2018年8月16日木曜日

50年前のエノキダケ栽培

我が家は私が小学校5年生のころ(1967年)、えのきだけを始めた。
瓶詰によるえのきだけ栽培は1930年代に松代町で初めて行われ、戦争で中断されたあと60年代には中野でも始まった。
当時、生産量の100%が長野県で、そのうち9割が中野市だと聞いた。

父は、冬場の作物として、その数年前から畑で信州シメジ(ヒラタケ)の人工栽培をしていた。輪切りにしたリンゴの木に菌を植え、半分地中に埋め、切り藁でおおう。ナメクジによく食われた。
そんなとき、岩船地区で最初の人が始めた翌年、えのきに舵を切った。
初期投資はそれまで蚕、水田、リンゴしかしなかった農家にとっては莫大なもので、技術指導もふくめて農協の存在が大きかっただろう。中野市農協というのは政府が減反を言う前に、どんどん新しい作物を奨励した。後にアスパラと巨峰は農協単位で全国1位になったと聞く。

さて2018年夏、たまたま母屋の東、北にある廃屋に行ってみた。
懐かしかった。

2018-08-14
(母屋の敷地内であるが、いまや用がないから誰も近づかない)

(エノキをやめた当初は物置に使ったようだが、朽ち果てるままになっている)

えのきだけ栽培の工程を書いて置こう。
(このブログは、かろうじて頭に残っているが消えつつある思い出を書くのが目的)

当時えのきだけは牛乳瓶のようなガラス瓶におがくずをいれ、殺菌した後、種菌を植えて生やした。
当時のおがくず置き場は、草だらけになっていた。

1.まず、おがくずを篩にかけ、木っ端やごみを取り除く
おがくず置き場の隣には攪拌機があった。

 2.おがくずと米ぬか、水を混ぜ、撹拌する。
おがくずと米ぬかは3:1(?)、リンゴ箱一杯に入れることで体積を測り、攪拌機に投入する。水の量はおがくずの湿り具合で変えねばならないと思うが、どうしたのだろう。秤がおいてあった。これは父の仕事。

3.成分調整したおがくずをビンに詰める。
どんな機械だったか、思い出せない。

4.ビンにつめられたおがくずに垂直に穴をあける。これは後で種菌を入れる穴である。作業は、穴の開いた導入用栓(A)を瓶の口に押し込み、Aの導入穴に先のとがった棒(B)を入れ、ビンの奥まで刺す。
これは小学生の私の仕事だった。A,Bの順に入れ、B,Aの順に抜く。スピードを上げるための姿勢、所作を工夫し、子どもながら名人の域に達した。

5.びんに紙のふたをかぶせ、ゴムで止める。紙のふたは、家畜の餌袋を小さく切ったもので、二重にして、水を通さないように間に油紙を挟んである。ゴムは自転車のチューブを自分たちで輪切りにした。

6.蓋をしたビンを圧力殺菌釜に隙間のないように一本一本詰めていく。ステップ5まで、すでにギリギリ最大限の本数を作ってあるから、いい加減に詰めると入らなくなり、父に怒られた。一釜500本くらいだったか。

当初、殺菌釜のあった場所
釜は地中に半分埋められた巨大なもので、瓶を出し入れするときは、腹を釜の縁にひっかけ、体を二つ折りにして、頭を逆さに突っ込み、一番下の瓶を取るときは手をめいっぱい伸ばす。
燃料は重油。圧力をかけて120度まで上げた。

のちに籠に詰めたまま人間が運び込んで殺菌できる大型のものができた。
(このころ私はあまり手伝わなくなった)
場所は、おがくず置き場の南に増築した。
のちの大型殺菌釜を置いた場所

ステップ1~6は1日でやり、一家総出で手伝った。
当初は週に2釜くらい詰めたが後にだんだん増えていく。
日曜は1日で2釜詰めることもあった。詰めるのは時間的には1釜分半日で終わるが、釜がある程度冷めて取り出さないと次の分が詰められないから、難しい。年末年始に需要が高まるので、それに合わせて詰めるよう、農協が指導し、各農家も頑張った。

農家の長男として跡を継ぐはずだった私が、たまたま長野高校に進んでしまい、周りに流されて東京の大学に行きたいと親に言ったのは、この釜出しの作業中だった。
瓶は熱いが、冬は暖かくておしゃべりしながら比較的楽な仕事だった。

7.(菌つけ)
殺菌したビンは熱が冷めると種菌を植える。
菌つけ室。

ここは密室で、天井には暗い紫の光がでる電燈があり、目を傷めるから見るな、と言われた。
他の菌が入らないよう、納豆は食べるなと言われたが、のちに皆平気で食べた。靴下はいちおう取り換えて入った。

