2022年8月4日木曜日

京都18 伏見稲荷と乃木神社、桃山陵

3月19日、定年退職を前に京都を旅行した。

京都旅行も最終日、泊った妙心寺花園会館からJR嵯峨野線(山陰本線)で京都駅に出る。
乗った花園駅も、途中の二条、丹波口も懐かしい記憶を呼び覚ます。
京都駅のロッカーに荷物をいれて奈良線乗り場へ。

二、三回のったJR奈良線も覚えているが、必ず通ったすぐ隣の新幹線改札口のほうが懐かしい。

2022‐03‐21 9:09
左の奈良線は嵯峨野線同様、線路がここで行き止まり。

この日の最初は京都駅から2つ目、5分の稲荷駅にある伏見稲荷。

9:26 JR稲荷駅
駅前広場がいきなり境内。

伏見稲荷は2回来たことがある。
最初は1995年7月9日。翌日から始まるIBRO国際神経科学会(京都国際会館)に先立ち、伏見を一人歩いた。このとき京都は7回目だったが、伏見は初めて。
朝東京を発ち、京都駅から近鉄で南下、中書島でおりた。
寺田屋、乃木神社、桃山陵などを見て夕方、稲荷に来た。
初めて見る千本鳥居に圧倒された。

二回目は2006年12月5日、泊ったビジネスホテルがたまたま伏見だったから立ち寄った。

その後、インバウンド観光客にとって千本鳥居の迫力が「侘び寂び」よりも分かりやすいからか、伏見稲荷は京都でもトップクラスの観光地になった。
9:36
写真を見る限り、建てられたのは平成17年から令和4年まで。
寄進者は西日本、北陸が多い。

俗に千本鳥居というが、一山全部で1000本ではなく、麓に近い二列になっているところ(本殿すぐ裏の奥宮から奥社奉拝所までの間)が「千本鳥居」と呼ばれる。実際は800本程度だが、山全体でくぐれる鳥居は3000本ほどもあるらしい。

1995年に来たとき、夕方で人があまり居なかったこともあり、麓の大鳥居のそばにあった神具店を覗き話を伺った。
千本鳥居のあたりの一番小さいもので15万円ほど(材料費のみ)。永遠ではなく、10年ほどで朽ちてくる。新規に建てたくて場所の空くのを待っている人もいるので、更新されるかどうか聞くそうだ。

今調べたら、鳥居を建てるには(初穂料として)一番小さい5号が21万円~、太い10号が160万円~だった。同じ太さで差があるのは山の上ほど高くなるからだという。自分の鳥居を見に行くことを考えると、低いほうが楽だから良いと思うのだが。


千本鳥居は一方通行になっているから、疲れたからと言って戻ることはできない。奥社奉拝所まで行けば下り線に移ることができる。でも、もう少し上がってみよう。
9:40
下り坂になった

9:53 熊鷹社
お土産用の小鳥居が売っていた。大きな1号から6号まであり、12,000円から3,500円。買った人は部屋に神棚でも作って飾るのだろうか。

9:53 狐の石像が並ぶ。
本来は千本鳥居よりこちらが注目されるべきだろう。

9:56
池があるが、きりがないのでこれ以上進まず、ここでおりることにする。

この辺りは太い鳥居が並ぶ
千本鳥居は丸太の下を黒く塗っているだけだが、こちらは根元が別の木のように太くなっている。

10:02

10:06
根元は腐った切り株のように見える。あたかも並木が鳥居になったよう。

10:15
本殿を素通りして外拝殿までおりてきた

10:16
一番下の楼門

ここで家族と分かれることにした。
私はできるだけいろんなところへ行きたいのだが、他の4人はもっとのんびり見たいようだ。そして疲れたからカフェに入ってスイーツでも食べたいという。
私はこれから稲荷から2つ南の駅、桃山にある乃木神社と桃山陵をみたい。

時刻表を調べて桃山駅11:01に待ち合わせすることにした。
10:25発の電車に一人乗る。
10:31桃山着。
あと30分しかないからけっこう忙しい。
しかしこれが私のスタイル。他人と一緒だったらまず無理な観光見物をする。
桃山駅前
1995年は宇治川のほとりからJR奈良線の線路をくぐる細い坂道をのぼり乃木神社に行った。
しかし、今回は駅から最短距離でいく。緩い登坂の一本道。
神社についてから、急いで(時間がないからね)JR線路を見に行くと奈良線の上に出て、27年前にくぐった道が西に見えた。

