2024年2月27日火曜日

杉並の和田堀廟所と明大は陸軍火薬庫跡地

2月23日、杉並区競技ダンス大会が永福体育館であった。
京王線下高井戸駅から北へ8分、甲州街道(国道20号)、中央高速(首都高4号線)、玉川上水(跡)の3本の筋が重なる場所をすぎ、坂を下って神田川の手前にある。

永福体育館の東は広大な墓地をもつ築地本願寺和田堀廟所、さらに明大和泉キャンパスがある。はて、同じ場所に地名が3つあるのはなぜか。

今、このあたりの住所は永福1丁目で、和田堀はさらに北の善福寺川のあたりの地名だし、和泉は井の頭線の東側の地名である。

昔は(1932年の東京市拡大前までは)一帯を豊多摩郡和田堀町といい、和泉は合併前の村名(のち大字)だった。永福は永福寺村だったが合併して和田堀町大字永福寺、1932年に杉並区永福町となった。
そして永福町は1966年の住居表示で和泉町の一部(井の頭線の西)を編入して杉並区永福となった。ちなみに明大前で交差し京王線の北側にうつった井の頭線の永福町駅は北方の神田川を越えたところにある。

ダンスは午前、ラテン部門が早く敗退し、午後の15時からのスタンダード部門まで時間があった。勝ち残った人の踊りを見る気もせず、暇ですることもなかった。

この日、東京は雨、かつ最高気温4.0度というこの冬一番の寒さだったが、今後二度と来ないような気がしたので、傘をさして外に出た。
2024₋02₋23 13:06
本願寺の子院、真教寺のわき、ゆるやかな坂を上ると甲州街道と玉川上水跡に出る。坂の上に川があるというのは変な感覚だが、上水道というのはひとたび低いところに落ちれば先は上がれないから、ひたすら尾根を通った。このあたりで甲州街道と重なり、新宿淀橋浄水場まで続いていた。
13:09
上水あとの歩道を東に歩きながら北を見下ろせば、築地本願寺和田堀廟所の墓が見える。
谷中あたりの寺院墓地、あるいは都心の都営霊園と比べて、一区画が大きい。
13:11
和田堀廟所の入口に到着
となりは明治大学の武骨な校舎が迫るが、都内では仕方がない。
13:11
甲州街道に面した門徒会館は、トイレや線香販売などの売店、休憩所もそなえた巨大な機能的建物である。あたかも長屋門のようで、寺の総門に当たり、ここをくぐって墓域にはいる。
13:12
極楽橋の向こうが本堂
築地の本願寺とおなじく伊東忠太の設計であることがすぐ分かる。

当廟所は浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属する築地本願寺の分院である。
大正12年(1923)の関東大震災で築地の本願寺は、本殿の西南(いまの場外市場)に広がっていた57の子院とともに焼失した。区画整理が行われ、本殿はインド風の意匠で現地に復興されたが、本殿の西南にあった子院と墓地は移転が決まった。
ちょうど豊多摩郡和田堀町で陸軍省火薬庫跡地が払い下げられることになり、明治大学とともに取得、ここに墓地が移転した。

新しい12,000坪の公園墓地は富士も望まれた。
しかし1945年5月の空襲で築地から移転した木造瓦葺の旧本堂と瑞宝殿など建物はすべて焼失(皮肉にも都心の築地は空襲にあわなかった)、本堂は1953年に再建されたという。
13:16
本堂内部は、お彼岸のちょうど一か月前だが外と同様に誰もいなかった。
線香炉の脇に墓地の案内パンフレットがあった。
樋口一葉の墓があるという。
彼女は明治29年(1896)24歳で死去しているから、築地に葬られたのだろう。
墓地の移転というのは墓石だけでなく骨あるいは還ったとされる土なども運ぶのだろうか?