培養室。
ここは昔、鶏小屋で、この建物を中心にエノキ栽培用に増築したのである。
かなりの部分は祖父らが古材を使って自分たちで作ったのではなかったか。

8. (培養)
菌つけの終わった瓶はまた蓋をかぶせ、
ここで白い菌糸をビン全体に回らせる。
培養室は常に20℃くらいに保たれ、冬は暖かく、洗濯物やスキー靴を干した。
ごくたまに雑菌が入ると、緑や黒になって、ここで判明した。

9.(菌かき)
菌が回ったら、菌床の上部を覆う古いおがくず(種菌)を削り除去する。
新しいおがくずの表面を乱してはいけないのだが、何百本もやらねばならないから、あまり慎重にはできない。
これ以降は紙蓋をはがす。蓋はもちろん再利用する。
飴だし室
 10.(飴だし)菌かきが終わり、低温に置くと、表面に飴色の液が出てくる。
キノコ室
11.6度くらいに保ち、キノコを出す。
冷房のない時代、冬に栽培した理由である。

12.(紙巻)キノコの頭がビンの縁をこえるころ、それ以上広がって寝ないよう、高さ20㎝くらいの紙を巻いて、下部を輪ゴムで止める。

13.(収穫) 先端が紙の縁を出るくらい伸びたら、収穫。
紙は縁側に干して再利用。
(ここまで60日くらい)

えのき栽培を始めると、みな、大いに儲かることが分かり、一本でも多く詰めようとした。しかし建物は小さいから、棚にびっしり並べる。また、11以降のステップも、発育がビンごとに違うこともあり、各工程では一本一本手に取って、20本入りの籠につめ、それを別の場所に運んでまた一本一本並べるという、非常に重くて手間のかかる作業となった。

(祖父母が老いて子どもたちも進学すると人手がなくなり、場所をとっても楽な、籠ごと棚に並べるという風に変わっていったが)
キノコ室

さて、収穫すると茶の間に持ってきて、夕方から夕飯を挟み、テレビを見ながら荷造りである。
これも一家全員で分業。

1.100グラムずつ測る。
水っぽい不良品を除く必要もあり、最も重要なステップだから父の仕事。

2.(袋つめ)これはキノコをガイドとなる紙にまいてビニール袋に入れた後、紙だけを抜く。
主に母と祖母の仕事。どちらかが夕飯の準備で抜けると妹が入った。

ステップ1、2はコタツの上でやるから、2の作業が滞ると、父の秤量したキノコの置き場所がなくなる。母はテレビを見たり話をすると手が止まり、よく父に怒られた。

3.(口とじ) 
詰めたビニール袋を膝の上で押し、空気を出して軽い真空にする。口をひねってアルコールランプで溶かし、手でつぶして密封する。祖父と私が良くやっていた。

4.(箱入れ)
かつて蚕も買った古い農家の広い茶の間といえど、出来るそばから箱に詰めないと、足の踏み場がなくなる。私の仕事だった。20袋ずつ5段、1箱に100袋入る。詰めた箱を茶の間の端に積んでいくのが楽しい。

年末でいっぱい出たときなど夜中まで作業することもあった。
翌朝父親が集荷場に持っていく。だれだれさんちは何箱出したとか、そういう話をしてくれた。
荷造りは正月の2日くらいしか休みがなく、野菜や果樹と違い、家族総出で毎日やった。

高校に入ると帰りが遅くなり、手伝いは減った。
その分弟が働いたのかもしれない。
かきだし場 2018-08-14
大事なことを忘れていた。
(かき出し)
ガラス瓶は再利用するため、収穫した後のおがくずをかき出して空にし、回転利用する。
(収穫した後の菌床は、かき出さずに放置してもキノコが出てくるが、二番ものは、味は変わらぬが太いから売り物にならない)

おがくずのかき出し器は、いわば、垂直に立って高速回転する金属片である。
それを股の間に挟むような位置で、前で丸椅子に座る。そして上から両手でビンを回転刃にかぶせるように押して沈めると、中に入った回転刃が固まったおがくずを崩していく。
祖父が主にやっていたが、小学生の私もやった。

がりがり、ぎーぎー、大きな音の出る中、人間が、ビンをもって上下させるから、軍手をはめているとはいえ、ちょっと怖い。ガラスが割れたら、飛び散って大けがする。そうなったらガラスだけでなく高速回転する金属刃が直接、手のひらに接触するかもしれない。ひびの入っているビンは結構あり、割れることがたまにあったが、幸いけがをした覚えはない。
雑菌の周ったビンは、嫌な臭いがした。色が違えば臭いも違った。

