2025年7月15日火曜日

千葉駅と千葉氏、亥鼻城

7月2日、薬物乱用防止講演で千葉市に来た。

千葉というのは長野から上京して50年、あまり縁がなかった。

学生時代でも就職しても、仕事でも遊びでもあまり来る機会がない。

九十九里に海水浴で2回行ったくらいか。

2025₋07₋02 12:26 
千葉駅改札内
現在の駅舎は2016年に完成した4代目。
中央改札口は3階にあり、線路は2階にある。

先日(2025年4月20日)ダンス競技会で千葉公園の体育館(YohaSアリーナ)に来たが、朝は急いでモノレールに乗り換え、帰りは西千葉駅まで歩いたため、この駅はじっくり見なかった。

エキナカはどこも似たようなものなので、改札から外に出てみる。
12:29
北東方面
先日のったモノレールの線路が見えた。2路線あって1号線は県庁前に、2号線は千葉公園を経て千城台に行く。構造をよく見れば、吊り下げ式ということが分かる。

下は佐倉方面のJR線路。
ちなみに総武本線というのは千葉が終点ではない。東京駅を起点とし佐倉(ここで成田線が分かれる)を経て銚子が終点である。

千葉駅はYの字を東(南東)に向けて横にした中心に位置し、西の東京から来て左(北東)に行けば銚子方面、右(南東)に行けば安房鴨川に行く外房線、内房線である。
12:31 南東方面
反対方向に出るとそごうが見えた。
そごうは各店舗が地域子会社であったが、2000年に22法人が経営破綻し半数以上の店舗が閉鎖。大宮、川口、柏など計13社は再生計画認可となり、営業を続けたが柏は2016年、川口は2021年に閉店した。
この千葉そごうは健在なのだろうか。

そごうの手前、地上4階に横たわっているのはモノレール駅である。
右(南)に行くと市役所前駅を経て、終着の千葉みなとでJR京葉線につながる。
その下に見える線路は京成線で右に行くと津田沼、上野方面。
外房線は足の下を向こうに伸びているから見えない。
12:31 東京方面
とくに何も見えない。

千葉市の東京への通勤通学率はどのくらいだろう?
総務省の統計では神奈川34.6%、さいたま市28.3%、横浜23.1%、千葉市21.5%とされる。
わりと低く、そごうなどもやっていけるのかもしれない。
地理的条件は和歌山と似ているが、紀伊半島とくらべ成田、銚子、木更津などをもつ千葉市のほうが商圏は大きく、駅前のにぎやかさに現れている。

用事が終わって千葉駅に戻って来た。
16:15 千葉駅正面玄関
千葉駅は東京方面から列車が来て、北東(佐倉、銚子方面)と南東(蘇我、安房鴨川方面)の二股に分かれることは書いた。
駅前広場はそのYの字型の股の部分にある。
前回来たときは1963年完成の3代目駅舎で、この二股部分の1階に改札があり、そこから2階の線路に上がった。
16:16
右は外房線、京成線の線路の高架。駅前広場から見る線路は2階だが、地形は東京方面が高くなっているため、駅の西側は線路が地上と同じレベルになる。
外房線は房総半島を横断し、大網を経て安房鴨川へ行く。途中蘇我で内房線が分かれ、こちらは東京湾に沿って南下、木更津、館山などをへて安房鴨川で外房線と出会う。

この高架に沿って南東に千葉の町を歩いた。
一駅分歩いて京成線の次の駅の前に出た。
16:28
京成線 千葉中央駅
駅名通りこのあたりが千葉市の中心だろうか。
以前は京成千葉駅といったらしいが、1987年4月1日に 国鉄分割民営化に際して、国鉄千葉駅前駅を京成千葉駅と改称するのに伴い、こちらを千葉中央駅に改称した。そして2002年、ホテルや映画館も入る高層ビルとなった。

千葉というのはどういう町だろう?
千葉は平安時代の坂東武士、すなわち先日書いた豊島氏の祖・秩父氏などとともに坂東八平氏の一つといわれる千葉氏にちなむと思う人もいるが、そうではない。千葉氏は桓武平氏の平忠常の曾孫である常兼が、下総国千葉荘に住んで千葉氏を称したわけだから、それ以前から地名としてあった。

千葉氏は鎌倉時代こそ歴代当主が下総国守護をつとめたが、室町時代になると本拠地を現在の千葉市から佐倉、酒々井の一帯に移し、衰退の一途をたどる。千葉氏がいなくなった後の千葉の町は寒村となっていたが、江戸時代になって千葉佐倉街道や東金御成街道が整備されると宿場町となった。
佐倉街道は千住宿から船橋・大和田・臼井などを経て佐倉に至る道筋で、成田参詣の道としてにぎわった。(いまバイト先のシェアガーデン北千住は佐倉道沿いにある)。
ただし千住を経由すると遠回りとなるため、日本橋から行徳へ水路をとる道筋が一般に用いられた。

1746年以後の後期堀田氏時代には11万石のうち7万石が下総にあり、このあたりを含む千葉郡31か村が佐倉藩領であった。佐倉藩は陸上・海上交通の要衝である千葉に役所を設け、また文政8年(1825年)には海防のために猪鼻山に陣屋が置かれた。
長岡藩が新潟を、長州藩が下関、三田尻を管理したように、佐倉藩は千葉を藩の外港とした。