10:40 
乃木神社に戻る。この神門は記憶にない。

乃木希典が明治天皇の大喪の礼、1912年9月13日に自決したあと、関西の鉄道王と言われた村野山人が全私財を投じ、桃山陵の麓に境内用地を確保、4年の歳月をかけて1916年、9月、創建した。
10:41
このあたり、慰霊碑が多く並ぶ。
乃木将軍景仰碑は、大阪の女性が自宅に建てて顕彰していたものを寄贈され移設。
ほかにも装甲巡洋艦「吾妻」の主錨や旧海軍将兵慰霊碑「蒼海に眠る若人の碑」などが木々の間に立つ。
10:42 記念館
日露戦役での第三軍司令部を移設したもの
日本軍は柳樹房にあった周玉徳・周金夫妻の住居を借り上げ、第三軍司令部とし、乃木大将が約一年間起居した。1年とはいかに旅順攻略が難航したか分かる。

1916年、神社創建時に、村野山人が現地の周夫妻から買い上げ、 家屋を解体し土台石など資材一切を運搬移築し記念館とした。

記念館の中は資料が展示されているが、見る時間がない。

10:42
10:43
記念館の隣は長府乃木邸。生家を模して復元したもの。
6畳、3畳、小さな土間、ここに一家7人、借家住まいだった。
米を搗きながら本を読む希典少年の像がある。

10:44 拝殿
将軍の愛馬だろうか、狛犬の代わりに馬。
拝殿は北向きだが、旅順でもなく明治天皇陵の方角でもない。

10:44 社務所
実は、27年前の乃木神社では、記念館も拝殿も復元生家も見た記憶がない。
全く覚えていない。

1995年7月9日、唯一覚えているのは、境内は誰もおらず、静寂の中に百人一首の声がしたこと。声のほうに歩いていくと、社務所の一部が畳敷きの集会所のようになっていて、開け放れた窓から、子どもたちが百人一首の練習会をしているのが見えた。

10:46
今その和室は戸が閉まっていて、お札、御朱印などの販売所になっていた。

10:48 宝物殿
ここは有料。のぞく時間もない。

乃木神社は明治天皇の伏見桃山御陵とセットになっている。
27年前の道をもう一度歩きたい。
しかし桃山駅を出てから17分、あと13分で駅に戻らねばならない。
もう二度と来ないことを思うと足が向く。
10:54
御陵は思ったより離れていて、時間が足りない。
駅での待ち合わせ時間まであと7分。ここまで来ると引き返しても間に合わない。記憶のある所まで行って反転しようと、半ば駆け足になる

10:57
ようやく御陵到着
ここまで来ると長い石段を一目見たくなる。

10:58

10:59
27年前と同じように、やはりトレーニングで駆け上がっている人がいた。
トレーニングする気もないのに駆け上がる。
が、すぐ息が切れた。27年前だったらどうだっただろう?

11:02 頂上
土饅頭と鳥居
やはり27年前同様、体操をする人。

11:02

11:03
土饅頭の御陵本体
京都に生まれ京都に葬られた最後の天皇である。

伏見桃山の明治天皇陵は、秀吉の居城だった伏見城の本丸跡地にある。
ちなみに、豊臣秀吉は大阪城のイメージが強いが、九州征伐が終わった51歳の時、1586年大阪城から京都聚楽第に住まいを移し、さらに最初の朝鮮出兵(文禄の役)のあと1594年には伏見城に移った。そして、この木幡山伏見城で死去した。

秀吉在住のころは麓に大名屋敷が連なり日本の首都の様相だっただろうが、いまや京都と奈良の間の丘陵地帯、すっかり片田舎になっている。

伏見城は徳川時代の1619年に廃城とされ、跡地には桃が植えられ桃山と呼ばれた。信長秀吉の時代を安土桃山時代というが、秀吉の時代に桃山はなかった。

11:04
この写真をなぜとったか4か月以上たった今は思い出せない。
この広大な敷地の植木の手入れは金がかかるだろうな、とも思ったか?

時計を見ると11:07。
11:01から桃山駅にいるはずの家族にラインした。
「待たせてごめん、今駅に向かっている」と書くと、「私たちも11:18着です」と返事が来た。

11:10
参道を下っていく。
11:18までに駅なら楽勝。しかし砂利道は歩きにくい。

半分駆け足で駅に着き、改札口で4人を出迎えた。
彼らは伏見稲荷でお茶を飲んでいたらしいが、家族と向かい合って何を話すのだろう?