6年生だったか、スキーの新しい板が欲しくなった。
それまでは叔父や従兄のお下がりをはいていた。お年玉以外、小遣いはもらったことがなく、スキーが欲しくてもおねだりできる雰囲気ではなかった。そこでビン1本かき出したら1円もらえないかと提案した。
承諾されて、私は喜び夜中までやった。音が夜遅くまで響くと近所にみっともないと、大人たちに言われたが、目標を達成した。
中野のサンライズという店で、新型金具の付いた1万円くらいのものを6900円で買った記憶がある。

それにしても昔の子供はよく働いた。
同じ岩船の同級生、MKは暑い中、たんぼの稲の間を重い草取り器を押していたし(ふつう大人がする)、NS嬢は台風が来た日、家から学校に電話がかかってきて、リンゴが落ちる前に取らなくてはならない、と急いで帰って行った。
小、中の同級生たちは皆、農家の子供で、宿題もなく、勉強は授業のときだけ。
中間、期末試験があっても当日の休み時間にするくらいで、高校入試の直前まで誰も勉強ししなかった。
しかしキノコ栽培など農作業と自然に関する知識はあり、自分たちでもいろいろ考えた。いい時代だった。
(こうしてみると義務教育は読み書きそろばん、あとはボランチアでいいのかもしれない)

父は、かき出したおがくずの再利用を考え、一部混ぜる実験をしていた。
しかし結果が出るまで60日もかかり、一冬ではよく分からない。結局、新しいおがくずだけを使い、かき出したおがくずはリンゴ畑にまいた。おがくずを入れると、土がほくほくして水持ちもよくなった。

その後、ガラスビンはプラスチックに代わり、だいぶ軽くなった。
かき出し器も、2本同時にセットでき、人間が押し込まなくても自動で回転金属刃が上下するものが出てきた。自分でビンを掴んでいる必要がないから、かき出している間に次のビンを手に取って待ち、入れ替えだけで済む。

数多くの行程ごとに、効率よくできる装置がつぎつぎと出てきた。どれも実用新案出願中といったラベルが貼ってあったが、農家の人々が考えたものも多かっただろう。装置ではなく手順などは、もちろん各農家が独自に工夫した。

エノキは当初、100グラム100円もした。当時田舎の工場の求人広告は、給料3万円?くらいではなかったか。えのきは高級品で、正月のお吸い物に、桜エビか鳴門巻きとほうれん草に、えのきだけが3本くらい入っていた。

2018年、えのきの機械や資材がないか、物置の2階に上がってみた。
父が死んで8年、
ゴミ屋敷のようだった。

装置は捨てたのだろう。
ビンを入れた籠は使い道があるせいか、いくつかあったが、プラスチック瓶はなかった。
(そういえば、お墓の花入れがエノキの瓶だったな)

70年代になり、エノキダケ栽培が儲かることが知れると、参入者が続いた。
後から入る人ほど大規模になり新型の装置を入れる。立地に制限のある母屋の横などでなく、田んぼに体育館のような建物を建て、フォークリフトで瓶を籠ごと移動させるようになった。もちろん冷暖房設備はあるから、彼等は電気代はかかっても真夏でも生産した。

父も、大規模化を考えたようだったが、もう市場は飽和するだろう、今からでは遅いだろうと考えて動かなかった。
その後も他の人の参入と大規模化は進み、父の予想は外れた。

えのきだけ栽培は畑仕事のない冬を中心に、細々と父と母、二人だけで続けたが、いつ辞めたのだろう。
92年に母屋を新築してから、袋詰め・荷造りが茶の間から汚い物置に移り、たまに帰省しても私たちは手伝わなくなった。
エノキは父母二人だけのものとなり、客人には様子が見えなくなった。

2006年、父は75才で巨峰を切り、ピオーネに変えた、とブドウを描いた年賀状をくれた。
その3か月後、がんが発覚。このときすでにエノキをやめていた。
田舎の専業農家で子どもを3人とも大学に出せたのは父母祖父母の働きとエノキダケのおかげである。



2018年8月15日水曜日

中野小館と高梨家

信州中野は、廃藩置県のとき今の長野県の半分を管轄する中野県の県庁がおかれた。
江戸時代は天領で代官所(中野陣屋)がおかれていたものの、城下町ではない。

城下町ではなくとも、市街地の東に中世の館のあとがきれいに残っている。
その主であった、高梨氏こそ、扇状地に用水を整備し、寺社を建て、中野の市街地の基礎を作ったとされる。

2018-08-13

はじめて中野小館(おたて)の高梨氏館跡を見たのは中学生のころだろうか。

中野にいた頃、歴史などまったく興味はなかったし、たまに買い物、立ち読みする商店街からも離れていたから、近くに来ることすらなかった。
しかし当時盆栽に興味があり、苗木を取りに自転車で東山へ行ったことがあるから、その帰りにたまたま「発見」したのだろう。