私のような一般人は港としての千葉はぴんと来ないが、千葉港は国が指定する18の重要港湾の一つで、国際戦略港湾(東京、横浜、川崎、大阪、神戸)につぐ国際拠点港湾(室蘭、仙台、清水、名古屋、博多など15港)の一つである。JR千葉駅からモノレールで2駅である。

さて、歩いているところは政令指定都市の真ん中で港や海など全く感じさせない。
京成も外房線も千葉駅をでると東に向かっているイメージがあるが、千葉中央駅のあたりはほぼ南に向かっているから方向感覚が狂う。千葉中央駅の前の大通り(きぼーる通り)はほぼ東に向かっている。
16:29
モノレールの線路があった。
左が千葉駅方面、膨らんでいるのは葭川公園駅があるからだ。
モノレールに沿うように右折、南に向かう。
16:34
都川に沿う千葉県庁(の裏?)

頭に地図を浮かべると、千葉県というのは鉄道をもとにすると
1.総武線で千葉までの間の市川、船橋、津田沼など
2.松戸から常磐線沿いの柏、安孫子など
3.千葉から佐倉、成田、香取、銚子
4.千葉から茂原を経て大網、勝浦、九十九里など
5.東京湾沿いの蘇我、木更津、館山と分けられる。
このうち、1,2はまだしも、3,4,5は本当に土地勘がない。

これら5つの地域をまとめるなら、この千葉というのは適地かもしれない。
16:37
千葉県庁の東側に回り込む。
千葉県立羽衣公園になっていて、初の民選県知事の立像があった。

東に進むと県立中央図書館、千葉県文化会館などのある亥鼻公園の丘にぶつかる。
一角に寺院があった。
16:42
胤重寺(いんじゅうじ)
変わった寺名だが、1558年、千葉常胤の孫、武石三郎胤重の子孫である雲厳上人が祖先・胤重の菩提のため建立したという。

先ほど書いた千葉氏についてさらに書けば、千葉常胤(つねたね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての千葉氏第3代当主。頼朝挙兵に際しすぐに参陣し、千葉氏を地方豪族から鎌倉御家人の地位まで登らしめた千葉氏中興の祖といわれる。その三男が下総国千葉郡武石郷(千葉市花見川区付近)を領したことで武石三郎胤盛と称し、その子がこの寺の名前にもなった武石三郎胤重であるが、武石氏はすぐに陸奥国亘理郡に移ったとされるから、千葉宗家でもないのに、ここに菩提の寺がある理由は不明。

寺の西の坂の上に城が見えた。
千葉氏はこの丘を本拠としたとされる。
すなわち千葉常胤の父である千葉常重が平安時代の1126年、上総国大椎城(千葉市緑区大椎町)からここに拠点を移し、1455年、千葉胤直が下総原氏(千葉氏の庶流)に追われるまで、千葉氏13代、約330年に渡り両総に覇を唱えた千葉氏の拠点であった。
しかし、中世の館であり、こんな江戸時代風のお城があったわけではない。
1967年(昭和42年)模擬天守として作られた。
16:45
亥鼻城
というより、城の形をした千葉市立郷土博物館である。

1987年3月31日、近くの千葉大医学部で日本薬理学会が開かれた。それまで薬物代謝という有機化学の分野から、生理学、薬理学という生物学に転向しようとしている時期だったため、発表される演題はこちらに知識がなくさっぱり理解できなかったことを覚えている。
学会が終わって京成の駅まで歩こうと、途中ここに立ち寄ると、花見を盛り上げるためか頭上に提灯が張り巡らされていた。

その1987年にはなかった騎乗武士の像があった。
「飛躍 大空に鏑矢を放つ」
2001年、千葉市制80周年・政令指定都市移行10周年を記念し建立したらしい。
武将像だが千葉氏とも関係なく歴史上のモデルもない。税金を使ってわざわざ建てるほどのものでもない。というより設置することで本来の史跡の雰囲気に合わないと思う人もいるだろう。
本来何もしないのが無難であり、公務員というのはそういうものだと思っていたが、ひょんなことで予算がついてしまうと、一切逆らわず執行するというのもお役所である。

ちなみに亥鼻というのは台地の先端がイノシシの鼻に似ているという説と、上総台地が亥の方角(北北西)にせり出しているからという説がある。北西でなく北北西というのは細かい。
国土地理院 千葉市中央部
JR千葉駅(左上)は北西からの丘陵が尽きたところにあり、駅前広場が1階、線路が2階というのがよく分かる。
千葉市の中心はこの台地と、亥鼻台地に挟まれた低地で、埋め立て前は海がすぐそばだったこともよく分かる。


2025年7月8日火曜日

豊島園の跡と練馬城の丘

 6月22日、西武池袋線大泉学園駅から南の牧野富太郎記念館を見たあと、そのまま歩いて石神井公園に来て石神井城址を見た。(前のブログ)

この城は豊島氏の居城の一つだったが、1477年太田道灌に攻められ落城、廃城となった。
当時、豊島氏は練馬城、平塚城(北区上中里)も持っていた。
その練馬城に行ってみる。

石神井城址の西武線・石神井公園駅から池袋行きの各駅停車で練馬高野台、富士見台、中村橋、と3駅挟んで練馬駅についた。8分、4.6kmというのは、二つの城の距離のヒントになる。