せっかくなので一葉の墓を探してみる。
メイン通路に案内柱が立っていて「最初の通りを右に折れて6番目」とあった。
13:22
先祖代々之墓 樋口氏
と、確かに書いてあるが、何も案内板がない。
大きな区画が多い和田堀では小さいほうだった。他と違って新しい花が供えられているが、それだけでは一葉の墓という証拠にはならならない。
傘をさしたまま狭い墓石の間を失礼して裏に回ると葬られた人の名が刻んであった。
13:24
智相院釈妙葉信女 明治二十九年十一月廿三日
俗名はなかったが、戒名に「葉」の文字、帰宅後に死亡日を確認して間違いない。
彼女は母と妹がいて戸主であったが、家の墓はもともと築地本願寺であったのだろうか。

当時は築地御坊とでも呼ばれていたか?
そもそも築地というのは、明暦の大火で東日本橋から移転を余儀なくされた浜町御坊のために、沖に地面を築いたことから生まれた地名。埋め立てに貢献した佃島の門徒たちの墓もあるそうだが、見損ねた。

代わりにパンフレットにあった笠置シズ子の墓を訪ねた。
13:30
こちらははっきり「俗名笠置シズ子(亀井静子)」と彫ってある。
昭和六十年三月三十日没行年七十二才
戒名は寂静院釈尼流唱
静、唱という文字が入っている。
なぜか墓石は横を向き、俗名のある側面が通路からよく見えるように立つ。

他にも古賀政男、服部良一、海音寺潮五郎、佐藤栄作、瀬島龍三、藤原銀次郎、中村汀女、九条武子らの墓もあるようだが、あまりにも寒くて探す気は起きなかった。
13:35
帰り際、ひときわ大きな墓があった。辻家墓所とある。
正面の大きな墓石は戒名だけなので、裏に回ると辻嘉六とあった。
大正から昭和の実業家、児玉源太郎、原敬らの知遇を得、立憲政友会系大物政治家と密接な関係をもち、政界のフィクサー、黒幕と言われた人。
目を引いたのは大きな二基の墓石に「家来之墓」とあったこと。
「家来」とは久しぶりに聞く言葉だが、墓石に彫るような文字かな?
13:37
この墓も大きいが、寒くて誰の墓か見る元気もなかった。
向こうに都立永福学園(養護学校)の校舎が見えた。

どの墓も新しいのに広い。中には大名家のような墓所もある。
改めて雨に濡れたパンフレット下半分の墓地・納骨堂の案内をみた。
1メートル x 1メートルで450万円か。
驚くのは室内の仏壇型の納骨墓でも高いのは1000万円もすること。年次冥加は6万円。
冥加というのは、本来、神仏から受ける加護のことである。
それを受けるために必要なお金ということか。
それなら冥加金と書けばいいが、暴力団を連想するか。(これも本来は営業許可を得るため幕府、藩などに払った税金のようなもの)
墓地では管理料というのが適切だろう。

寒かったがここまで来たついでに隣の明治大学も覗いてみた。
13:42
井の頭線の駒場に住んでいた頃、よく明大前で京王線に乗り換えた。
当時、駒場東大前から比べると「明大前」というのはちっとも「前」ではないと思ったものだ。しかし初めて来てみれば、ホームから校舎が見えないだけで、改札を出て甲州街道の歩道橋を渡れば正門だから「明大前」という駅名は正当であることがわかった。

13:44
いまや大学にはなくてはならないコンビニ(ファミリーマート)が向こうに見えた。

創立者3人のレリーフがあった。早稲田、慶応と違いあまり有名な方がたではない。

明治大学もやはり関東大震災で本願寺同様、駿河台の校舎が焼失、もともと狭かったため郊外への移転を決定、この陸軍火薬庫跡地を取得した。
和泉キャンパスは予科の校舎が建てられ、その流れか戦後は各学部1年生のキャンパスとなったが、その後工学部、農学部は駿河台、生田に移転して、いまは文系5学部(法・商・政経・文・経営)教養課程のキャンパスとなっている。
13:44
最高気温4度の日、体は芯まで冷えた。しかし夕方から始まったスタンダード部門(ワルツ、タンゴ、スローフォクストロット)は21組中6位に入賞し、ラテン部門の雪辱を果たした。


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2024年2月20日火曜日

暖冬の朝、夏キャベツの定植と野菜収穫10種類

 記録的に暖かい2月。大根、白菜などトウ立ちする野菜は今から早く取っていかないと3月、廃棄処分になってしまう。

2024₋02₋16
白菜(右)は頑張って食べたり差し上げたりして、ようやく場所が空いてきた。そこでサツマイモのあとに植えてあった長ネギ(食べた後の根っこ)をもってくる。