今のように整備されていなくて、土塁の切れ目から中を覗くと、古い平屋の家と菜園があり、誰かが暮らしているようだった。洗濯物やリンゴの木もあったような気もするが、記憶はあいまい。

当時、私が高梨氏のことを知っていたかどうか不明だが、家に帰って聞くと「住んでるのは高梨さんじゃなくて、子孫は東京にいるらしい」と父か祖父は教えてくれた。

高梨氏は越後の長尾家と縁戚関係にあり、上杉氏の家臣となって会津、米沢までついていったことを、父らが知っていたかどうかは不明だが、私も知識がなかったから突っ込めず、会話はこれしか記憶がない。
 40年前、正面に見える家のあたりに古屋はあった。

二度目に来たのは、ずっとあと。
叔父が、自分の養父母(わたしの大叔父にあたる)の墓を東山に買い、迎え盆のとき、この前の道を車で通ることになった。たいてい私が墓掃除要員として同乗した。
ある年、館跡がきれいに整備されていることに気が付き、中に入ってみた。
中学生のころと違って、室町時代の貴族の館として、土塁や庭園あとなどを興味深く見た。史跡に指定されたのが平成19年とあるが、その前か後か、はっきりしない。



2018-08-13
叔父は心臓が弱く、一人暮らしの後、今年初めにグループホームに入り、5月1日、苦しくなって救急車で搬送されるときに25分心肺停止、蘇生したが、意識は戻らず、6月28日亡くなった。その新盆である。

分譲墓地を買ったときは景気が良かったころだから、一番上の広いところを買ったのだが、毎年落ち葉の掃除ははんぱでなく、雪とともに枯れ枝や土砂も少しずつ落ちてきて、埋まりそうである。すぐ上にはイノシシ除けの柵がある。
この墓地のすぐわきから鴨が嶽城跡に上がれるが、仏さんを迎えるのが13日の夕方だから、すぐ帰らねばならず、この二、三十年、看板を横目に見るだけで今まで一度も行ったことがない。

この山城は、高梨氏が平時すごす館の背後にあり、戦時にはここに詰められるようになっていた。

実家にあった「中野市史」(1981)によれば、
高梨氏の前には中野氏がいた。
平安末期以来の中野西条の開発領主として、この地に勢力を持ち、鎌倉初期の建久三(1192)年、藤原(中野)助広が地頭職に補任されている。しかし一族の内紛から所領の細分化が進み、市河氏に所領を奪われたりして、南北朝時代には、一分地頭として史料に若干登場するが、だんだん消息が分からなくなる。北の市河、南の高梨らの圧迫によりだんだん小さくなっていった。

いっぽう高梨氏は(系図上は)須坂の清和源氏頼季流井上氏から分かれ、南北朝時代に北朝に味方し、椚原荘(小布施あたり)を中心に北信濃各地に所領を持っていた。1400年の大塔合戦では高梨朝高の嫡子、樟原(くぬぎはら)次郎の名が見える。

1463年、幕府は信濃南半分を守護の小笠原光康、北半を越後守護職の上杉房定にそれぞれ支配権を与えたが、房定らは、古河公方足利成氏と組んで反抗する高梨政高(1418-1468)を討つため、上杉右馬頭を信濃に攻め込ませた。政高はこれを高橋の地で迎え撃ち、右馬頭を討ち取り勝利した。この時、上杉氏に味方した大熊高家、新野朝安らの土豪も滅ぼされ、高梨氏の中野進出が進んだ。(大熊も新野も中野市南部の字の名として残っている。高橋も西条あたりとされる)

当時高梨氏は、小布施あたりを本拠とし、中野市西南部(草間、立ヶ花?)、山ノ内、岳北方面を支配していたが、中野扇状地はそれらの中心を占め、かつ灌漑水路の掌握(夜間瀬川扇状地の要部分)からも重要で、中野氏完全排除は悲願であっただろう。その時期(中野小館築城)は永正10年(1513)以前とされる。

1507年、越後守護代・長尾為景は、守護の上杉房能を滅ぼし、越後は長尾為景派と、房能の実兄、関東管領・上杉顕定を中心とする反為景派による内乱状態にはいる(永正の乱)。この乱に際し為景の外祖父?だった高梨政盛(1456-1513、政高の子)は1509年、為景に味方して越後に攻め入り、顕定軍と交戦、苦戦に陥っていた為景軍の再起に貢献した。
1510年には越後長森原で政盛は上杉顕定をうちとり、嫡男憲房は上野白井城へと撤退し、高梨の名声は上がった。

戦国時代に入ると、周辺の諸侯が武田信玄に落ちる中、政盛の孫、高梨政頼(1508-1576)は武田と対立。1559年、第4次川中島の戦いのまえに、中野小館をすて、自らは千曲川のほとり、防御に適した飯山城に籠城、長尾景虎の援軍を求めた。この後、高梨氏の拠点は飯山城に移り、実質的に越後長尾氏の庇護下に入る。
1582年、武田氏が滅亡し、織田信長が信濃を領有するも本能寺の変。
すぐに上杉景勝が川中島を領有し、高梨頼親(政頼の子)はふたたび中野小館に戻った。しかし独立した有力国人だった父の時代と異なり、上杉の家臣となり、1598年、上杉景勝の会津、米沢移封に高梨氏も同道、中野小館は廃城となった。

その後中野は天領となったが、江戸、明治と、小館の所有者は誰だったのだろう?