練馬城のある豊島園駅は練馬駅で乗り換え一駅。
電車の本数が少なく、若いころだったら歩いてしまっただろうが、ベンチに座ってぼんやり待った。
ようやく、池袋から豊島園行き電車が到着。
2025₋06₋22 12:09
電車がハリーポッターである。
中は若者ばかり。
そうか、豊島園廃園のあと、ハリーポッターのテーマパークができたのだった。
12:14
豊島園駅到着
ロンドンの町を模したのか、赤い電話ボックスまで置いてある。
覗いたら「この電話は使えません」と書いてあった。
(ロンドンではなくてホグズミート駅らしい)

駅から出ると人々はみなまっすぐ歩いていく。
12:15
駅前広場か公園入口か

広場の案内地図をみれば一帯は練馬城址公園というらしい。
しかし奇妙である。
駅名には残っている「豊島園」の文字はいっさいない。
代わりに以前は誰も気づかなかった「練馬城址」の文字。
南東(現在地)と北西の隅のだけが小さく赤色、それが赤い糸で結ばれている。
北のほうに「スタジオツアー東京」。
それを含め「練馬城址公園」は真っ白である。
12:17
フェンスが張り巡らされ、地図の赤色部分以外は立入禁止になっている。
豊島園の跡地は入れない。

申し訳程度に小さく、豊島園の記念展示があった。
12:18
ジェットコースター「サイクロン」のレールの一部。
横に「この土地の歴史と思い出」というパネル。

「この土地の歴史」は室町時代から始まる。
「この場所には、中世に石神井川沿いに勢力を広げた豊島氏が石神井城の支城として築いた練馬城がありました。練馬城は1477年に扇ガ谷上杉氏の重臣太田道灌に攻められ落城しました。」

その後は雑木林か畑か、何の歴史もなかったのか、次は中世から一気に500年近く飛んで大正時代。 樺太工業(のちの王子製紙)専務であった藤田好三郎が1916年(大正6年) 自身の静養地として、石神井川南側の高台12,000坪を入手。さらに北側などを買い足したが、個人で独占するのはやめて景勝地として一般開放することにした。1926年「練馬城址 豊島園」として部分開園している。

ところで、藤田好三郎は名前だけよく知っている。
家の近所に東京都指定名勝・安田楠雄邸がある。千駄木駅への途中にあり、13年前から見続け、いま週に3日は立派な門前を過ぎるが一度も入ったことがない。この家こそ藤田が1919~1920年に本邸(自宅)として建てたもの。しかし関東大震災(1923)のあと藤田は中野に転居し、同年日本橋小網町の自宅を焼失した安田善四郎(安田財閥創業者・善次郎の女婿)が、藤田邸を“居抜き”で購入し、その後は安田家の邸宅として受け継がれた。

さて、豊島園は1931年 競売にかけられ、この後、経営者が転々とする。
1941年武蔵野鉄道(のちの西武)のものとなる。戦後は回転木馬やサイクロンなどが設置され、人気を博した。

豊島園は一度だけ来た。
就職して2年目の1982年10月3日、会社の運動会だったが、グラウンドだけ借りて遊園地で遊んだわけではないので、何の記憶もない。(その前年の運動会は井の頭公園の近くの日産グラウンドだったが、埼玉戸田事業所の自社グラウンドをなぜ使わなかったか不明)
12:20
石神井川を渡る

しかし豊島園は2020年閉園した。
向ケ丘遊園、横浜ドリームランドとおなじく経営不振だった。(2019,2020は黒字だったものの2018年は赤字で、薄利が続き、遊具の老朽化も顕著であった)
さらに大きな理由があった。
以前から東京都の防災避難公園化の都市計画があり、2011年の東日本大震災で具体化、西武に対して土地買収の交渉を始めた。2019年にワーナー・ブラザースが交渉に加わり、ハリー・ポッターのテーマパーク建設案も浮上し、西武は東京都からの土地買収および閉園要請の回答期限が2020年度であったことなどから、同年8月末で閉園した。
最初に見た真っ白で何もない「練馬城址公園」の地図の意味はこれだった。

石神井川の橋を渡るとハリポタテーマパーク。中国人観光客も多い。
12:21
Warner Bros Studio Tour Tokyo
The Making of Harry Potter
なるほど、テーマパークのことをスタジオ・ツアーというのか。
The Makingは製作過程という意味か。

子どもたちが小さいころ、英語の勉強をさせるために学会出張のたびにビデオや本を買ってきた。ハリーポッターもよく買ったが、私は見なかった。長女はよく見ていたが下の二人はどうだったか記憶にない。

ところで、ここに来た目的の練馬城に行きたい。
石神井川の南の丘にあるはずだが、渡る橋がない。というか、橋はいくつもあるが、すべてフェンスでふさがっていて、どこまで行っても川を渡れない。
12:23
延々と続く石神井川沿いの道
右は倉庫のように大きいハリポタスタジオの壁。
この道は例の地図の赤い線(現在入場できる公園部分)に当たる。

結局諦めて入口まで戻り、いったん公園から出て外から練馬城への入口を探すことにした。
12:40
南側の住宅地にまわっても豊島園側はフェンスが延々と続く。
閉園して5年、東京都はいつまでこの状態を続けるのだろう。何かを作るわけではないのだから、遊園地のアトラクションの危険なものだけ撤去すれば、立入禁止のフェンスはもっと小さくて済むのではないか?