長ネギのあとには夏キャベツの苗を定植した。
バイト先や教科書では定植する2週間前に施肥して土づくりをしろというが、千駄木では場所が空けばその日に植える。土を休ませる余裕(時間、スペース)などない。
2024₋02₋16
キャベツを40x45センチ間隔で16株を定植。
葉は小さくとも根はポット内に広がっていた。
秋11/15に種を蒔き36株育てていたが、発育の悪い20株は保険としてポットに入れたまま間に埋めておく。
もう保温ビニールではなく、防虫ネットをはる。
梅雨どきの6月、7月に収穫予定。

キャベツ定植時期は、近年 3/8(2023)、 3/30(2022)、 2/21(2021)であった。今年は陽気で早まったかと思ったが、私の場合、よく考えればスペースの空き具合で時期を決めていることに気が付いた。

翌2月17日は法事で長野に帰省した。
かの地も季節外れのように暖かかった。抜群にうまいリンゴ、桃、ブドウを育てる柳沢の叔父は、この陽気を心配していた。
関東にいると、暖冬の心配と言えば、野菜の生育が早まり値崩れすることなどだが、奥信濃では遅霜の心配が大きい。
気温は直線的に上がるものではなく変動しながら春に向かう。当然、暖かい日もあれば寒い日もある。暖冬で果樹などに芽が出てしまえば、寒波が来たときにやられてしまう。
「冬が寒い年は豊作だ、と昔からよく言われたものだ」
と彼は、作物にとって冬は冬らしく寒くないとダメだという。

しかし、二毛作三毛作をめざす千駄木菜園では、冬暖かければ、早く育ち早く耕作スペースが空いて好都合である。

長野へ日帰りした翌朝、妻が二女の家に野菜を持っていくというので、いろいろ収穫した。
2024₋02₋18
この日の収穫
手前左から小松菜、野沢菜、白菜(2.3kg以上、測定不能)、ホウレンソウ、パプリカ(最終)、後列左から春菊、サニーレタス、大根(1.3kg)、夏ミカン(550g)、キャベツ(1.1kg)。以上10種類。(板幅は18センチ)

このほかに長ネギ、分葱、カブ、山芋、茎ブロッコリー、温州ミカンも上げられるが、持ちきれないというので割愛。

収穫時期ではないが、庭を見れば菜花、イチゴ、夏キャベツ、玉レタス、玉ねぎ、そら豆、スナップエンドウを育てている。
もちろん夏はナス、キウリ、トマト、ピーマン、シシトウ、オクラ、サツマイモ、ジャガイモ、落花生、大豆(枝豆)、トウモロコシ、人参、
畝建てしていない庭の端のほうには、ニラ、ミョウガ、セリ、フキ、コゴミ、ウルイ、シソなど野草系のものが何年も同じ場所に自然と生えてくる。

ほとんどのものは千駄木でとれる。
ジャガイモと玉ねぎは年中食べるから足りず弟からもらっていたが、今年から自給しようかな。今回植えたばかりのキャベツをはじめ白菜大根などは自家消費分の3~4倍とれるから、これらの作付けを減らせば十分自給できるだろう。
するといよいよスーパーで買うものはレンコン、キノコ類くらいになる。
あ、肝心の米は自給できそうもないな。3人の子供たちが出て行った部屋で室内栽培もできなくはないが。
それより300個以上取れる柿を干して砂糖代わりにするのが先か。
そうやっても、もちろん肉、魚は自給できない。
かといって昔の信州のような昆虫食をする気はないが・・・。

これから何を目標にして生きていくのか分からなくなってきた。


2024年2月18日日曜日

芽が出た玉ねぎから苗を作る方法

玉ねぎの苗はホームセンターで買える。
買えば簡単、何も問題ない。
しかしホームセンターが遠い人、安上がりにしたい人は種から始めればよい。
ダイソーで2袋110円である。

しかし、種は意外と難しい。
初めて種まきした一昨年は発芽はするが成長する前に冬になってしまい、ほとんどとれなかった。
昨年も苗が小さく、あまりとれなかった。
今年は少しマシだがどうなるか分からない。

そこで苗を買ってくるわけでもなく、種をまくでもない、第3の方法を示す。
玉ねぎそのものを使う。
たぶん誰もやらなかったと思う。
方法は3つある。
1.玉ねぎの捨てるべき根の部分を埋める。
2.料理に使えない屑玉ねぎから苗を作る。
3.保存中に芽が出てしまった古い玉ねぎを使う。

