2021年1月23日土曜日

薬学ボート部の合宿と学部レース

先日、田辺三菱製薬戸田事業所の解体を見に来て、ついでに戸田漕艇場にまわった。

各大学の艇庫をみながら、ボート部での合宿を思い出した。

(別ブログ)

2021-01-12 10:39
池の南側、一番手前は東大艇庫

東北大と筑波大

ボート部といっても対校(対抗ではない)クルーを出す全学のボート部ではなく、薬学部のボート部である。

東大は全学のボート部の他に医学部、薬学部にもボート部があった。
全学ボート部は当時、花形のエイトが実業団も含めた全日本選手権で4連覇したという強豪。
一方薬学部は1学年66-70人、進振り後の専門課程すなわち3年生、4年生の2学年しかなく、かつ実験が忙しい。エイトを漕ぐにはコックス入れて最低9人必要だが、戸田で長期合宿となるから野球、サッカー、テニスと比べ敷居が高く人は集まらない。
ボート部はあったが、もっぱら毎年秋の薬学部水上運動会で、練習、大会の手伝い、指導がメインになっていた。
それが私の進学した1977年に大きく変わった。
中興の祖、金子次男氏がいたからだ。

1980薬学部運動会

3年生になり、薬学に進学して初めての学生実習。
夏前だろうか、我々の実験台のところに赤羽浩一氏がボートを漕いでみないか?と誘いに来た。彼も初めてだといったが、4年生の金子さんに言われて人を集めに来たらしい。二人は諏訪清陵高校の先輩後輩だった。

諏訪清陵の端艇部というのは高校には珍しく艇庫・合宿施設を諏訪湖に持ち、1901年創部、120年の歴史を持つ。1981年はインターハイ優勝、古豪として知られる。

誰でも良かったのだろう、片っ端から声をかけ、なんとなくついて行ったのが赤羽と長野県つながりか飯田高校出身の牧島房夫と私、薬学野球部つながりか新井洋由と小林松男。あとから三村亨も引っ張られた。(以下、敬称略)

40年ぶりに来た艇庫。
この2階、3階の大広間で合宿した。
道路との間の前庭が舗装されていたが昔は土だった。
毎朝5時に起きてここで準備体操をする。
二人一組で柔軟をするときは、雨の時などコンクリートの部分は少ないから土のところにも座る。いくら雨中どうせ船に乗れば濡れるからといっても、11月は暗くて寒い。そのなか、濡れて泥の地面は気持ち悪く、冷たく、辛かった。

体操が終わると走る。
公園事務所
公園事務所までいって公園の外に出て、堤防と民家の間を帰ってくる。

このあたりにボートの修理をする家があった。

走って戻ってくると、全学ボート部、医学部ボート部と完全に分かれ、艇を担いで池に出し、別メニューで練習、以後、翌朝まで顔を合わすことはなかった。

競技用の船は公園のお椀のようなボートと違い、座席がレールで動く。
前に出てオールで後ろの水をつかみ、足でけってシートを後退させることで水の塊を前方に動かす。全員の動きが合わないとオールが水中で抵抗となりスピードが出ない。それ以前にシートが一斉に動かないと前後の人にぶつかる。

ナックル艇はがっしりしていて少々バランスを崩しても漕ぎ続けられるが、スピードを追求したシェル艇は船の幅がシート分しかなく、誰かが早く前に突っ込んだりしてバランスを崩すと傾き、片側のオールが全部水につかって漕げなくなる。だから最初はナックルで練習し、慣れたらシェル、その花形、最速のシェルエイトに乗れるようになる。

ある程度の技術はいるが、結局は腕力、脚力である。
40年ぶりに来たら艇庫の端には登攀縄が据え付けられていた。
今はいろいろ科学的なトレーニングをしているだろう。

1977年、3年生の私が初めて戸田に行ったとき、すでに4年生はエイトで練習していた。金子さんの学年だけあり、1学年68人(男子55人)のうち男13人と女子マネージャー1人を集めていた。

