2018年7月17日火曜日

補助92号線の歴史と今

家から西日暮里駅に行く途中、道灌山通りの北側、西日暮里4丁目。旧日暮里渡辺町。
大通りから一本中に入ると、そこにやたらと道路建設反対の貼り紙がある。

猛暑の続く3連休最終日、歩いてみた。
2018-07-16
 駅に向かうらしい50代くらいのご婦人を呼び止め聞いてみた。

「92号線の計画はなくなったのでは?」
「いえ、都では10年以内に作りたいみたいですよ。皆反対しているのに、何で作るのか。まったく税金の無駄遣いですよ」

 植木に水をやってらした70代くらいの老婦人がいた。

「3丁目(道灌山通りの南)や谷中はなくなったみたいですが、こちらの4丁目はやるみたいです。全く何のために作るのか。幅20メートルもの道路を作ったら町内会は分断されるし、せっかくの静かな町がなくなってしまう。私らは年に1回か2回、1000円のカンパをするだけですが、先頭に立ってやっている人は陳情に行ったり貼り紙作ったり大変です」

この通りはほぼ全戸が旗を建てたり貼り紙したり、本気である。

微妙に曲がる道なりがこの道路の古さを感じさせる。
根岸から大竜寺まで正岡子規の葬列が通ったとされる。

補助92号線は、上中里・西ヶ原の古河庭園のところで本郷通りから分かれ南下、山手線を越えて田端文士村のあった高台を横断しながら下り、この西日暮里4丁目の住宅街を強引に突っ切る。

そして道灌山通りを越えたら花見寺修性院、法光寺、南泉寺、延命院を蹂躙し尾根に出る。谷中「夕焼けだんだん」や、朝倉彫塑館は図面上残るが、ぎりぎりのところを幅20~22メートルの幹線道路が通って両側に高層マンションが立ったら、消滅するだろう。

現在谷中散策の人々の歩く尾根道を広げることは、海蔵院、長安寺をつぶすことを意味する。観音寺の築地塀もなくなる。
幹線道路の新設と周辺の区画整理はセットになっているから、江戸、明治の面影を残す谷中はそっくり消滅する。

そして団子坂、三崎坂からの道(補助178号線、15m予定)に合流(合流点だけすでに不自然に広がっている)、愛玉子、岡埜栄泉、旧吉田屋酒店もつぶし、上野桜木で言問通りを拡張する環状3号線(幅27~35m)と交差する計画だった。
しかし、この道灌山通りから南の谷中地区部分は平成16年に見直し区間に入り、ようやく平成27年12月、廃止が決定した。私が谷根千にきて3年目のことだ。
http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/kiban/tokyo/pdf/minaoshi_02.pdf

当然であろう。

70年以上前、戦後間もない時期に、つまり建物疎開や大空襲で焼け野原になった状態で、戦災復興院が都市計画の図面を書いた。
おそらく地図を見るだけで好きなように線を引いたであろう。環状線はこの辺りを通そう、この道路とこの道路を補助線でつなげば便利かな、、、
こんな適当な計画が、今になって地域住民の意思や要求とは無関係に持ち出され、進められようとしていたものだ。
終戦直後の良かれと思った計画でも今から見れば野蛮極まりない。

92号線の計画は、谷根千地区ではなくなったが、道灌山通りの北では生きていた。
(私は田端部分以外全部なくなったと勘違いしていた)
生きていたどころか、西日暮里4丁目では測量の通知が突然2、3年前?各戸に配られたという。(3丁目部分が中止決定になった時期?)