王子扇屋での会食とパンフレット

王子の北とぴあに来たついでに駅の裏に出た。
ここは東京か? 
川があって、どこかの温泉地のような景色。
2018-08-11

ここに扇屋という料亭があった。
創業は将軍家光の時代、慶安元年(1648)というので370年も前である。
海老屋と共に、尾張屋版江戸切絵図にもしっかり載っている。(中央)

1993年7月22日、シンシナチ大学シュワルツ研究室に留学する10日前、ここでシュワルツ研の先輩方が壮行会を開いて下さった。
主催者は、もと研究所長のH氏。
H氏が留学先を探すとき、ご友人だった江橋先生に尋ねると「まだ若いが、面白い男がいる」と言われ、決めたそうだ。Harigaya, Schwartzの、心筋細胞内Caと病態の関連を述べた論文は、1980年代、Current Contents(ネットのない時代、ほとんどの研究者が毎週読んでいた)によってCitation Classic (世界で最も引用され続けている論文)に選ばれたほど、彼は優れた業績を上げられた。
私が入社した時の代謝部門の部長であり、代謝から薬理に転向させてくれた時の薬理研究所の所長であられた。
彼は田辺を辞められたあと、栄研化学の王子研究所の顧問になられた。その関係で扇屋になったのだろう。私の周りで扇屋を知っている人は居なかった。

次に留学されたのはH氏の後輩で、この4年ほど前、1989年に東大教授になって転出されたNT氏。
彼は世界初のCa拮抗薬diltiazem (verapamil, nifedipineのCa拮抗作用はこれより少し前に知られていたが、まだCa拮抗薬という名前は使わなかった)に関する研究で有名になった(しかし教授選のときは、その前のadrenergic receptorのβ1・β2を薬理学的に分けた業績を評価されたときく)
この二人のあと、しばらく会社からシュワルツ研に行く人は居なかったのだが、近年になってNK氏がいかれ、Caチャネルのdiltiazem結合サイトを同定し、そのあとYH氏が継いだ。

つまりこの日の扇屋は、留学された4人と私、それから歴代所長の秘書で全員に愛されていたOE嬢の6人。高級そうな料理が出され、私はOEさんと1つ1つ「これなんだろうね」と言いながら味わった。

「ここは卵焼きが有名なんだよ」とH氏が仰った。

その後1995年、留学した時の仕事で博士号をとると、妻の父がお祝いにスーツを作ってくれた。すると長野の父も何かしてやろう、という。そこで久しぶりに両方の親を交えてお祝い食事会をすることになった。電車の便利な上野公園の韻松亭を考えていたのだが、どうしたものか、また扇屋に行きたくなった。

新緑のころ二回目の扇屋は、舟形の先端部分の部屋だった。
義父は「今後はもっとしっかり研究するように」と挨拶してくださったが、その約束は果たさなかった。
あの日は食事が終わると散歩した。

2018
その後扇家は閉店、ビルはそのまま1階に一休、2階に魚民が入っている。


 石段を上がると王子権現。もちろん切絵図にもある。


当時もらった扇家のパンフレット。
別冊歴史読本『江戸・切絵図』(新人物往来社1994)の染井王子巣鴨辺絵図のページにずっと挟んであった。

これによれば、寛政のころは八百善、平清、酔月楼と並ぶ名店となっていた。
明治7年に岩淵の大演習、翌八年に印刷局王子工場に明治天皇が行幸した時、休憩所とされた。350年以上も続き、大帝が二度も訪れた店が他にあるか? こんな名店が普通につぶれて良いものだろうか。

家族の食事会の数年後、王子北とぴあのダンスパーティに通い始めたころ、近くの線路下の連絡トンネルで玉子焼きが販売されているのをしばしば拝見した。
このころ(2005年)閉店したらしい。


千駄木菜園 総目次

2018年8月12日日曜日

北とぴあダンスパーティと展望室

数年ぶりに王子、北とぴあに来た。
その前回も数年ぶりだった。
かつては仕事が終わると埼玉県戸田の職場から、あるいは休日は指扇から毎週のように通って踊ったものだが、競技をするようになって、足が遠のいた。