方法1は昨年トライした。
2022-10-31
底の部分を切り捨てるとき、すこし上のほうも付けて四角錐型に切り取る。
これを埋める。
2022‐12‐07
一株からいくつも芽が出た。
長ネギよりも分けつしやすいようだ。

2023₋06₋05
しかし玉ねぎ1つから芽が4つ、5つと出て栄養を奪い合うのか、大きくならない。

方法2
昨シーズン収穫したもののうち妻が使ってくれなかった超小玉、チューリップの球根より小さいものを埋めた。すると芽が出てきた。
2024₋02₋09
このままだと昨季の方法1同様、小さい玉になってしまう。
そこで、掘り出して包丁で分断した。
5玉から10本とれた。
これを植える。
2024₋02₋09
自分で種から作った苗(前2行)よりずっと太いものが短期間でできる。

方法3
法事で長野に帰省し、物置にあった玉ねぎを大量にもらってきた。
2024₋02₋17
芽が出ているのもある
芽が出ると水分を吸い取るのか、外側の鱗片が腐ったようにぶよぶよになってくる。
外側の皮、腐ったような鱗片を取り除く。
芽の伸長が著しいものは腐った?部分も大きく、手で向いただけで苗状のものが芯から現れてくる(右)。
しかし新芽が短いもの(左)は玉ねぎとしてもしっかりしているから、包丁で四方の側面を切り落とす。
四方を切り落としたあと、残った鱗片の破片を手で取り除く。
もちろん取り除いた鱗片は料理に使う。
こうして、まっすぐ伸びた苗状の芽が残る。写真では4本プラス4本で8本ある。
このまま、方法2のように1本1本の苗に分けたくなるが、まだ根が伸びていないため、今切るのは危険。この状態で土に埋める。
2024₋02₋18
これで青い芽が伸びてきたら、おそらく地中でも根が伸びているから、その段階で1本1本に分割する。玉ねぎ4つから20本くらいできる。種まくより出来は少ないが、(妻の場合)捨てる部分なので上々である。

本当は6月にうまく玉ねぎができてから書くべきかと思うが、自信があるので書いた。
問題はただ一つ。
植えるスペースがないことだ。

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2024年2月7日水曜日

雪かきはしなくても良いか

 2月5日、月曜日、関東は午後になってみぞれ、それが雪に変わり、夕方には積もってきた。

2024₋02₋05 16:39
ダイコン、白菜は雪をかぶり、レタスなどの保温ビニールトンネルは重みでたわんでいる。
白黒の世界だがもちろんカラー写真である。 
16:40
育苗中の春キャベツのトンネルはつぶれてしまった。
大雪を心配するのと期待するのと半々の気持ちで寝た。

雪は夜も降り続け、火曜日。
ふつう、大雪の翌日は晴れの日が多いが、曇り。ときおり小雨。寒い。
テレビは各地の通勤通学客の混乱を報じている。
大変だ大変だと言っても能登半島のことを考えたら都会の雪などお祭りのようで問題にならない。
窓の外を見る。

2024₋02₋06 9:19
大根白菜も全く見えない。
前夜は大丈夫だったトンネルもすべてつぶれた。
しかし寒くて直す気はしない。

妻がパートに出かけ、ひとりコタツに首まで入っている。
だらしない退職老人である。
テレビにも飽き、天井を見ていたら外で雪かきの音がする。
うちもやらないとまずいかな、と外に出たが、シャーベット状の雪は大したことなく、すでに多くの人が歩いた跡がある。小雨のせいか、すこしずつ融け始めていて、放っておいても消えるだろう。
そもそも、雪国と違ってめったに降らない都会では(運送業の人などを除いて)一般人は雪を喜んでいる人のほうが多いのではないか? わざわざ早く消すことはないではないか。

歩くには支障がない。
しかしこのままだと明日朝凍るかもしれない。片付ければ早く乾くというのは分かる。

テレビでは転ばないように歩幅を狭く、両手を出して、と繰り返している。
しかしテレビは大げさ、余計なお世話だ。転んだら転んだで本人の問題、何年かに一遍のことだ、いいではないか。

かといって自分の家だけ雪片付けしないというのも、小心者だから気が引ける。
11:02
そっと家の周りを見ると、自分の門の前を少しだけ片付けた家はあるが、道路はそのままだった。夏ミカンの盗難防止ネットが雪の重みで落ちていたので、それだけ直して家に入った。放っておいてもじきに融けるだろう。