赤羽はさらに3年生を集めたくて「遊びに来るだけでいいから」と駒野宏人や猪俣則夫なども日帰りで連れてこられた。夏合宿は1週間だったか2週間だったか。3学年上の小田島和徳先輩もコーチに来てくださった。

秋になると学内で学部対抗レースがあった。
医学部、薬学部はそのまま出るが、他は全学のボート部が所属学部に分かれて参加する。
全部で6レーンだったから、法、工、農、文、経、理、教育全部は出られない。どうやってチームを作ったか。

金子さんはこの学部レースに本気で勝つつもりでいたようだ。
このころ全学のボート部は、日本代表になるほどの実力者だが、バラバラに分かれれば少しは戦力ダウンする。まあ全学のボート部に勝つことは難しくても医学部なら何とかなると思っていたらしい。しかし医学部は東京医科歯科、日本医大など医学部ボート部の対抗戦がある。なにより理3で進学振り分けがなく駒場時代から入部させるから、薬学の倍のキャリアがあって実力はずっと上だった。

秋になって薬学部は4年生だけで9人のクルーを作れたはずだが、本気で勝つつもりだった金子さんは、同級生の4年生を落とし、体力腕力に優れた3年の赤羽、牧島、新井を入れ特訓した。合宿は1か月半くらいだった。
エイトのメンバーはバウがムードメーカーだった小川裕司さん、2番が金子さん。整調が俳優のようにかっこよかった大塚文徳さん、7番は全学から借りているオールなのにKENとマジックで書いていた斎藤健一さん、6番、5番のエンジンペアが長身怪力の牧島、赤羽。4番に新井、3番が芝野俊郎さんだったか奥田晴宏さんだったか。コックスは操舵術が抜群で、本当に美声だった澤田光平さん。澤田さんは93年ころから森泰生氏とCaチャネルの共同研究をされていて、その縁で再会、いろいろ教わった。

3年生で残った松男、力の両小林は来期を目指しナックルペアで特訓することになった。
4年でエイトに乗らなかった学年一の秀才、山本善雄さんらがコックス兼コーチとして世話してくれた。我々のナックルペアは真剣なエイトのクルーと比べるとのどかで、田仲広明さんは1000メートル先の表示板の数字を我々に見させて、限界距離では形と色はどちらが判別できないか、などと船の上で我々に考えさせた。

1年上の先輩たちは布団の上で試験問題の傾向を教えてくれたり、本郷ではマージャンもやった。あるとき彼らは牌を混ぜながら国内企業の品定めをしていた。橋田亮一さんは田辺の研究力を評価していて、あそこは良いものを持っているけど今出すとスモンの賠償金で全部取られちゃうから出さないんだよ、なんて言っていた。彼はエーザイに行ったのだが、のちに私が就職先を決めるにあたり、この雀荘での会話を思い出した。
教育大付属出身の小川さんは車で戸田に来ていて練習が終わるとたまに(席に余裕があると)我々を大学まで乗せていってくれたが、車中は○○ちゃんという彼女の話ばかりだった。

40年ぶりに来てみると、艇庫の増築だけでなく、東側に別棟ができていた。
ローイングマシーンやいろんな器具があるのだろうか。

ベルリン五輪(1936)にエイト出場、18回の全日本選手権エイト優勝、4回の全日本学生選手権エイト優勝を数える伝統校。OB会からの寄付も大きいのだろうか。
栄光の東大ボート部も近年はスポーツ推薦で有力高校選手を集める私大になかなか勝てず、「国立の中では強い方」という存在らしい。テコ入れの新築かもしれない。
かつて、この別棟のあったところは芝生で、ナックルフォアの屋外艇庫があった。
シェル艇はちゃんと屋内にしまってあったが、ナックルはちょっと軽く扱われ(重いけど)、屋根だけ着いた架台にかけていた。
親睦レガッタの練習で各研究室の人々(みな上級生)が日替わりで来て、ここから担いで池まで運ぶのだが、ふざけた人が多く、途中で落としそうになったりお世話が大変な教室もあった。
彼らはみんな偉くなった。