12:46
とうとう南西の隅まで来てしまった。
フェンスに切れ目はなかった。

石神井城のとき少し触れた豊島氏のことを書いておこう。
室町時代の15世紀、1455年、第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、足利成氏と争い、戦乱は関東一円に拡大。足利成氏は下総古河に移り古河公方と称された。
ほぼ利根川を境に東は古河公方、西は上杉方が支配し、乱は28年も続いた。

上杉方は扇谷上杉家家宰の太田道真・道灌父子に岩槻城、河越城、江戸城を築かせた。江戸城は豊島氏の本拠の石神井城に近く、その後、豊島氏と太田氏が対立するようになっていく。
さらに1476年上杉家有力家臣の長尾景春が関東管領家の執事(家宰)になれなかった不満のため、上杉家に反旗を翻し鉢形城にて挙兵した。豊島氏は景春に加担して上杉家と対立した。
1477年4月13日、上杉方の太田道灌が江戸城を出発し、練馬城に矢を撃ち込むとともに周辺に放火した。これをみた練馬城主の豊島泰明は、石神井城にいる兄の豊島泰経に連絡を取り全軍で出撃。道灌もこれを引き返して迎え撃ったため、両者は江古田原・沼袋原でぶつかった。戦いの結果、豊島方は泰明ほか数十名が討ち死にし、生き残った泰経と兵は石神井城へと敗走した。
しかし4月21日には石神井城も落城、豊島泰経は王子の平塚城を経て足立方面に逃亡、武蔵東部の名族豊島氏は滅んだ。
12:53
坂を下り石神井川をわたり旧豊島園の北西まできた。
ここが「練馬城址公園」の唯一公開部分である。
皮肉にも城ではなかったところが公開されている。
むこうにハリポタスタジオがみえた。
疲れたけれど、現状はどうやっても練馬城址に行けないということだけは分かった。

石神井川に沿って練馬駅まで歩いたほうが近いけれど、地形を見るため来た道を戻った。
13:03
左(北)が豊島園址。
道の先に谷が見える。
このあたりは右(南)から川が石神井川に流れ込み、いくつかの浸食谷があったようだ。
練馬城はそれらを東西の濠とし、北の石神井川と合わせて3方の守りとした。

13:05
練馬城の南側は平たん、現在は大きな住宅が並ぶ。
当時はこちらに大手門が開いていたのだろう。

さらに東に戻ると、再び谷になった。
坂はどんぶり坂という。
13:06
左:区立向山庭園、右:どんぶり坂。
先ほどの谷と合わせ、練馬城の堀としたのだろう。
区立庭園には池もあり、豊島園址に入れない現在、これが唯一練馬城を思わせる景色かもしれない。


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2025年7月2日水曜日

石神井城址は山城のよう。豊島氏と豊島郡

2000城余りある城の一覧表を作ったことは書いた。
「日本100名城」には42城に、「続100名城」には12城に行った。天守現存12城に関しても8城をみてきた。
しかし、2000余城を分母にすればまだ90城くらいしか行っておらず、5%にも満たない。
少しでも率を上げるべく、一番近い石神井城と練馬城を訪ねることにした。

6月22日、西武池袋線大泉学園駅から南の牧野富太郎記念館を見たあと、そのまま歩いて石神井公園に来た。

2025₋06₋22 11:03
公園には着いたけれど、よくあるように入口がなかなか見つからない。
北西の隅から東に芝生広場などを見ながら西縁を南下すると西にも森が出てきた。
芝生広場などは区立、森や池などは都立の石神井公園のようだ。

ようやく入れるとすぐ下に池が見える。
11:05
三宝寺池
この池の南に石神井城の鎮守として豊島氏が大宮の氷川神社から勧請し石神井氷川神社、さらにその南にこの池の名にもなった三宝寺がある。1394年、豊島氏の祈願寺として、石神井城とともに創建されたとされる。

三宝寺には家光が鷹狩りで立ち寄ったことにちなむ御成門、また赤坂・勝海舟邸から練馬兎月園をへて移築された長屋門などもあるらしい。それらは帰宅後に知った。
ぼんやり、ゆっくり何度も散策するなら別だが、パッと行ってパッと帰ってくる私の訪問では、ちゃんと調べていくべきであった。北側の練馬区立石神井松の風文化公園(日銀の運動場跡地) にあるふるさと文化館も練馬の歴史を展示しているというし。
11:07
園内は都心の公園と違い自然が良く残されている。
井の頭公園と同じくらい知名度はあるが、訪問する人はあちらが圧倒的に多いのではないか?井の頭はアクセスがよく若者に人気の吉祥寺と隣接するのに対し、こちらはやはり近隣の人がゆったり訪れている感じがした。
私も井の頭は何度か行ったが、こちらはずっと気になっていたまま今回初めてだった。
11:08
水がこんこんと湧き出ている。
神田川の井の頭池、善福寺川の善福寺池、妙正寺川の妙正寺池のように、石神井川の水源かと思ったが、よく考えると南のほうにすでに石神井川は流れている。この川は小平の小金井カントリー倶楽部敷地内の湧水を水源とし、練馬区、板橋区を流れ北区王子駅をくぐって隅田川に入る。

それにしても、忍野八海とはいかずとも見事な湧き水だと思ったが、調べたら湧いているのではなかった。三宝寺池は井の頭池や善福寺池とならぶ武蔵野台地の3大湧水池として知られ、かつては石神井川の主水源であった。しかし湧水が減少したため、1971年に190mの深井戸が掘られ、いまは地下水をポンプで揚水しているらしい。
11:09
23区内の公園とは思えない。