その後、競技パートナーと解消したときはたまにパーティにいくのだが、踊りたい人(競技経験者)は、葛西ステップワンか新大久保ケヅカ、あるいは新百合ヶ丘などに集まり、王子は踊れる人が少ない。

しかし、昔は違った。

大宮の公民館でダンスを覚えたのが1999年4月、なんとかパーティで踊れるようになったのは年が明けてから。
2000年4月に荒川を越え、初めて都内のダンスパーティに行ってみた。
埼玉と違って男性も女性も上手い人ばかりで圧倒された。
当時北とぴあでは毎週火、木、土の昼、夜にパーティがあり、夜の部は仕事帰りの男女も多く活気があった。

あれから18年も経つのか~、同じ13階の飛鳥ホール。
2018年8月11日 13:00~16:30 800円 ミキシングあり
今や高齢化が進み、夜は人が集まらないということで午後のみ開かれている。
当時の懐かしい顔も見えたが、皆ずいぶん年を取った。
鬼籍に入られた方もいるだろう。

18年前、私は初心者で、知り合いもおらず常に一人で行っていたから皆親切に教えてくれた。
その中に山田さん(本名かどうか不明)という男性がいた。もう定年退職されているのだろうか。私が仕事を休んで昼の部に行った時も彼はいらした。

ある日、午後の部が終わって、いつものようにまっすぐ帰ろうとエレベータを待っていると、彼が
「上に行ったことある? ない? じゃ、行ってみよう。人と違う方向に行けば、いつもと違うものが見られるかもしれないよ」
と最上階17階に連れていかれた。
北区の施設だから無料の展望室があった。

そこに先ほどまでダンスをしていた男性と女性が外を眺めていた。女性は上手できれいだったから覚えている。会場では男と一緒にいなかったから、今日初めて彼に声を掛けられたのだろうか。それとも二人はあえて別々に行動していたのだろうか。
「ねっ、意外な発見があるでしょう? ダンス会場だけでは分からない人間関係が見えることもあります」

同じフロアにレストランもある。
眼下には飛鳥山の森や京浜東北線、新幹線がみえた。

「上手できれいな人は人気があって、なかなか空かないですね。空いたとしても恐れ多くてこちらからは誘えません」というと
「敢えて誘わない、というのも手だな。他の男と違うところを見せて意識させる。
まだ君のレベルでは意識されることもないけど。
まあ、慌てることはない。女性の中には先行投資のつもりで下手くそな君に対しても優しく踊ってくれる人もいるし、実力が付けば向うから寄ってくる。」
と人生の先輩らしいアドバイス。
飛鳥山(左)と王子権現(右)の間が本郷通り

彼は今どうしているだろう。
18年経ったら亡くなっていても不思議はない。

首都高王子線、墨田川、荒川、スカイツリーが見える。



埼玉方面を見る。左の森は王子稲荷

いや、森の手前に鳥居が見えるので、手前が王子稲荷。
向こう側の大部分は名主の滝公園である。

ガラスの手前には、説明の写真パネルがあり、既に大分建物が変わっている。
今後この景色も変わっていくのだろう。

王子はめったに来ないし、電車なので「ご近所」とは言えないが、以前「石神井川、滝野川」を書いたときご近所に含めたので、今回もそうする。ちなみに千駄木の家から王子駅まで3.6kmである。
北とぴあに通っていたころ、自宅の大宮市プラザ1-3(さいたま市は2001年)から大宮駅までは4.9㎞あったから、都会というのはどこも近い。


千駄木菜園 総目次

2018年7月30日月曜日

キャベツ、3年間の害虫

2018-07-24 朝

キャベツ1つが割れ、連日の猛暑も影響したのか、割れ目が腐りかけている。
腐るとアリがたかってきて、妻は使ってくれなかった。

2018-07-24
今年はまあまあかな。
しかし玉に巻かないものがいくつか出た。肥料不足?日照不足?

早めにネットを張ったせいか青虫は居ないが、毛虫がけっこういる。
5月にいたヨトウムシほど大食漢でないため、放置しても大したことない。
つぶそうとしても逃げ足が速い。

ま、とにかく、3年目の今年は食べられるキャベツが初めてできたということで、これまでの失敗をまとめておく。
なお、種はダイソーで買ったものを冷蔵庫に保管、3年間使っている。

種まき 発芽 地植え 初収穫 処分
I   2016 2016・05・09 5・14 6・18 なし 8・17
II  2017 2016・10・10 10・17 3・12 6・1 6・4
III 2018 2017・10・09 10・14 2・25 6・24  

一回目は春にまいた。
地植え前から青虫(コナガ?)。
スミチオンは葉が黄色くなったのでマラソンに変更。
しかし効かず。
6月地植え、ネットを張るも、7月、コガネムシ、コナガ乱舞。ヨトウムシも。
消毒は10回以上もしただろうか。
2016-07-24 
マラソンはコガネムシには効く。一晩でこれだけ死んだ。