艇庫の芝生の向こうの道路を渡ればすぐ荒川。
休日などポンドがレガッタなどで混んでいるときは艇をかついで荒川で漕いだ。
流れは大してないが、帰りに下りになるよう、先に岩淵水門まで行き、それから上流の秋ヶ瀬取水堰まで行って、下ってきた。

ボートというのは一斉に椅子とオールが動くから、いくら疲れても一人止めるわけにいかない。推進力にならなくても最低同じペースでオールを入れ流して抜く運動を続けなければならない。もちろんこうなると抵抗になり他の人の負担がぐっと重くなる。そうやって力を抜いても(抜くつもりはないのだが)休憩の時に棒のようになった腕を見ると、充血しているのか膨れ上がっているように見えた。
やっと練習が終わっても、そこからが大変。水を吸って重くなった船を担いで堤防を上がらねばならない。もうダメだ~と思っても船を落とすわけにはいかない。なんでこんなことをやらねばならないのか、と何度思ったことか。

このように休日漕ぐこともあったが、基本は土曜の夜だけはアパートに帰った。洗濯をして着替えをもって日曜の夜にはまた艇庫に入る。以前ブログに書いたが本駒込勤労福祉会館でのダンスパーティに出たのはこの貴重な日曜のことだ。

そうそう、赤羽、松男、新井は薬学野球部でもあったから四大戦の前はボート練習の合間に皆で荒川に出て、キャッチボールやノックで野球もした。みんな偉くなったから大学の講義は出なくてもいいということが分かる。
艇庫の母屋もL字型に増築され、木のデッキができていた。
朝の柔軟もここで出来れば気持ちいいだろう。
外から中が見えた。誰もいない。
コロナで合宿所は閉鎖か?
いや、対校クルーは住んでいるだろうから、他に行くところがない。

昭和50年、長野高校剣道班は優秀で、増田、吉平、高倉、由井と5人で東大を受けた。
5人とも理系だったから2日間駒場の試験で、昼休みの昼食は5人で芝生に車座になった。その年高倉と私が入り由井は信大医学部に行き、増田、吉平は翌年来た。さっそく吉平の池袋のむこう、千早町だったか要町だったかに4人集まり徹夜で麻雀した。そのとき私と高倉の冴えない大学生活を見た熱血・吉平敏行は、俺はもっと充実した4年間を送る、と言ってボート部に入った。そして東大ボート部全盛期の主将、対校クルーのメンバーになった。彼はアパートを引き払って引っ越し、卒業までここで過ごした。あまり大学に行かなかったと思われるが、輝かしいボート歴と明るい性格で積水化学に就職、その後牧師になった。
覗くと食堂が見えた。
40年前の間取りはどうなっていたか忘れたが、艇庫(写真では右の壁の外)から入ったような気がする。学部レースのころだったか、食堂に古い優勝旗が立ててあり、学部名が書かれた何十本もの汚れたリボンがついていた。

日本ボート協会の公式サイトに日本のボート史がある。
1877年(明治10)、F.W.ストレンジが大学予備門(東大の前身の一つ)の教員となり、 隅田川で学生に漕艇を教え始める。大学南校(東大の前身の一つ)と東京外国語学校がボートを購入した。
1886年(明治19)東大に日本初の運動部、大学走舸組競漕会(だいがくそうかぐみきょうそうかい)が発足。これがボート部の前身で、今年で創部134年、最古の部活。
夏目漱石もボートを漕いでいたというが、どの程度だったか不明。

全日本より学部レースのほうがレベルが高かったというのは、帝国大学医科大学、法科大学というように分科大学の集まりだった時代だろうか。
それなら学部レースも意味があっただろうが、今は(存続して入ればの話だが)薬学部にレースの機会を与えるだけかもしれない。