11:10
城は南の石神井川と北の三宝寺池の間の高台に築かれたはずだから、城址は池の南である。
しかし、池が大きくなかなか南に渡れない。

11:11
ようやく橋があって渡れた。
11:12
石神井城址の記念碑

この城は豊島氏の居城の一つだったが、1477年太田道灌に攻められ落城、廃城となった。

豊島氏というのは、桓武平氏良文流の秩父氏から分かれた。すなわち、三浦、千葉、大庭、梶原、長尾などに並ぶ坂東八平氏のひとつ、秩父氏を祖とする。秩父氏は畠山、河越、豊島、江戸、葛西、稲毛などの諸氏に分かれた。
武家というのはすべて地方の開墾地主が始まりである。諸氏の領地を見ると、斜面が多い秩父から、湿地帯の多かった関東平野に進出していくのがわかる。稲作は雨季と乾季を人工的に作らねばならないから、はじめは給水排水が容易な山裾で発達し、のち大規模土木工事が可能になってから湿地帯を含む平地で新田が開発されていった。

豊島氏は前九年の役(1050)のころ秩父氏から分かれたようである。
北区豊島という武蔵野台地が東に尽きたところが発祥の地とされ、上中里の平塚神社あたりに館があったらしい。

鎌倉時代は幕府の御家人として家は続き、南北朝時代(1349)に石神井郷一帯の支配をはじめ、石神井城を築き、本拠を移したのは14世紀終わりとされる。
室町時代になって古河公方の足利成氏と鎌倉の関東管領上杉家が対立したとき、扇ガ谷上杉家の家宰だった太田道灌が岩槻城、河越城、江戸城を築き、平塚、練馬、石神井を根拠地とする豊島氏と対立するようになる。1476年長尾景春の乱で豊島氏が長尾方についたことから道灌が攻め、1477年、両者は江古田原・沼袋の合戦でぶつかり、豊島氏は滅んだ。

1477年というのは応仁の乱が終わった年で戦国時代の始まりと言われる年である。
東京都というのは太田道灌が大好きで、あちこちに銅像やら山吹やらの歌碑がある。
しかし太田道灌は江戸の発展にまったく貢献しなかった。これが他の都市だったら文句なしに徳川家康か慶喜を顕彰するであろう。
おそらく明治政府が徳川を嫌ったのであろう。家康が立つべき江戸城前の広場に楠木正成というのは明らかに尊王攘夷・維新政府の意向である。

太田道灌に滅ぼされた豊島氏は、しかし太田道灌と違って名を残した。
北区豊島、豊島園、豊島区などである。
(一方道灌はどうか。もちろん大田区は道灌と関係ない。日暮里の道灌山だって怪しい)

かつて豊島はもっと大きな地名だった。
墨田川から西つまり東京23区都心部の大部分は豊島郡だった。湯島や麻布、赤坂、芝も、日本橋のあたりも豊島郡だった。
明治11年の郡区町村法により、豊島郡の南東部は東京の中心として東京15区となり、残った周辺は南北二つの郡となった。明治22年15区が東京市になったとき、南豊島郡は、内藤新宿町、淀橋町、渋谷村、千駄ヶ谷村など2町6村。北豊島郡は巣鴨町、高田町、日暮里村から石神井村、下練馬村など4町15村。
(江戸周辺の郡は川で分けられ短冊のように長い。明治になって郡が南北に分かれるとき足立、葛飾は東京府の部分を南、埼玉部分を北にしたが、豊島郡の分け方はよく分からない。)

ちなみに南豊島郡のほうは明治29年(1896)すぐ西の東多摩郡(いまの中野、杉並)と合併し豊多摩郡となり、消滅した。北豊島郡のほうは昭和7年の東京市拡大で荒川、滝野川、王子、豊島、板橋(練馬含む)の区となるまで存続した。日暮里、中里など千駄木のすぐそばでも戦前の住所を見ると北豊島郡がよく出てくる。

さて、石神井城に戻る。
石神井城は南の石神井川と北の三法寺池(かつては川?)の間の台地に築かれた。南北の水系は東で合流するから東に向かった舌状台地である。普通は3方向が崖となる先端部に築城するが、中央部で東西を空堀でくぎって、築城してある。東は偵察用などの出丸とすればいいだろうし、北の三法寺池の広いところが防御の点で良いと思ったのであろう。

11:15
内郭西側の空堀址。
左(東)側が内郭跡で、フェンスによって立入禁止、保護されている。
東京23区の城址とは思えない景色である。練馬の田舎さというか偉大さというか。

再び三宝寺池に降り、北岸を東に歩くと道路(都道444号、井草通り)にぶつかり、道路を越えても公園は広がっていた。池もあり、こちらは石神井池と言い、水生植物が生い茂る三宝寺池と違って開放的でボートも浮かんでいる。野外ステージもある。(あとで地図を見たら墓地まであった)。

このあたりは、もともとは三宝寺池から石神井川に入る三宝寺川と水田だったが、地元の資産家であった豊田銀右衛門が、大正5年(1916)に川の北と南に「第一豊田園」「第二豊田園」を造成した。折しも西武池袋線の前身・武蔵野鉄道の池袋―飯能間が開通した翌年である。
1934年には川をせき止め石神井池が作られ、公園の体裁が整った。 
その後、第一豊田園は宅地化され、第二豊田園の方は都が土地を取得し、昭和53年(1978)に「記念庭園」と名をあらため、都立石神井公園の一部となった。