最大の加害者はコナガ(小菜蛾)である。

調べたら、西アジア原産、1965年ころから日本でも大発生するようになったという。卵から成虫まで15日、1シーズンに10-12世代も生まれるから変異も早い。70年代終わりには有機リン系農薬に耐性をもつ個体が出てきた。
私は何も知らず、手元にあったスミチオンやキャベツに害の少ないマラソン(ともに有機リン系→)を使っていた。勉強不足で1年無駄にした。
2016-8-16
1つも収穫できず抜根する。
この日までネットで覆っていたから、コナガは天敵もいない天国で、好きなだけ食べ、好きなだけ飛んで、好きなだけ交尾していた。

2回目は、同じ年、
害虫の少ない秋まきでリベンジというか再挑戦。
面白いことに、早く蒔きすぎると、翌年の春にトウ(菜の花)が立ってしまうらしい。10月にまいて、霜でやられそうな小さな苗で越冬。
翌2017年3月、虫の出ないうちに地植え、ネット張り。
しかし5月末からコナガよりもヨトウムシが問題となる。我が家の消費より虫が食べる方が早く、かといって穴だらけのものは人にもあげられない。結局一度に全部とって、食べられる部分だけ、食べられる量だけ、使う。残りは生ごみとして埋めた。

3回目が今回。2回の反省から当然秋まき。
ネットを張ってからは夜、懐中電灯でヨトウムシの駆除をするのが日課となった。
おかげで途中からヨトウムシはみなくなった。
それでも残る食害はナメクジと毛虫だろうか。

スーパーに行くと、立派なものが非常に安い値段で売っている。

我々は農家に感謝しなくてはならない。

2018年7月17日火曜日

補助92号線の歴史と今

家から西日暮里駅に行く途中、道灌山通りの北側、西日暮里4丁目。旧日暮里渡辺町。
大通りから一本中に入ると、そこにやたらと道路建設反対の貼り紙がある。

猛暑の続く3連休最終日、歩いてみた。
2018-07-16
 駅に向かうらしい50代くらいのご婦人を呼び止め聞いてみた。

「92号線の計画はなくなったのでは?」
「いえ、都では10年以内に作りたいみたいですよ。皆反対しているのに、何で作るのか。まったく税金の無駄遣いですよ」

 植木に水をやってらした70代くらいの老婦人がいた。

「3丁目(道灌山通りの南)や谷中はなくなったみたいですが、こちらの4丁目はやるみたいです。全く何のために作るのか。幅20メートルもの道路を作ったら町内会は分断されるし、せっかくの静かな町がなくなってしまう。私らは年に1回か2回、1000円のカンパをするだけですが、先頭に立ってやっている人は陳情に行ったり貼り紙作ったり大変です」

この通りはほぼ全戸が旗を建てたり貼り紙したり、本気である。

微妙に曲がる道なりがこの道路の古さを感じさせる。
根岸から大竜寺まで正岡子規の葬列が通ったとされる。

補助92号線は、上中里・西ヶ原の古河庭園のところで本郷通りから分かれ南下、山手線を越えて田端文士村のあった高台を横断しながら下り、この西日暮里4丁目の住宅街を強引に突っ切る。

そして道灌山通りを越えたら花見寺修性院、法光寺、南泉寺、延命院を蹂躙し尾根に出る。谷中「夕焼けだんだん」や、朝倉彫塑館は図面上残るが、ぎりぎりのところを幅20~22メートルの幹線道路が通って両側に高層マンションが立ったら、消滅するだろう。

現在谷中散策の人々の歩く尾根道を広げることは、海蔵院、長安寺をつぶすことを意味する。観音寺の築地塀もなくなる。
幹線道路の新設と周辺の区画整理はセットになっているから、江戸、明治の面影を残す谷中はそっくり消滅する。

そして団子坂、三崎坂からの道(補助178号線、15m予定)に合流(合流点だけすでに不自然に広がっている)、愛玉子、岡埜栄泉、旧吉田屋酒店もつぶし、上野桜木で言問通りを拡張する環状3号線(幅27~35m)と交差する計画だった。
しかし、この道灌山通りから南の谷中地区部分は平成16年に見直し区間に入り、ようやく平成27年12月、廃止が決定した。私が谷根千にきて3年目のことだ。
http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/kiban/tokyo/pdf/minaoshi_02.pdf

当然であろう。

70年以上前、戦後間もない時期に、つまり建物疎開や大空襲で焼け野原になった状態で、戦災復興院が都市計画の図面を書いた。
おそらく地図を見るだけで好きなように線を引いたであろう。環状線はこの辺りを通そう、この道路とこの道路を補助線でつなげば便利かな、、、
こんな適当な計画が、今になって地域住民の意思や要求とは無関係に持ち出され、進められようとしていたものだ。
終戦直後の良かれと思った計画でも今から見れば野蛮極まりない。

92号線の計画は、谷根千地区ではなくなったが、道灌山通りの北では生きていた。
(私は田端部分以外全部なくなったと勘違いしていた)
生きていたどころか、西日暮里4丁目では測量の通知が突然2、3年前?各戸に配られたという。(3丁目部分が中止決定になった時期?)