私は乃木神社から桃山陵をまわり、景色もろくに見ず、史跡としての説明書きも読まず、ひたすら歩いた(走った)。しかし27年前を思い出せて満足した。
普通の人は私のペースに絶対ついて来られない。
別行動こそ、お互いハッピーなのである。

2022年8月1日月曜日

京都17 妙心寺花園会館に泊まる

3月19日、定年退職を前に京都を旅行した。
昨年2月、結婚した次女夫婦が親への記念品として手づくり旅行券をくれた。行き先未記入でどこでも連れて行ってくれるという。
そのままになっていたのだが、そのうち動けなくなってしまうかもしれないので使わせてもらうことにした。

妻は飛行機がダメなので海外など遠くは無理。
しかし個人的に一番面白いところは東京だと思っている。次は京都かな。名所の密度が群を抜いている。
2泊3日で見切れないほどの場所は京都しかなかった。

それにこの年になると新しい場所よりも懐かしい場所がいい。京都は2003年から2005年にかけて二泊三日の出張を50回ほどしたし、ほかに何回も学会で来た。全部合わせたら200日近く歩いているかもしれない。東京、埼玉以外でこういう土地は長野と京都しかない。つまり名所見物のほかに記憶の掘り起こしということで京都にした。

3月19日、新幹線で上洛した初日は御所、鴨川、京大を4人であるき、黒谷の金戒光明寺は単独行動。仁和寺で宿泊。
息子がちょうど大阪出張の帰りで、2日目から合流した。
2日目は平安神宮、南禅寺、知恩院、祇園、二寧坂をあるき森さん夫婦と会食。
(別ブログ)

2日目は妙心寺の花園会館に泊まった。

2003年からあちこち泊まっていたころ、妙心寺に興味があった。
しかし20年前はまだインバウンドや旅行ブームの前、ネット情報も少なく、寺に泊まることは一般的ではなかった。花園会館もまだなく、仁和寺や智積院とちがい、妙心寺は泊まれなかった。

そこで次女夫婦に懐かしい仁和寺とともに妙心寺での宿泊をリクエストしたのである。
2022‐03‐21 6:28
宿坊が進化した花園会館は、ほとんどホテル。
今ネットを見たら和室2名利用で一人8,250円(税込)、朝食1430円だった。
エレベーターホールから塔頭46を数える妙心寺の伽藍がよくみえた。
前日泊まった仁和寺の五重塔も近い。

この日は京都3日目の最終日。
伏見など南のほうに行くのでスケジュールがいっぱい。
仁和寺のような朝の勤行(読経)はないので、妙心寺という大寺であっても見物は朝食前の散歩のみ。
6:30
下のロビーで若者3人と待ち合わせ。
妻は2日間の歩きで足が痛くなり、朝寝坊するという。
余り宿泊客はいないようだ。

入口の上人像を除けば、フロント、ロビーは一般ホテルと変わらない。書棚がわずかに仏教色。

6:34
妙心寺花園会館全景
地上6階、81室のほかに教化ホール、伝道室をもつ。

花園会館の西、宗務本所(写真右)のわきからすぐに境内に入っていけるが、やはり正門(南総門)から入ろう。


6:36 南総門
曹洞宗の約15,000寺院が一つの宗派であるのに対し(本山は永平寺と総持寺の2つ)、臨済宗は15の宗派に分かれる。

日本の臨済宗の開祖栄西が1202年開いたのは前日境内を通り抜けた建仁寺である。建仁寺も妙心寺も15ある大本山の一つだが、臨済宗寺院約5,650のうち、約3,350が妙心寺派だから、ここは臨済宗最重要寺院と言ってよい。

開基(創立者)は花園天皇。この地は花園上皇の花園御所(離宮萩原殿)があった。上皇は、1335年法皇となり、ここを禅寺に改めることを発願、1342年、開山(初代住職)として美濃にいた関山慧玄(無相大師)が招かれた。

さきに妙心寺について興味があったと書いたのは、この無相大師というのが、信州中野出身なのである。
関山慧玄(かんざんえげん、1277 - 1361)は、中野の豪族高梨氏の出身。
子どものころ信州中野の駅前には生誕地として彼の名を書いたトタンの角柱看板が立っていたが、妙心寺も無相大師も子供にはわからない。
今や中山晋平のほかに、ジブリ音楽の久石譲、高野辰之(2005年中野が豊田村と合併)、横浜ベイスターズの牧秀悟と、中野出身有名人は増えてきたが、私が子供のころは無相大師しかおらず、しかも市民はこの人が誰だか誰も知らなかった。