さて、食堂にもどる。
練習終了はクルーによって違うから、食事はクルーごとにとる。
食堂に入ってくると艇の名前、布佐とか行徳とか書いてあり、納豆がどんぶり1つ、漬物が一皿、生卵が各自一つずつある。納豆を順番にとって回すのだが、多くとらないようにと他の目が光っている。9人で分ければ一人分は市販のパックの半分か3分の1くらいしかなかったのではないか? この献立は2年間の合宿で見事なほど寸分変わらなかった。
ご飯は食べ放題で、どんぶりよりも盛れるカレー皿である。1杯でも十分あるが、1年下の堀米一彦(野沢北)や加藤浩紀などは逞しく、わずかな納豆で1杯、わずかな漬物で1杯、最後に生卵で1杯食べた。

ところで、全学のボート部にとっては、素人の薬学ボート部が高価なエイトまで使ったり合宿所をうろちょろしているのは目障りだったかもしれない。
なぜ可能だったかというと、金子さんが全学ボート部だったのである。諏訪湖での経験者だから最初は大きな顔をされていただろう。しかしボートはオールで水の塊をかくレンジが長いほど、そのスピードが速いほど有利、体格が決定的になる。薬学に進学されたとき退部されたようだ。しかしボート?で留年までされたから、艇庫にいる屈強な全学のボート部員は同級生と後輩たちである。一目置かれていたのか、呼び捨てで話しかける存在であり、我々も便宜を図ってもらった。
2021-01-12
しかし、金子さんたちは学部レースでやはり最下位だった。

翌1978年は我々の代。
バウ小林松男、2番私、新井、牧島、赤羽の5人に、3年生の加藤、堀米、横井を入れ、コックスは再び澤田さんにお願いした。当日は競艇場との仕切りを外し、高い観覧席を見上げる戸田ボートレース場に初めて入って船を静止させ、号砲とともに東に向かって2000メートル漕ぎだす。最初は速いピッチで加速し、そのあとは安定したストロークに入る。
しかし1000メートルを過ぎてどんどん差は広がってきた。
その時すぐ後ろにいたバウの小林松男が「ツトムガンバ~」だったか「2番、伸びろ~」だったか突然背中から叫んだ。そんなに俺の漕ぎがゆるくなったかな、と大声でオーと言いながら気合を入れてオールを握りなおしたら、彼は次のストロークで3番を励まし、以後順に大声でクルーを鼓舞し始めた。私も彼に唱和して大声を出したほうがいいのか、これは松男の声を尊重し邪魔しない方がいいのか迷いながら漕いだことを思い出す。

2年間の成果をたった1回のレースで示す。
必死に漕いだが、しかしやはり最下位だった。

終わった後、合宿所の広間(要するに寝るところ)で親睦飲み会があり、一人一言で新井が「レースでは負けましたが、ミカンを食べる速さは負けません」といったことだけ覚えている。

名簿と当時の定期券

名簿を見ると薬学ボート部の最初は昭和35年卒業(31年大学入学、33年薬学進学)の七田俊彦さん一人から始まる。
昭和33年に医学部から薬学科が独立し、ボート部も別れたからである。なお、当時は理3がなく理2から医学科に行ったから、ともにボートは3年生からで、実力は変わらないように思えるが、薬学は33人しかおらずエイトを漕ぐのは困難であっただろう。

名簿には、えっ、彼もボート部だったの?と思う人が何人もいた。
職業人生をほぼ終え、会う機会もなくなってから気づいた。もっと早く知っていれば話ができたのに、と思った。話が弾んだかは分からないが、親しみは増したことだろう。

ちなみに、3年生でリーダーシップのあるものは必ず、4年で教室配属になるとき金子さんに毒性薬理教室へ引っ張られ、逃げられずに主将となった。金子ー赤羽ー加藤ー長谷部である。そのあとは私が就職したので知らないが、若くして亡くなった中村健も毒性薬理教室として名前があった。