役所というのは、なぜこんなに無茶な計画を押し通そうとするのだろうか?
八ッ場ダムや諫早湾干拓で見る通り、一度決まったらどんなことがあっても実行しようとする。建設業者からのわいろなどでは説明できない。災害など何かあったときに計画不履行の責任を問われることを恐れているのだろうか。
こういった路地をなくし災害に強い街にするというのが、彼等の言い分だが、幹線道路沿いに高層マンションが乱立し、人口過密となったらむしろ災害に弱くならないか。

そのまま住宅街を北に歩き、田端駅前通りに出た。
92号線はここ、赤紙不動の前まで来ている。
車がいないから、非常に広い生活道路というべきか。
2018-07-16
 遊ぶ子供もおらず、せいぜい年に一度のお祭りにしか使えないような幹線道路。
境内を削られた赤紙不動(→東覚寺)。
この道が計画通り南に延びたら谷中の寺町もこうなる運命だった。

区画整理で古い家はなくなり、駐車場になったり、グループホーム(右)、介護老人施設(左)ができた。かつての田端文士村も、いまや散歩するに値しない。

かつての滝野川第一小学校(右)は田端小学校と名前が変わっていた。

ところで、この部分だけはずっと昔から広かった。

41年前の1977年、本駒込5丁目に住んでいたころ、最寄り駅は駒込だったが(東口改札まで徒歩8分)、京浜東北線を使うときは田端駅まで歩いた(1.2㎞、14分)。大学とアパートの往復ばかりだった私にとって、今思えば貴重な街歩きだった。

1963年の航空写真(goo地図)がある。
私がいた頃より14年前だが、41年たった今より、この写真の方がずっと近い。
1963(文字は現在)

これをみれば、92号線はすでに左上の古河庭園のところで本郷通りから別れ、女子聖学院を過ぎ、山手線近くまで来ている。
山手線の南は、線路に近い方と、田端小学校の西側が広くなっているが、これら二つの区間はつながっていない。
1963 拡大図
私が歩いた1977年には、63年より少し工事が進み、山手線から南の二つの区間は細い仮道でつながっていた。
そして2010年代になり、小学校の西から田端駅前通りまで、立派な計画道路が東覚寺の境内を削って開通したわけだ。

田端から本駒込に帰るとき、この小学校の西の、不自然に広い道に出た後、角の向かいの素敵な家の横をぬけてポプラ坂を下りた。その家の表札には板谷と書いてあった。

人文科学の本をほとんど読まず、せいぜい自然科学の学業と異性にしか興味がない大学3年生にとって、それが板谷波山の窯跡、ご子孫の住居とは知る由もなかった。

10年か20年以上たって波山を知ったとき、覚えていた1977年の表札と初めてつながった。その後田端、千駄木で家を探すようになってから、しばしば田端を歩いた。2010年9月はまだ板谷家はあった気がするのだが、2011年4月は区画整理で破壊されていた(→田端)。


 今日、広くなった道路は、南の東覚寺から小学校の西側部分まで。
そこから北は狭いまま。
この辺りの拡張未完成ぶりは1977年から変わっていない。

このまま92号線を北に歩き、山手線を渡って上中里、王子へ出ても良かったが、35度の猛暑、午後は職場へ行こうと思ったので田端駅に戻った。

江戸坂

帰ってからネットを見ると
北区の共産党議員の
「住民の合意なしに進めるのは無理ではないか?見直しを都に要望するよう区長の答弁を求めます」に対し、
「補助九十二号線につきましては、区といたしましては、道路ネットワークを形成する上で重要な路線と認識しており、早期完成に向け東京都に働きかけてまいります。」【答弁 三浦まちづくり部長】
http://kyoukita.jp/situmon/2010/2010-2/10615hm.html
とあった。

どうしてこうずれているのだろう?
山手線に橋をかけないと、92号線は分断されたままになる。つまり単なる太くて短い行き止まり道路2本に過ぎず、空き地を作っただけの、壮大なる税金無駄使いとなる。
そして相当な大工事となる山手線跨線橋をあえて作るには、せめて広い道灌山通りまで通じさせ、意味のある路線にしなくてはならない。

役人たちは、今中止にしたら、これまで作ってしまった失態の責任をとらされるのがこわくて、がむしゃらに進んでいるのだろうか。


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