大国院本門寺。
正式名に池上の文字はない。

総門の脇を右折。
手前(左から)日蓮宗宗務院、朗子会館と本門寺の施設が並び、突き当りが池上会館。
周りに昭栄院、永寿院など本門寺子院があり、最初に来たとき池上会館はてっきり本門寺の付属施設かと思った。
 しかし大田区の施設である。
竹林に隠れる黄色い建物は池上会館の西館。
左の朗子会館よりずっと宗教施設っぽい。
確定申告の「申告書作成会場は隣の西館です」という案内プレートがなければ本門寺の一部と思う。
江戸時代は本門寺の敷地であっただろう。隣の池上小学校とも大田区所有となったのは、いつだか知らないが、明治の廃仏毀釈で困窮し(どこかに)売却したか。
競技会は2回戦で敗退。4階建ての屋上まで上がると、そのまま本門寺の境内。五重塔が目に入る。

この塔は戦災を免れた。
江戸四塔は寛永寺、浅草寺(戦災消失、再建)、天王寺(消失)と増上寺(戦災消失)または本門寺とwikiにはあるが、ここは江戸ではないから、増上寺だろう。
しかし、1607年建立、1702移築とは東京最古であり、貴重であることは間違いない。


地震で間違いなく倒れる石塔多し。
倒れたらまた載せればいいという考えか。
この一帯、熊本県人会の碑、川上彦斉先生碑があるから細川家の墓所だろうか。
時間がなくて碑文を読まず。
大名墓は米沢藩上杉家圓光院殿墓所、肥後熊本藩細川家清高院殿、および高正院殿墓所と3つあるらしい。



前田利家室の層塔。後方は大堂


ここは星亨の銅像があったらしいが、戦時中の金属供出で台座だけ残り、昭和58年に日蓮の像が建てられたという。おなじみのポーズだ。
近くに星薬科大学があるから星一の像の台座だったかと勘違いしていた。

日本看護婦会慰霊塔


大堂の裏(西北)にまわって振り返る。
大堂、仁王門、霊宝殿、経堂。

本門寺HPから

さて、大堂うら、紅葉坂の通りを北へ渡り、本殿の脇を通ると
日蓮聖人御廟所(下)
この裏の林に四天王の像があったと記憶して探したのだが、見つからず。
どうも目黒不動の記憶と混合していたらしい。

ところで日蓮は1282年9月、病身のまま身延山を出て、湯治のため常陸へ向かった。ここ武蔵国池上郷の池上宗仲の館に到着、20日あまり過ごして死んだ。入滅前に、背後の山の上に建立された一宇を日蓮が開堂供養したという。
では、なぜこの地に寄ったか?

当時の交通を考えねばならない。
今でこそ池上は中原街道と東海道の間で、何もないが、鎌倉時代、東海道は海沿いでなく、この近くを通って品川に向かった(池上道)。また北の中原街道も主要な道で、家康はここを通って関東入府したらしい。

『馬込と大田区の歴史を保存する会』ホームページ
http://www.photo-make.jp/hm_2/kaidou.html
が詳しく、古道だけでなく、土地の高低差も示されている。
当時、西から来て多摩川を渡ったら(平間の渡し)、この山にぶつかるのである。

池上氏はこの山のふもとに館を構えた。

日蓮は平間道(池上道)でなく、北の中原街道をとおり、多摩川を丸子でわたって、池上に来たようだ。立ち寄ったのは池上宗が日蓮の熱心な信徒であったからだろう。

今日のダンスは池上のほかに川越でも競技会があった。
あえて池上に来たのは本門寺周辺の地形を確認するためである。
ダンスがなければ、わざわざここへは来ない。

本門寺の南と西は呑川、北は2016年西馬込まで歩いた時、低地であったことを覚えている。
今回は東側を見た。大田区立本門寺公園は崖の下になっていて、本門寺は四方が低地の独立高地であると確認できた。
さらに撮影地点の墓地と本門寺伽藍群のあいだも低地になっていて、城にすれば空堀になる。

池上氏は伽藍群(山塊)の西の低地、子院である本行寺あたりに館を構えていたという。

そこへ行こうと西に降りる途中、都会とは思えぬ林の中に、国の重要文化財、宝塔に出くわした。日蓮を荼毘に付した場所に池上宗仲が建て、遺灰を入れたらしい。今の建物は1828年に再建されたもの。

大坊本行寺
池上氏の居館はこのあたり。
今の感覚だと敵の攻撃を防ぐためにも、見晴らしの良さからも、丘の上に住みたくなるが、坂の上り下りが面倒、あるいは生活用水の得やすさなどを優先したのだろうか。


第61 助っ人の要らぬネズミ固定器

最新型「鼠撑器」の紹介
薬学雑誌 1891年度 p61 (明治24年)

医学、生理学の研究に実験動物は不可欠である。
とくに新薬の研究、開発には大量に必要だ。
最近は組換え細胞や、コンピューターシミレーションなどを使うようになったとはいえ,丸ごと動物,とくにげっ歯類の実験は依然盛んである.
有望化合物ならすべて,どんなプロジェクトでもネズミの実験は避けて通れない.
しかし昔はどうだっただろう.
合成者は何でも舐めていたし,薬効は先ずヒトで試されたのではなかろうか.

ちょっと怖いから動物に飲ませてみようと思っても,ネズミではなく,そばに居たネコやイヌが多かったように見える.
華岡青洲の通仙散はネコだった.
N数を増やさねばならないようなナイーブな実験は最初からしない.
実験動物の飼育業者のいなかった頃、ネズミは簡単には捕まえられない.手に入ったとしても、犬猫と比べてあまりにも人間と違いすぎる.小さくて表情もなく,同じ哺乳類だという概念などなかったかもしれない.