定期券は4年の秋だ。
学生証の住所を文京区本駒込5-37-4二葉荘(本当は谷中に移っていた)から、戸田市戸田公園5-5東大艇庫に移し、御徒町から川口まで2130円で買った。
3年生の時は夜実験が終わると生協食堂で夕食を食べ、春日から都営地下鉄で西台まで、あるいは正門前から都バスで終点志村車庫まで行って、夜の国道17号を延々と北へ歩き、夏は戸田橋を500か1リットルのパックの牛乳を飲みながら渡った。もちろん川口から前新田循環のバスに乗ることもあった。
4年になって加藤たちが住所変更して学割定期を買っているのを見て我々も真似したのである。

いろいろ思い出すがきりがない。

あの頃のエイトの艇名は布佐、行徳のほかに旭、三四郎、銀杏?などだった気がするが、今でもあるのかな。



20210115 田辺三菱製薬戸田の解体現場にいってみた


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2021年1月21日木曜日

戸田ボートコース、各大学の艇庫、合宿所

 1月12日、田辺三菱製薬戸田事業所の解体を見に来て、ついでに戸田漕艇場にまわった。

ここに通ったのは1977年から80年まで。

そのご新幹線、埼京線が通り区画整理があって周辺はだいぶ変わった。

しかし漕艇場と周辺(戸田公園)はほぼ昔のまま。

2021-01-12 10:38
戦前、幻の東京オリンピック(1940)のボート競技のために、千葉印旛沼、横浜鶴見川との会場誘致合戦を制した北足立郡戸田村に、荒川の北に並行して池(ポンド)が掘られた。
オリンピックは中止になったが、戦後は競艇が始まった。
(このあたりのことはかつて、戸田市郷土博物館に写真パネルが展示されていた)

さらに1964年東京大会に合わせ、幅も70mから90mに広げられ、今の形になる。
10:39
池の南側は大学艇庫が並ぶ。一番手前は東大。

目を右に転ずれば
敷地に入ってすぐ、池に向かって右(北)は埼玉県の戸田艇庫
新しくなっている。

池の北側にはNTT東日本、共立女子大、東京医科歯科大、立教、明治安田生命、東京海上、三菱、東工大、日大、東京外語大、日本医大、慶応、早稲田の艇庫があるが、陸上からのアクセスは公園外の一般道路になる。池側は艇を出し入れするプライベートビーチのようになっていて、ここからは見に行けない。

池の東端、正面に堂々と池を睥睨するは国立戸田艇庫。
正式には国立スポーツ科学センター戸田艇庫という。
しかし私が学生の頃は「国立競技場戸田艇庫」と書いてあった。

国立競技場というのは神宮外苑の運動場ではなく、特殊法人の名前でもあった。
(特殊法人)国立競技場(1958)と日本学校健康会(1982)が1986年に統合され、日本体育・学校健康センターとなり、その下部組織として国立スポーツ科学センターがある。

1977年か78年、国立競技場戸田艇庫の船を借りたことがある。

というのは昔ボート部だったから。
といっても対校(対抗ではない)クルーを出す全学のボート部ではなく、薬学部のボート部である。
これについてはあとで書く。

池のほとりを歩いていく。
艇庫群の東に旭が丘会館という地域公民館が新しくできていた。

各艇庫の一番手前、東大は増築されさらに大きくなっていた。

東大艇庫

西側は学習院、法政、東京トヨペット、東北大と続く。

東北大の向こうは筑波大

各艇庫が終わると公園事務所がある。
2021-01-12
戸田公園事務所

懐かしい、と思ったが昔の写真を見たらどうも事務所は立て直したようだ。

1980-11-07
薬学部水上運動会
この年、生薬学教室はナックルフォアを4チーム出した。
私が総監督。戸田で10月に一度しっかり特訓し、1軍(ショーケン号)が3位入賞した。二軍(がんばれ博士号)、三軍(みつぐ丸)は予選敗退したが女子チーム(千草号?)は女子の部で優勝した。
一軍、三軍、女子の艇名は4年生の3人、北川祥賢、小林貢、佐々木千草氏にちなむ。二軍は学位取得で苦労していた留学生と博士課程の人々すなわち山本芳邦、木内文之、成忠基氏らの船だった。