石神井池の北は高級住宅地である。
11:30
石神井公園駅に向かう道から石神井池を振り返る。
周りは大きな家が並ぶ。
もう引っ越すことはないのに、つい、ここに住んで朝散歩することなど想像してしまう。

2025年6月27日金曜日

牧野富太郎。大泉学園の旧居跡記念庭園と文化勲章

2023年3月1日、練馬区役所に地図をもらいに行ったとき、ロビーに
「牧野富太郎博士 NHK連続テレビ小説のモデルに」
という垂れ幕があった。

山形余目駅に行ったとき
「維新の魁、清河八郎を大河ドラマに」
という幟があったが、「を」という助詞のあるなしでだいぶ意味が違う。
練馬区役所のはお祝いの垂れ幕で、翌月から半年にわたりNHKの朝ドラ「らんまん」が始まった。

その後、谷中墓地で牧野の墓を見たこともあり、練馬の牧野記念庭園に行ってみようかと思ったが、ドラマ放映中は混んでいるから、と行かなかった。
秋にドラマは終わったが、関心もなくなった。

2年後の今年3月に高知に行ったとき地図で高知県立牧野植物園・牧野富太郎記念館というものを見たけれど行かなかった。

ところが先月、大学時代の研究室にいらした恩師のひとり、秋山敏行先生を田園都市線・鷺沼のお宅にお邪魔した。秋山助教授は三川教授とともに柴田承二門下であったが、教授と年が近かったため三共に転出した。卒研を指導していただいた妻と40年近く前に中野区鷺宮のお宅をお邪魔したころは、三共の醗酵研で東南アジアやアマゾンにしばしば植物採集にいっていらした。定年退職後はアメリカで研究費をとって活動され、その後、今度は高知の牧野植物園に移られた。

レストラン茶寮游旬で豪華なフルコースランチをごちそうになっているときに牧野植物園・記念館の話も少し出て、再び練馬にある牧野の旧居跡のことが頭に浮かんできた。
10:01
6月22日、晴れた日曜、大泉学園に来た。
改札を出るとさっそく牧野のパネルが2枚お出迎え。
これは2年前の朝ドラの影響なのか、それ以前からあるのか不明。
10:02
大泉学園駅南口
開放的で、いかにもJR中央線や西武線沿線の駅という感じがする。
駅舎の古い京浜東北線や東上線、あるいは駅前広場の無い京成や京急、また、山や谷が迫る小田急、田園都市線の駅とは違った雰囲気。

ペデストリアンデッキから地上に降りる階段を探していると親切なご老人男性がスーパーの中を通れば降りられると教えてくれた。
10:04
駅前ビルのスーパー
いつも思うのだが、山手線から西に離れた駅というのはスーパーがおしゃれ。ケーキやパンなどもおいしそうで、団子と煎餅しかない谷根千とだいぶ違う。
驚いたのはエスカレーターで一階に降りると、そこも二階と同じようにきれいな食品が豊富に並んでいた。
家々もゆったり、緑も多いし、暮らしやすいだろうな、と思う。

少し歩いたら着いた。
10:10
練馬区立牧野記念庭園

「記念館」の庭ではなく「記念庭園」である。
ボランチアの人なのか練馬区の職員なのか、係の人がとても多く、管理もしっかりしている。

入ると正面にいきなり大きな松が目についた。
ダイオウマツと山桜(右)
この松は北米原産で葉が長い。歩いてくる途中からも見えたほど樹高がある。
こういうものがあるところが普通の偉人宅跡の記念公園と違う。

右手に管理室と講習室。講習室では植物関係のビデオを流していた。左手のキッチンカーでは「ご長寿コーヒー」の幟。訪問者に老人が多いせいか、あるいは94歳まで生きた牧野にあやかっているのか。

それらを素通りして木々の間を進むと蔵のような建物がある。覆堂になっていて中に古い小屋があった。牧野が実際に使っていた書斎と書庫を再現する展示だった。
10:15
1926年(大正15年)、東京から北豊島郡大泉村に来てから最初の書斎は二階だったが、重さで玄関の障子が曲がり、床に穴が開いた。ついで一階に移ったがだんだん家がガタピシし始め部屋の戸がしまらなくなった。そこで戦後になって庭に小屋を建て書斎と書庫を移した。
10:17
「博士はいま・・・」という緑の行き先板に
「庭へベニガクを見に行きました」と書いてある。
広い庭で、しかも植物で見通しがきかないから植込みの場所まで書くのかな、と思ったが、よく考えれば博士はあちこち移動して最初の場所にいるはずはない。
10:18
書斎を覗けば、植物関係以外にもいろんな本がある。
「出スベキ手紙」の箱の下に「万葉集古義」の全集、古事記、盛京通志(満州の地誌)などもある。

明治44(1911)年に中山太陽堂が発売した「クラブ美身クリーム」の空き箱のふたに植物標本が入れられて雑に置かれている。まるで博士が生きていた時そのままのように見えるが、じつは空っぽだった廃屋に中身を詰めて再現し、2023年に公開したのだというから芸が細かい。