水曜日。
数日ぶりの太陽が出た。
菜園は一転、明るくなり暖かくなったが、泥になるから作業はしたくない。
しかし妻がホウレンソウが欲しいというので庭に出た。
雪はだいぶ溶けている。
トンネルの上の雪をどかしビニールをはがす。

2024₋02₋07 10:59
ホウレンソウと春菊
天然色の世界が戻ってきた。
今年は保温ビニールのせいか、育ちが良い。
10:59
取り残したパプリカは雪をかぶったが、まだ生きている。凍傷にもなっていない。
いつになったら枯れるのか?春になったらどうなるのだろう? 実験で置いておこうかな。

11:05
今年初めて作った秋キャベツ。
ビニールトンネルが功を奏し食べごろ。しかし食べきれない。
11:19
白菜と大根は雪にかぶっていたので、そっと雪をどかした。
放っておいても今日中には溶けると思うが、植物も雪は冷たいだろう、と葉っぱを雪の下から出してあげた。
「放っておいても今日中には溶けるが・・・」
これは前日私がコタツの中で思ったことと同じ。放っておいても雪はなくなるから雪片付けはせず、自分の好きな野菜はほんの短時間でも雪をどかしてあげる。要するに昨日は、やりたくないことの、やらない理由を一生懸命考えていたと言われても仕方がない。
12:38 本日の収穫
ホウレンソウと茎ブロッコリー、二人で食べるだけ。
退職してから付き合いが減って、収穫した作物をもらってくれる人がいない。おそらくかなりの野菜が植わったまま処分することになろう。
13:27
スナップエンドウのネット
トンネルは玉ねぎ。手前はそら豆
奥のネットはカブ

あちこちビニールトンネルを直していて、エンドウの弦が伸びているのに気付いた。
ネットを張った。

空腹は感じなかったがトイレに行きたくなったので家に入ると、13時半を過ぎていた。3時間ほど作業したことになる。昼食を食べながらパソコンをつけた。
今季カブはまだまだ収穫していないが、塩漬けになっているカブがある。JCRファーマは機関にもてあそばれ今日も下落、高値の3分の1になってしまった。


2024年1月30日火曜日

信州中野、岩水神社、新生病院の元日

能登半島地震で始まった、長いような短いような1月が終わろうとしている。

2024年1月1日朝、つまり元旦にひとり帰省した。

大宮発7:49のあさま自由席は1車両に数人しか乗っておらずガラガラだった。
しかし長野電鉄、9:53発の特急スノーモンキーは驚くほど混んでいて、ほとんど外国人観光客だった。

10:25信州中野駅着。
彼らは終点湯田中まで行くから降りる人は2~3人だったか数人だったか。沿線で一番大きな駅の一つがこれである。いかに地元の人が電車に乗らないか分かる。
駅から家まで歩いて550メートル、8分だが、早く着いてもコタツにあたっているだけだから遠回りしてみた。何十年ぶりかの道だった。

1989年、リンゴ畑だった駅西側の区画整理と橋上駅化(西口開設)が完成した。私は1975年に上京したから、住んでいた頃は東口からぐるっと、駅の南北に2つある、どちらかの踏切まで遠回りしなければならなかった。
北の踏切は、まだ記憶に残らない頃、よく電車を見たいとせがんで連れて行ってもらったらしい。
そこへ行ってみようと歩き始めたが、途中で引き返す。
10:33
北の踏切から家に向かう道。
左は線路、右は東和医科器械製作所(現・東和)

東和の現会長、尾島和夫さんは1997年から2003年にかけて存在した「ふるさと中野テクノ会」の幹事で、私が会議や講演などに呼ばれたときなど、いつも二次会、三次会まで接待してくださった。

左のフェンスは、もっと昔、タールを塗った枕木に、鉄条網が張ってあった。
1960年代だろうか、母の実家、柳沢に行く途中、彼女は支度に手間取りいつも電車がぎりぎりで、踏切まで回る時間がなく、その鉄条網の破れから入った。そして線路の上を私の手を引いて走り、ホームに上がってから駅舎に行って切符を買っていた。
10:33
道がカーブするところの空き地。
昔から鉄条網に囲まれた長野電鉄の空き地だった気がする。
10:34
左の道は線路に沿って南へ、右は岩水神社の裏にいく。
この三つ角の向かいは黒岩君の家。