境内は広く、東西500メートル、南北620メートル、9万3千坪の中に山内塔頭37か院が並ぶ。境内の外にも石庭で有名な竜安寺を含め境外塔頭が10院ある。
花園大学、花園中学・高校も妙心寺が経営する。

北総門の外に竜安寺が描いてある。


6:39 三門
一般に三門は本堂に向かう最初の大きな門で、山門とも書けば、正面玄関に当たる。
一方、総門は敷地の一番端にある。

前日歩いた南禅寺は三門からずっと離れた市街地にぽつんと総門があった。これはここまでが境内だったのが町人に土地を貸しているうちに離れ離れになってしまったのだろう。
知恩院も三門の下(西)に塔頭や和順会館があるから、かつてはもっと下(西)に総門があったのかもしれない。

前日泊まった仁和寺は山門と総門が一緒になった形で二王門いうが、これも昔は双ヶ岡のほうまで境内だったというから総門は南にあったのかもしれない。

妙心寺は上皇の御所をそのまま境内にしたから、敷地はまとまっていて、総門、三門が最初からこのように配置されたのだろう。

三門の東となりに浴室という場違いな名前の建物があった。


2022-03-21 6:40
妙心寺 浴室(明智風呂)
本能寺の変のあと、光秀が自刃を覚悟し、伯父にあたる密宗和尚のいた妙心寺に礼拝した。
和尚は自刃を諫め、光秀は山崎の合戦で敗れた。その5年後、密宗和尚は光秀菩提を弔うため、この浴室(蒸し風呂)を建てたという。

この朝、一緒にいた若者3人は最高学府を出たにもかかわらず「自刃」が読めなかった。
ジバとかジトウとか、受験勉強のあと読書せずにスマホばかり見ているとこうなる。刃傷沙汰なんてもちろん読めないだろう。そのうち、いろんな言葉が死語になるのではなかろうか?

6:42
石柱は「名勝史跡 妙心寺庭園」と書いてあるが、庭園は近くに見当たらない。
各塔頭の中だろうか?


6:44
三門の後ろ、仏殿と法堂。奥に見えるのは唐門を備えた大方丈。

山内図をみれば、大方丈のよこには小方丈、大庫裏がある。
方丈とは僧たちの住居だが、確かに人の気配が多く、玄関・拝観受付がある。
その前を通って屋根付き渡り廊下をくぐると鐘楼があった。

6:47
鐘楼の前から北総門まで塔頭が延々と続く

昔、この石畳を歩いて北総門から出た記憶がある。
泊まれなくても一度無相大師の妙心寺というものを見たかったのだろう。
雨の朝だった。
しかし、北総門のほうに学会などで行く用事はない。2004年に近くの仁和寺を訪ねたのは夜だったし。とにかく朝ここを歩いた目的が分からない。通り抜けではなく、単純に境内散策が目的で来たのかもしれない。それにしても北総門を出てどこに向かったのかは記憶にない。

6:48
国旗を掲げる塔頭があった。この日は3月21日、春分の日。

6:49
贈正四位象山佐久間先生墓道 という石柱
地元松代はじめ長野県では県歌「信濃の国」でもうたわれるように「ぞうざん」と呼ばれているが、ほんとうは「しょうざん」らしい。

洋学の第一人者で吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬ら多くの思想家に大きな影響を与えたが、自信家であったため、ほら吹きと陰口を言われ、今もあまり評価が高くない。
1864年に慶喜に招かれ上洛、攘夷派に暗殺された。

6:50
塔頭は延々と続く。
デートの散歩だったら別だろうが、各塔頭に知識がないと歩いてもつまらない。
戻ろうと引き返したらすぐ、遅れて出てきた妻に出くわした。


6:54 本殿裏、方丈入り口
拝観受付にもなっている。百万人写経道場の看板。

6:56
僧たちがぞろぞろ集まり、仏殿に入っていく。
速足の僧、板戸をあけている僧、時間まで立ち話をしている僧。
7時から読経でも始まるのかな?

6:58
こちらも7時から朝食なので花園会館に戻る。

7:05
おいしかった。
仁和寺御室会館でも思ったが、こういうところで給仕する女性、案内する支配人のような男性はみな、物腰が丁寧である。男性はもとは僧侶で還俗して食堂で働いていらっしゃるのかと思うほど、言葉が優しく、それが食事の味にも反映されていた。

(続く)