ふたたび庭に出た。
10:21
面積2576平米
10:22
銅像の周りの笹はスエコザサ。

昭和2年(1927)発見した新種の笹に、翌年55歳で病没(子宮がん)する妻・寿衛の名をとってスエコザサ(学名:la ramosa var. suwekoana)と名付けた。寿衛は、牧野の下宿先の神田小川町から本郷に通学する途中にあった和菓子屋の娘で、1887年ころ結婚してから下谷根岸の御隠殿跡の家で暮らし始めた。

朝ドラでは牧野を神木隆之介、寿衛を浜辺美波が演じ、牧野の下宿は東大に近い根津。彼女は根津に今でもありそうな、和菓子屋「白梅堂」の看板娘だった。
(それにしても、かつて朝ドラは将来性ある大型新人を発掘してきてヒロインにしたものだが、このころから浜辺をはじめとして、上白石萌音、趣里、橋本環奈、伊藤紗莉、今田美桜など、すでに売れている人を使うようになった。大河ドラマで主役をベテラン俳優よりも松潤、吉沢亮、横浜流星など若者にも人気のある俳優に変えていったのと時期を同じくする)

ひと通り園内を周って、展示のある記念館に入った。

年表がある。
牧野(1862- 1957)は、文久2年、高知県高岡郡佐川町で生まれた。
のち、高知市内の寺田寅彦(1878 - 1935)旧居の石碑の題字を書いているが、寺田より16歳早く生まれ、22歳遅く死んだ。生前互いに尊敬していたという。

牧野の生家は「岸屋」という酒造業を営む裕福な家で名字帯刀も許されたというから郷士身分だったか。
寺子屋や塾で漢学、洋学を学んだため、新しくできた小学校の授業に嫌気がさし不登校、中退。その頃から植物に興味を持ち、独学で学んだ。
19歳の時、第2回内国勧業博覧会見物と書籍や顕微鏡購入を目的に、番頭の息子ら2人を伴い初めて上京した。

今回、これを書きながら初めて知ったのだが、牧野は最初に上京したころ、いとこで幼馴染、許嫁だった山本猶と祝言をあげた(これが結婚かどうかは不明)。しかし1884年22歳の時、本格的に植物学を学ぶため猶を置いて再び上京。実家の若女将となった猶は岸屋が傾くほど求められるまま金を工面して送ったが、3年後の1887年12月ころ牧野は一目ぼれした壽衛(14歳)と結婚した。
(猶のことは区立記念庭園の年表にあったかどうかは分からない。ああいうところはきれいな話しか残さない)
10:32
牧野式胴乱、竹の標本、ドイツ製顕微鏡

胴乱は、メイクに使う練り白粉(おしろい)・ドーランの当て字であることもあるが、日本古来の小型のかばんの呼び名である。多くは革製で、薬品や弾薬などの携行に用いられた。もちろん牧野は肩から下げて植物標本を入れた。
10:34
牧野の写生図
「明治十四年 我齢二十」
とあるからまだ高知にいたころである。

牧野は天性の画才に恵まれた。
というか、小さいころから大好きだった草花を描き続けたことで得た能力であろう。
標本というのは根から花まで完全なものは少ないから、完全なものを寄せ集めて一本にできる写生図のほうが写真より優れている。

1884年(明治17年)、22歳で上京してから東大の植物学教室の矢田部良吉教授を訪ね、教室に出入りして文献・資料などの使用を許可され研究に没頭した。そして東アジア植物研究の第一人者であったロシアのマキシモヴィッチに標本と図を送ると返事が届いた。おそらく牧野の絵が下手だったら、認められなかったのではないか?

25歳で、『植物学雑誌』を創刊。
その後、精力的に研究、発表したが、1890年、28歳のときに教室の書籍を無断で持ち出したとのことで矢田部教授から植物学教室の出入りを禁じられた。朝ドラでは論文に教授の名を入れなかったことが問題になったように語られていたが、実際、研究に夢中で権威に忖度しない態度が嫌われたのであろう。

1893年、31歳。その矢田部教授が失職し、後任教授となった松村任三教授は牧野の能力を必要とし、呼び戻される形で助手となった。しかし学歴がないこと、旺盛な研究、発表で権威者側から妬まれ疎まれ、松村教授からも圧力をかけられた。
1912年、49歳のとき、やっと講師となる。
10:35
91歳のときの書

文化勲章があった。
となりの勲二等旭日重光章より小さいが、こちらのほうが格上である。
文化勲章は天皇から渡される親授だから大綬章勲一等と同格である。

ちなみに、勲等と勲章名称は1対1対応しており、旭日章の場合なら勲一等なら旭日大綬章、勲三等なら旭日中綬章となる。瑞宝章も同様で、勲一等から五等まで大綬章、重光章、中綬章、小綬章、双光章となる(戦前はもっと下まで勲六等とか勲八等まであった)。ただし菊花章、桐花章は別格で等級はなく、大勲位菊花章頸飾と大勲位菊花大綬章、また桐花大綬章のみである。
(勲等を合わせて呼ぶなら、大綬、重光、中綬、などのサブネームは重複しているだけでなく、ややこしいから省けばいいと思うのだが。と思ったら今は勲何等とかは言わず、旭日中綬章という名前になったようだ。)

我が家のお隣の伊藤学東大名誉教授(土木、故人)は2014年5月、瑞宝中綬章を授与され、お祝いの虎屋のどら焼きを頂いた。伊藤先生の父上・伊藤令二氏は勲3等瑞宝章を授与されているから、親子で同じものを受けられたことになる。
ちなみに旭日は業績、瑞宝は官位に長年勤めたことに重きを置く。だから官僚、裁判官、大学教授、医師は瑞宝章で、政治家、実業家、芸能・文化人は旭日章である。