1980
賞状を手渡すのは野島庄七学部長、手前に控える短パンはこの年の薬学ボート部の主将だった長谷部也寸志
以下、敬称略で後ろに
今村亨、寺島正純、森和彦、牧島房夫、田仲広明、小田島和徳、諸氏が見える。

明かに公園事務所は建て替わっていた。

ついでに懐かしい写真を載せて置く。
古川賀洋子氏は姫路出身、テニスがうまくて谷中の隣、千駄木に住んでいた。

一番左は堀越正美氏に似ているが不明。左から順に合田広幸、佐々木千草、飯島洋、私、小林貢(隠れている)、國枝卓(コート)、渋谷雅明の諸氏

3位入賞のショーケン号、渋谷雅明、藤井勲氏

女子チーム 優勝
左から4番目、池田万里子

1980
がんばれ博士号に乗り込んだ山本芳邦、呉金濱氏。
右の頭はショーケンと結婚された田村有子さん。
左の胴は池田万里子さんだろう。

2021年に戻る。

2021-01-12
40年後、人は誰でも年を取る。

池は観覧席の向こうもずっと続く

2021
戸田公園の敷地は、ざっと東西2.4km 水路は2.3 km
西の方は戸田競艇で使っていて、その仕切りまで1.8 km
企業や大学などの親睦レガッタは500mだが、国際大会、全日本選手権などのエイトは2000mなので、その時は仕切りを除いて、競艇場からスタートする。40年前、仕切りは浮いている柵だったが、今は橋になっているようだ。
ちなみに隅田川の早慶レガッタは3750mである。

向こうまで行く元気がなかったので大学の艇庫を見ながら戻ることにした

公園事務所の側から成城、成蹊。丸い穴の開いた建物は一橋大。

明治20年(1887)東大が隅田川での学内レガッタに第一高等学校、 高等商業学校(一橋大の前身)、高等師範(筑波大の前身)を招待した。 東商戦の源流はここにある。
戦後、一橋大と改称したその年の対校レガッタを第1回とし、2019年で第71回。(第8回大会はメルボルンオリンピックのため開催せず)。花形の対校エイトは東大が通算42勝28敗で大きく勝ち越しているが、直近は一橋大が11連勝。

やはり伝統校一橋の艇庫は大きい。

明治大学、東京経済大と続く

東京経済大(右)の東は筑波大。

筑波大(東京教育大)の前身の一つ、体操伝習所が明治16年(1883)隅田川で東大と競漕したのが日本初の対抗レガッタとされる。直接の前身、高等師範も明治20年に東大と競漕している。

ちなみに大正9年(1920)に始まった、筑波大付属高校と開成の対抗戦は今日まで最も途切れず続く定期レガッタといわれる。

ボートというのは他のスポーツと違い、歴史がはっきり残っていて面白い。

筑波の隣は東北大。
はるばる仙台から漕ぎに来るのだろうか。
ちょうど学生が二人、整備していたので聞けば、本拠地は秋保温泉近くの釜房ダムらしい。 
この艇庫は、日本選手権のような戸田でやるレースの時に使う。
でも慣れている艇のほうがいいのではないかと聞くと、今のエイトは途中で分離でき運搬できるという。今は木造でなく、カーボンファイバーなどでさらに軽くなったらしい。
艇の名前はRoma(エイト)、陸奥(エイト)、Chica、海邦(フォア)など。
Romaというのは1960年のオリンピック出場を記念したものらしい。
 東北大学漕艇部は旧制二高端艇部から数え、創部120年の伝統を誇る。
ボートの華、エイトでは1978年全日本選手権で優勝。全日本大学選手権(インカレ)は1975年、1978年~1980年、1995年の計5回優勝している。