彼は山の内町から転校してきた。岩船部落は通学区の東端、田舎と都市部との境であるから転校生はたいてい都市部の南宮中学に行く。しかし彼の家は、確か父上が農協の理事だったからか、珍しく農家ばかりの中野平中学に来た。妹の秀子さんは私の妹の数少ない友人の一人だった。
彼の家は入口が50年前と場所が変わっていて、空き家になっていた。
10:34
駅の裏の道
この道は私が小学校のころ、60年代終わり、リンゴ畑に住宅が建ったころ開かれた。

その住宅ができる前は、駅(線路)のすぐ裏までリンゴ畑であり、道らしい道はなかった。駅側の斜面にはネビロ(野蒜の転訛)が生えていて、大きなクルミの木が何本かあった。
そのネビロと草の土手にはコカ・コーラの空き瓶などが捨ててあり、酒屋に持っていくと10円で買ってくれた。その草むらには、ときに成人雑誌も捨ててあった。畑と田んぼと近所の家しか知らない子供にとって、駅の裏の畑は、なにか未知の世界に通じるものだった。

駅側の斜面に登り口ができている。
10:35
登ってみると駅の構内で、中野駅から分岐する木島線の線路跡が枯草に埋まっていた。木島線は母の実家に行く路線だったが2002年に廃止された。
10:36
進むと右に大堀君の家があった。
小学校6年のとき、リンゴ畑が住宅地になって、そこに引っ越してきた。
彼は同じ岩船でハトをたくさん飼っていたので、2匹だけ飼っていた私はよく遊びに行った。すいぶん大人びていてベトナム戦争の話などしていたが、中学になる時、中野平中学ではなく南宮中学に進学して、それっきり。
10:38
ここはまだ一面リンゴ畑だったころ、フォスター電機という会社の工場があった。
裏の畑のほうに融けたプラスチックの塊とか大きなスポンジ、発泡スチロール、ときには磁石のついたスピーカーなどが捨ててあり、農産物しか知らない小学生には魅力的な場所だった。いまフォスター電機は影も形もなく、新しい道路に一般住宅が建っていた。

お宮のほうに行くと町田憲一君ちの工場があったところが、いわき総業とアパートになっていた。

神社の横に公園ができていた。
10:40
岩船北公園。初めて存在を知った。

10:41
岩水神社本殿
初詣での人がいないせいか、あるいは肌寒い天気のせいか、元旦の晴れやかさを感じない。
それとも自分の気持ちのせいだろうか?

小学校高学年の3年間、岩船の部落を将来背負って立つと思われた3人の長男は村祭りで獅子舞を踊った。年に一度、私はその年の産子惣代(うじこそうだい)の家で剣をもって舞い、次の山浦正隆ちゃんは区長さんの家に場所を移し御幣をもって踊り、最後はみんなでお宮に来て、町田憲一君がこの本殿で鈴を両手にもって獅子を舞った。
3年目の小学校6年生のとき

普段から境内にはよく遊びに来た。
何人かいるときは三角ベースなどもしたが、そうでないときは何をしていたか思い出せない。蟻地獄の穴を掘って虫を探したり、早朝羽化する直前のセミをとりにきたときもある。
社地の両側は藪と大きな穴になっていて、窪地の茂みに入っていくとよくボールが落ちていた。あるとき私は草に絡まりカビの生えたキャッチャーミットを拾った。
10:42
境内から参道をみる。
昔は洞に乞食が住み着いたほどの杉の大木があったそうで、私の子供のころも切り株が残っていたが、いまや切り株どころか周りの木々も、道路(右)と宅地になってしまった。両側の林と窪地は私有地だったのか、区(岩船)が売ってしまったのか、知らない。
10:44
岩水神社の鳥居と石柱は区画整理で参道が半分に縮まったとき、本殿に近いこの場所に移された。鳥居は狛犬とともにその時新調されたようだ。
60年ほど前、腰ベルトをつけピストルをもって石柱の台に上がる。

昔を思い出すと、ここで遊んでいた頃、大人だった人はほとんど亡くなってしまった。

ーーーー

こんなつまらない文章をここまで読む人は、公開しているとはいえ、誰もいないと思うので、さらに私的なことを書く。記録として。

元旦、急に帰省したのは母の見舞だった。

弟夫婦がずっと在宅介護してくれていた。だいぶ前からほぼ寝たきり。
床ずれ、膀胱炎を繰り返していたが、1年前の2023年2月に3回目の脳梗塞を起こしてから見当識が怪しくなり、5月に帰省したときは誰が誰だかわからなくなっていた。
11月に急性腎盂腎炎で発熱、北信病院に入院した。熱はなかなか下がらず、自宅に戻せば数週間しか持たないといわれる。