役所というのは、なぜこんなに無茶な計画を押し通そうとするのだろうか?
八ッ場ダムや諫早湾干拓で見る通り、一度決まったらどんなことがあっても実行しようとする。建設業者からのわいろなどでは説明できない。災害など何かあったときに計画不履行の責任を問われることを恐れているのだろうか。
こういった路地をなくし災害に強い街にするというのが、彼等の言い分だが、幹線道路沿いに高層マンションが乱立し、人口過密となったらむしろ災害に弱くならないか。

そのまま住宅街を北に歩き、田端駅前通りに出た。
92号線はここ、赤紙不動の前まで来ている。
車がいないから、非常に広い生活道路というべきか。
2018-07-16
 遊ぶ子供もおらず、せいぜい年に一度のお祭りにしか使えないような幹線道路。
境内を削られた赤紙不動(→東覚寺)。
この道が計画通り南に延びたら谷中の寺町もこうなる運命だった。

区画整理で古い家はなくなり、駐車場になったり、グループホーム(右)、介護老人施設(左)ができた。かつての田端文士村も、いまや散歩するに値しない。

かつての滝野川第一小学校(右)は田端小学校と名前が変わっていた。

ところで、この部分だけはずっと昔から広かった。

41年前の1977年、本駒込5丁目に住んでいたころ、最寄り駅は駒込だったが(東口改札まで徒歩8分)、京浜東北線を使うときは田端駅まで歩いた(1.2㎞、14分)。大学とアパートの往復ばかりだった私にとって、今思えば貴重な街歩きだった。

1963年の航空写真(goo地図)がある。
私がいた頃より14年前だが、41年たった今より、この写真の方がずっと近い。
1963(文字は現在)

これをみれば、92号線はすでに左上の古河庭園のところで本郷通りから別れ、女子聖学院を過ぎ、山手線近くまで来ている。
山手線の南は、線路に近い方と、田端小学校の西側が広くなっているが、これら二つの区間はつながっていない。
1963 拡大図
私が歩いた1977年には、63年より少し工事が進み、山手線から南の二つの区間は細い仮道でつながっていた。
そして2010年代になり、小学校の西から田端駅前通りまで、立派な計画道路が東覚寺の境内を削って開通したわけだ。

田端から本駒込に帰るとき、この小学校の西の、不自然に広い道に出た後、角の向かいの素敵な家の横をぬけてポプラ坂を下りた。その家の表札には板谷と書いてあった。

人文科学の本をほとんど読まず、せいぜい自然科学の学業と異性にしか興味がない大学3年生にとって、それが板谷波山の窯跡、ご子孫の住居とは知る由もなかった。

10年か20年以上たって波山を知ったとき、覚えていた1977年の表札と初めてつながった。その後田端、千駄木で家を探すようになってから、しばしば田端を歩いた。2010年9月はまだ板谷家はあった気がするのだが、2011年4月は区画整理で破壊されていた(→田端)。


 今日、広くなった道路は、南の東覚寺から小学校の西側部分まで。
そこから北は狭いまま。
この辺りの拡張未完成ぶりは1977年から変わっていない。

このまま92号線を北に歩き、山手線を渡って上中里、王子へ出ても良かったが、35度の猛暑、午後は職場へ行こうと思ったので田端駅に戻った。

江戸坂

帰ってからネットを見ると
北区の共産党議員の
「住民の合意なしに進めるのは無理ではないか?見直しを都に要望するよう区長の答弁を求めます」に対し、
「補助九十二号線につきましては、区といたしましては、道路ネットワークを形成する上で重要な路線と認識しており、早期完成に向け東京都に働きかけてまいります。」【答弁 三浦まちづくり部長】
http://kyoukita.jp/situmon/2010/2010-2/10615hm.html
とあった。

どうしてこうずれているのだろう?
山手線に橋をかけないと、92号線は分断されたままになる。つまり単なる太くて短い行き止まり道路2本に過ぎず、空き地を作っただけの、壮大なる税金無駄使いとなる。
そして相当な大工事となる山手線跨線橋をあえて作るには、せめて広い道灌山通りまで通じさせ、意味のある路線にしなくてはならない。

役人たちは、今中止にしたら、これまで作ってしまった失態の責任をとらされるのがこわくて、がむしゃらに進んでいるのだろうか。


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