コロナで競技会はなくても整備などで仕事はあるらしく、前日上京したという。
話してくれたのは工学部金属学科の学生。本多光太郎の後輩だね、というと嬉しそうだった。今やっているテーマは鉄鉱石を溶解するのにコークスでなく水素を使うという研究。文武両道という言葉を思い出した。

いまのボート競技に関する丁寧な説明に感謝し、老人が若者を激励して別れた。
東北大のファンになったことは言うまでもない。
とってもいい顔してましたねぇ、と歩きながらいうと一緒にいた大塚さんも同意してくれた。

学習院は新しくなっていた。
40年前、モーターボートみたいな船が道路側に置いてあった気がする。

最後は東大
登攀縄が下がり、前庭は舗装されていた。

ここで77年、78年、2か月ほど合宿した。
実験終わって艇庫に来て、朝暗いうちに起きて漕ぎ、10時ころ戸田を出発、講義は自由参加だったので午後からの学生実習だけ出た。
いろいろ思い出して長くなるので別ブログにする。
(続く)


20210115 田辺三菱製薬戸田の解体現場にいってみた


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2021年1月19日火曜日

西日暮里三丁目の廃墟は補助92号線の地上げ?

 西日暮里三丁目というのは荒川区だが山手線の内側、道灌山の高台とその西側斜面、冨士見坂、諏訪神社など、崖と寺社の静かな地域。

1月5日、六阿弥陀道を歩き路地にはいってびっくりした。
空き家、空きアパートだらけだったからだ。

異常だったので1月17日、19日、再び行ってみた。
3回行って分かったことを書く。

2021-01-17 9:39
冨士見坂下の六阿弥陀道を南下



2021-01-05
前回入った南泉寺の南の路地は今回入らない。

次の路地、すなわち11番地と12番地の間を入る。
元気のないアパートを見ながら進むとが両側に空き地
2021-01-17 9:43 12番地側
2軒分の空き地。

グーグル航空写真
少し前の撮影か、ここに爆弾が直撃したような、屋根に穴の開いた建物がうつっている。

2021-01-05
空き地の2軒隣の神谷ハイツは少し人が住んでいる。

9:44
しかし神谷ハイツの奥は二軒とも無人

2021-01-05
2週間前に来たときはネコがうようよいて、エサをあげている男がいた。

2021-01-05
左一番奥は和泉荘
その手前はなかじま荘

2021-01-17 9:45
ひと気がない和泉荘の外階段に登らせてもらう。
なかじま荘の奥、2軒もすべて空き家のようだ。

ゼンリン地図にはまだみどり荘1号棟、2号棟とある。



なかじま荘の西、道路ではないがかつては通路だったのだろう。
そっと草を踏んで奥にはいる。
9:46
手前はみどり荘2号棟
玄関
戦後、何人ここに住んだことか。
偶然にもこのブログに来られることがあれば懐かしく思うだろう。

9:46 
みどり荘2号棟は、雨風が吹き込み朽ちるままになっている。

みどり荘1号棟
ネコだけでなく、あらゆる動物にとって恰好の住処になる。
窓から自由に入れるからホームレスの人も路上よりいいだろう。

2021-01-19
みどり荘の反対側、小幡第一アパートも無人、
ドアが開いて中身が丸見えだった。

穴あき屋根の家があった12番地の空き地の反対側、11番地側も草原になっている。
そこから見えるアパートも窓が開きっぱなし。
2021-01-05
しかしこの2軒、どこから入るのだろう?
この裏(忍荘側)にも、どこにも道がない。
1月17日に来たときも見つからなかったが、19日にも来てふと一般民家の奥にも家があるのに気づいた。どうみても個人宅の敷地のように見える軒下をいくと廃アパートが現れた。

2021-01-19
枯草の空き地から見えたアパートの1階部分である。
2メートル以上道路に接していないから再建築不可物件。
だから建て替えられないのだろうか?