さて、展示の牧野の文化勲章をよくみると日付が1957年1月18日とある。
あれ、文化の日ではないのか? 
法令ではノーベル賞と違って対象者が死んだ後に文化勲章を追贈することを禁じていない。ただし勲章はその佩用を前提にした栄典であるため、授与は生前の日付(つまり死去日)に遡って行われる。
(ちなみに中綬章以上の勲章をつけるのは礼服以上に限られるというから、なかなか付けた姿を見せる機会がないんですと伊藤先生は仰っていた)

過去に文化勲章を死後追贈されたのは、歌舞伎六代目尾上菊五郎(1949)と牧野富太郎だけである。
牧野は第一回文化功労者(1951)のうち文化勲章を受章していない数少ない者のうちの一人だった。普通ならもっと早く受賞していても良い。生前、辞退していたとも聞かない。やはり中央から物理的にも社会的にも離れていたからだろう。
大学を辞す
1893年の助手就任から講師を経て1939年、77歳で講師を退官するまで46年東大に籍を置いた。当時は学歴が絶対であり、小学校中退ではどんなに業績を上げても教員にはなれず、助手すら異例だった。特に東大は卒業生でないと教員にはなれなかった。

しかし平成になったころからその権威を維持するためにも業績が必要なことに大学も気づいたか、純血主義が揺らいできた。東大医学部も積極的に他大学から有名医学者を引き抜くし、30年くらい前に薬学部では他学部、他大学出身の教授が半数となり「昔は考えられなかったことであり、現在、東大薬学史上最強の布陣となっている」という某教授の文章があった。
もちろん、建築家の安藤忠雄が大阪府立城東工業高校の最終学歴で東大教授になったことは牧野の時代ではありえないことだった。

隣に練馬区名誉区民称号記が額に入っていた。
称号授与は平成20年11月つまり2008年。だから牧野は見ていない。
朝ドラ「らんまん」よりずっと前だが、それにしても死後だいぶたっている。
なぜ2008年だったか。
調べたら平成20年に区は初めて練馬区名誉区民を選定した。元区長の田畑健介氏と岩波三郎氏、狂言師の野村万作氏、漫画家の松本零士氏と牧野富太郎の5人である。牧野を除いた4人については、他にも同じくらい知名度の高い練馬ゆかりの人は多いから、なぜ彼ら4人なのか不明である。
10:40
練馬での生活の写真

牧野は大正15年(1926)、練馬に移り住んだ。
ずっと、単純に植物標本を保管できる広い家、多種類の植物を育てられる土地を求めて郊外に行ったものと思っていたが、川口や松戸のほうが大学に近いのではないかという疑問もあった。

練馬になったのは理由があった。
上京してから本郷、小石川周辺を中心に30回近くも引っ越したとされ、大正12年(1923)渋谷・円山町付近に住んでいたとき関東大震災に遭った。この経験からスエが郊外への移住を提案したという。

(TDLの近く、浦安市弁天に住む友人Aが東日本大震災で地面の液状化を経験し、東京で一番地盤が固いという練馬に第二の家を購入したが、大正時代から地盤の固さは言われていただろう)

折しも、1924年、震災後の郊外住宅地への需要に応えるべく、箱根土地会社(堤康次郎)が大泉村に大規模な学園都市の開発を始めた。碁盤の目状に土地が整備され、村内を通過していた武蔵野鉄道(現:西武池袋線)にこの年、東大泉駅(1933年大泉学園駅に改称)が開業した。当初目指していた高等教育機関の誘致には失敗するものの、学園都市計画は大泉学園町に名を残している。

そして1926年、牧野は北豊島郡大泉村に転居する。
昔の航空写真を見れば駅北側に家が建っているが、南は越中砺波の散村のように家が少ない。

昭和7年(1932)、周辺5郡が東京市に編入され、大泉村も新設の板橋区となった。
戦後の1947年、広大な板橋区から西部が分離し練馬区ができる。
そして1957年、94歳で永眠した。

この日、展示室の隣ではトークイベントがあったようだが、聞かずに外に出た。
10:41
アオギリ
これほど大きな桐の木は見たことがない。
後ろは展示室のある記念館(二代目として平成22年新築開館)

牧野記念庭園をあとにして石神井公園に向かうとすぐ、学校があった。
そもそも大泉学園という駅だが、そういう学校はなく、学園町というわけでもない。
10:45
東京学芸大学大泉小学校
牧野記念館の昔の航空写真ではこの場所に学校らしきものが写っていた。
調べると1938年、この地に東京府大泉師範学校と付属小学校が開校した。この師範学校は国立に移管され、戦後東京学芸大の創立母体の一つとなった。

なおも南に歩くと森に囲まれた広い敷地の施設があった。
10:56
東京都立石神井学園
明治42年設立、児童福祉法にのっとり、保護者のない児童やその他養護を要する児童が生活する施設らしい。合計児童定数130名、職員定数98名に敷地面積31,481平米だから、その広さ緑の多さが分かる。

かつて練馬はその位置(東京の西北)と広大さから東京の満州と言われたそうだが、今でも緑は多い。牧野の時代には遠く及ばないが。


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