コロナ以降の規定なのか、病院での面会は同居家族だけという。弟嫁がラインで動画を送ってくれた。呼びかければ反応はするという程度。

12月2日、我々が行くのに合わせ病院が母を一時帰宅させてくれた。寝たきりのまま介護タクシーに乗せられてきた。意識はあるのかどうか不明。

もう91歳で、ほとんど眠っているので胃ろう、人工呼吸はせず、自然に、安らかに過ごしてもらう、と我々の間で決めた。しかし北信病院では看取りはできないといわれ、主治医から転院を勧められた。治療はしない療養型病床のある、飯山の日赤、上今井の佐藤病院、小布施の新生病院が候補という。

12月8日、キリスト教系、看護師の優しいと言われる新生病院に転院。
ここで点滴が静脈から皮下経由になった。血管に針が入らないから皮下注射になったというが、そんな急に入らなくなるだろうか? 看護師の腕にそれほど差があるだろうか? 今までのところが刺せなくなったら場所を変えて刺すだろう。
血管でなく皮下点滴だとそれほど輸液は入らないから体力はもたない。実際、弟たちは医師から1か月くらいと言われたらしい。しかし私は何も言わず。
ここは北信病院よりもっと面会が厳しい。同時に2人まで、10分間。
4人で来たら特別に2人ずつ5分交代で面会できる。基本は月~金、土日は要相談という。
次回の予約目安は1週間程度というが、1日4組限定ではそれも難しいのではないか?
コロナのせいだろうか? 都会ではもう(少なくとも病院外では)コロナによる制限はないのに。

実際に12月15日に弟夫婦が面会すると次は23日という。
私はその日バイト先の畑で正月用しめ縄作りイベントを仕切らねばならないため行かれず、その次の面会に行くことにした。
しかし次の面会は年末は無理で10日後が目安となり、年が明けた1月6日に私が行くことになった。しかし皮下点滴になって1か月近く、医師の言われた「限界」に近い。もつのだろうか?

弟たちが1月6日では危ないということで電話してくれ、1月3日に面会予約が取れる。
しかし12月31日、弟の嫁さんから電話。危ないからと病院に呼ばれ、急遽翌日1月1日、14:30に面会してもよいことになった。

そこで元旦の朝、帰省したのである。
面会の人数に制限があるため私は一人で来たのだが、浦和の妹は二人の息子を連れて到着した。
元旦で飲食店は開いていないので、寿司と唐揚げのテイクアウトで昼食。
時間を見て帰り支度をした我々4人を弟が小布施の新生病院に連れて行ってくれた。
14:40
新生病院
1932年、カナダ聖公会から派遣されたスタート博士により開設された結核療養所を前身とする。正面には十字架が掲げられている。

私がここを知ったのは20年くらい前か。モーグルスキーの森徹を扱ったテレビ番組である。野沢温泉村のスキー選手一家に育ち、飯山北高を出た後カナダ留学、1994年に国内大会で優勝、95年にナショナルチーム入り、96年ノースアメリカンカップ・ディアバレー大会で優勝。しかし活躍が期待された地元開催の長野オリンピックの半年前の97年9月、スキルス性胃がんが発覚。手術を受けたため長野五輪は断念、ソルトレイクを目指したが病状の進行は速かった。五輪直後の98年春には治療断念、新生病院のホスピスに入った。発覚して10か月、この年7月に死去。25歳。テレビでは小布施の花畑の中を、家族に車いすで押される姿が映っていた。
14:41
かつては至る所にあった体温センサーを久しぶりに見た。
病院だからか。
元日のせいか、受付にもどこにも人の姿がない。

廊下に中島千波の絵が何枚も飾ってあることに高校時代美術部だった妹が気付いた。
彼は父親(中島清之)の疎開先であった小布施で生まれたらしい、と弟が教えてくれた。
14:45
3階に上がると職員詰め所にようやく人が見えた。
面会者名簿など記入して、係の人が準備するのを待つ。係の人はとても丁寧で、これがキリスト教の病院のせいなのか、今の病院では普通なのか、分からない。