それでも数量的科学が西洋から入ってくると,急性毒性を見るにネズミは重宝しただろう.ただ,その取り扱い技術はお粗末だった.南京鼠(マウス)に皮下注射するのに「大概助手をして鼠を保持せしめ,二人掛り」で行っていた.

ところが東京衛生試験所(現・国立医薬品食品衛生研究所)がベルリンの器械商ラウテンシユレゾルに注文,取り寄せた装置は画期的だった.「此の器械は助人に持たしむるより却て便にして,医学校,病院,その他の試験に必要なれば」と紹介したのが下図の鼠撑器である.

当時の東京衛生試験所長は長井の後を受けた田原良純.
彼はこのとき35歳,ドイツに留学中であった.ひょっとしたら「当地には斯くも便利なるもの之あり候」との手紙を受けた所員が注文,輸入したのかもしれない.

2018年3月17日土曜日

第67 炊飯釜のふたの改良

小学生頃まで、信州の農家だった我が家はプロパンガスもあったが、飯はかまどで炊いていた。
羽のついた釜に、木のふたが載り、よく吹きこぼれていた。



「従来本邦において日常慣用する木製釜蓋にありては,飯を炊くにあたり著しく糜粥状の粘液を釜外に沸溢し,飯の栄養成分を損出することは衛生学進歩の今日において世人の常に遺憾とするところなり」

薬学雑誌 1907年度(明治40年) p484-488

5ページの大論文は,こう始まる。
要するに,炊飯釜の吹きこぼれがもったいないから何とかしようとした研究である。
著者,森川釖三郎は五高薬学科(長崎)の教授.

「余は,その予防の方法を攻究せんと明治36年より39年に至る4年間,日々これが研究に従事し,ついに」炊飯釜の蓋を作った.

冷水を入れた洗面器のようなものを木製蓋のかわりに釜にかぶせるだけで,中の水蒸気が蓋で冷やされ,圧力が減る.すると蓋と釜のあいだから粘液が漏れなくなるという.その結果,少しも飯の栄養成分を損失せず,飯の容積と甘味を増し,釜の掃除も大いに楽になるらしい.

使用法は,上部に張った水に「時々指を挿入して温度を注意し,殆ど指を挿入し能はざる温度に達するときは直ちに薪炭をまったく引き取るべし.なお下部にある排出管を開き蒸気を嗅ぎ,焦臭あるを注意せば一層安全なりとす」.
そのあと水の量,炊き方などが続く.

記事がこれで終わったらただの町の発明家だが,薬学者は分析する.
通常の木蓋と改良蓋では100グラム当たり水分(72.48対72.48),でんぷん(24.77対24.17)はあまり変わらない.しかしタンパク質は1.97から2.38に増えた.

「今日本人口を6千万とし,其の3千万人は1日白米5合を要するものと仮定せば,蛋白質の量は1日に2億4千グラム,1ヵ年に876億グラムを現在より増得するに至らん」.
全国民がこの蓋にすれば「国家的少なからざる稗益を与ふるもの」という.

なお,上部の温かくなった水は,「飲料或いは器物,顔面の洗滌」に使うという。
これは賢い。

2018年3月15日木曜日

豆苗を土に植えてみた

今シーズンは長雨大雪やらで秋暮れから野菜が高く、年が明けて3月になっても安くならない。おかげでもやしや豆苗の売れ行きがいいらしい。

妻も先月だったか、豆苗を買ってきた。
庭に食べきれないほど大根、白菜、野沢菜があるのに、初めて見るものを買ってみたかったのか、観賞用なのか。

窓際に置いて2回ほど収穫したが、茎は思ったより硬く、とくに旨いというものでもない。
よく見るとむかごのような褐色の豆がびっしり詰まっている。
そもそも豆苗の豆は何だ、と調べたらエンドウ豆!
エンドウ豆はグリーンピースのようなイメージがあるから、へぇ~。

3月12日、3回目の茎が伸びてきたが、食べる当てもない。
そこで、土に植えることにした。

しかし、これが難航した。一部を取ろうと思っても根が絡まっていてほどけない。
そこで
2018-03-12
まな板に載せて包丁でぐさりと分断。
1本ずつに分けたいのだが、ほとんどの根は短く分断されているため、どのくらいの割合で育つか分からない。10本程度を一株にして植える。
2018-03-12

その後、春らしい陽気が続くも、枯れてはいない様子。
このままでは間引かなければならない。でも間引くより株分けしたい。
しかし、根が絡まっているのにできるか?

まだ屋内には大量の苗があるので、失敗しても平気。
今朝、試しに株分けしてみる。
2018-03-15
思ったよりすんなり根がほどけた。
2018-03-15
一鉢に3本ずつ。どれか1本が育てばいい。

それにしても、なぜ3日たって根がほどけたか?
1.広い大地にうつされ、それぞれの根が窮屈な場所から自由に広がった?
2.弱って根が萎れ、細くなったか、屈折がなくなって、ほどけやすくなった?

当初は1と思って喜んだが、よく考えたら2だろう。
確かめるために、もう一度、根が絡まっている塊を切り取り、コップに入れてみる。
2018-03-15

72時間後、もしコップの中の塊が元気なままほどけたら、1の可能性がある。
しかし、ほどけなければ2であろう。

ところで、エンドウの苗はホームセンターで1本100円する。
一方、豆苗はこんなに大量にあって1パック98円。
もし根づいたら、大きなエンドウ畑ができる。




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