続いて、南の路地、12番地と13番地の間、竹かご翠屋の角を入る。
2021-01-19 15:56撮影

両側のアパートはかなり部屋数あるが入居はごく一部。

9:48
突き当りの右側は崖、冨士見ホテルの裏になる。
裏はもともと汚いものだが廃業していると荒れ方も増す。


ホテル裏の向かい、つまり路地突き当りの左はアパート、中里荘
9:49
郵便受けのバッテンでほとんど無人と分かる。

路地から出ようとするとアパートに張り紙発見。
9:50
12番地側、地図では山一ステーツというアパート。
ドアに張り紙あり。

お知らせ
当アパーの解体準備の
ため、室内に立ち入ります。
令和元年9月7日
管理会社 都市興発株式会社 印


廃屋ではなく、まだ住まわれている建物でも解体するらしい。
どうもここ一帯はすべて取り壊されるようだ。
相当な面積だ。
いくら山手線の内側で駅が近いとはいえ(西日暮里、日暮里とも数分)、狭い六阿弥陀道に面して大規模開発ができるのだろうか?
それに空き家の荒れ方からみて、立ち退きは数年前である。それなのに解体工事が進んでいないのはなぜか? 疑問は多い。

ここではっとした。
これは補助92号線ではないか?

(以下推測で書く)

92号線が通ればその両側は容積率が一気に高くなり、高層マンションが可能となる。
暗くて狭くてごちゃごちゃしていた土地も価格が何倍にもなる。

http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/kiban/tokyo/pdf/minaoshi_02.pdf

しかし、寺寺を蹂躙し夕焼け段々と延命院の間で崖を上がり、さらに谷中の寺院をつぶすという木違いじみた計画はさすがにとん挫した。この西日暮里三丁目、すなわち道灌山通りから南の谷中地区部分は平成16年に見直し区間に入り、平成27年(2015)12月、廃止が決定した。私が谷根千にきて3年目のことだ。

不忍通りなどの経緯から見て、ここも2015年以前は地上げ屋が暗躍したことだろう。
たぶんこのあたりは地主、家主、住人が入り乱れ権利関係が複雑だ。地上げ屋は地主から底地を買い取ったあと住人の追い出しにかかる。
また買ったらグループ間で転売し、価格を上げていく。最後は道路を東京都に、両側をマンション業者に高値で売り渡す。納税者以外誰も損しない仕組みになっている。

東京都があれだけ建設にこだわったのは業者から議員、役所など関係者にも金が流れていたのではないか?と疑う人もいるほど。

しかしこの区間の補助92号線は中止。
見たところ、道路が通り区画整理しなければ再建築できない物件ばかり。
業者はがっかりし、頑強に追い出しに抵抗していた人のみが残り、廃墟のようなゴーストビレッジ、谷中の猫にとってはパラダイスが残った・・・・

・・・
夕焼け段々を上がる。
すぐ左にさっき裏から見上げた冨士見ホテルの入り口がある。
今思えば、このあたりも補助92号線がかかっていた。
9:52
右側は空き家が並ぶ。
2020年6月にはこの青板が外された景色になっていた。
奥2軒はかつての音羽壮、青好荘。

ゼンリン住宅地図 冨士見ホテル


右側だけでなく左側も二階の窓が開きっぱなし、空き家になっている。
「私有地につき立入禁止」という。

青好荘

このあたりは上野に行く補助92号線と日暮里駅を越えて東に行く補助188号線の分岐点になっていた。

突き当り左が冨士見ホテル玄関

一時は谷中夕焼けだんだんにある安ホテルとして外国人にも人気があったことだろう。
その庭石がごみで覆われていた。

9:53
どうもまだ誰か住んでいるようだ。
立入禁止の棒を乗り越えてきたので、あまり長居はできない。
でも、そもそも住んでいる人は立入禁止をかけた人なのか、それとも違法にいる人なのか。

金儲けがとん挫した跡地。

この地区一帯の所有者すなわち地上げ屋は今どこにいるのだろう?
このまま何年もこの状態が続くのだろうか。
強引に進めようとした役所、議員に金が渡っていたのかどうか、知りたいものだ。