今まで点滴は一日500ccだったが、もう入らない(体が受け入れない)ため、入れると浮腫になるため200ccに減らしたと説明された。

母は2000年1月、68歳のとき軽い脳梗塞になった。
救急車を呼ばず父が車で北信病院まで連れて行ったら待合室で待っているうちに麻痺が治ってしまったという。幸い後遺症は全くなく、スタチンと抗血小板薬を欠かさず飲んでいたが、まったく普通の健康な生活に戻った。
2010年2月に父が亡くなっても一人で庭の草取りや、絵を描いていた。
しかしいつからか脚が痛くて歩くのがおっくうになり、すべり症と診断された。絵などもだんだん描かなくなった。同居する弟家族とは台所、居間が別だったから、ひとりで帰省して母のコタツに入っていれば「何食べたい?」と精一杯ごちそうしてくれたのだが、いつしかテレビを見るだけになり食事は弟夫婦のほうに行くようになった。

2017年11月、85歳の時、脳梗塞が再発。突然、自分からは話さなくなった。言語中枢がやられたのか、「薬」とか「お薬手帳」という単語と実物を一致させられなくなり、私が「薬はどれ?」と聞いても現物を指せなくなった。たまたま私が帰省しているときで、こちらが驚いていろいろテストする様子に本人も戸惑っていた。事の重大さに本人もショックだったかもしれない。

自分で話すことはなくなり、話しかけると、そのまま言われたことを繰り返したり、「そうだなぁ」と言ったりしてごまかすようになった。文字も、自分で記入していた毎日の血圧の数字すらも書けなくなった。
すべり症で下半身がしびれていたのか、脳梗塞で排泄神経がダメになったのか、あるいは尿意を感じても歩けなくてトイレが間に合わないのか、おむつをするようになった。

世話をする弟たちも大変だったが、本人も苦しい数年間だっただろう。
そして1年前の2023年2月に3回目の脳梗塞。右半身がマヒ。
もう私のことは分からなくなった。

・・・・
さて、元日の新生病院。
ストップウォッチ型タイマーを残り10分に設定されて渡され、それを首に下げて病室に案内される。
15:06
小さくなった本人は目をつぶっていた。
眠っているのか起きているのか、そういう区別はあるのかどうか。
眉間にしわが寄っていた。
苦しいのだろうか。まだ意識があるとしたら悲しい。

点滴バッグは空っぽだった。
あとで聞けば、朝200cc入れたらしい。
もう500は入らないというが、入るのではないか?
点滴を皮下にしたのも、点滴量を減らしたのも、病院の方針だったのではないか?
1か月間かけて家族に死を受け入れさせ、患者を神のもとに送る措置だったのではないか?
誰にでも訪れる死である。
もう十分生きた人である。
こういう状態で1分1秒でも長く、という気持ちは私にない。
点滴に異論を唱える心は、もちろん起きなかった。

・・・
3歳のころ
6、7歳ころか。母、弟と祖母

小学校のころ、夏休み、冬休みの宿題の絵日記は、母がみんな先に絵をかいてしまい、私はそれに合わせて文を書くだけだった。

今、私は67歳だが、自分の子供が生まれた時のことはよく覚えている。おそらく90歳になっても可愛かった子どもの姿は忘れないだろう。女親は余計そうだろう。

彼女は私のことをずっとかわいがってくれた。
しかし私はあまり親孝行しなかった。とくに彼女が病気になってからは帰省しても弟のほうにばかりいて、十分相手をしてあげなかった。

そんなことを考えながら小布施から電車に乗った。
権堂駅まで来たとき大きな地震があった。何とか長野駅には着いたが、寒い中3時間以上、駅構内で行列に並び続けるなど、その日は帰宅するのに難儀した。

能登半島地震のニュースが連日放送されている、1月4日、母は亡くなった。


2024年1月28日日曜日

ミカンを食べるムクドリ、ツグミ、ヒヨドリ

ミカンがどんどん鳥に食われるので、木に残っているもの全て収穫した。

前日までに156個とっている。
(そのうち鳥に食われていたもの、ハチに刺され?腐りかけていたものが23個。)
2024-01-23
この日はミカン56個。鳥に食われた5個

つまり、2023年は1本の木で212個生ったということ。
363個とった柿ほどではないが、なかなかの数だ。

教科書的には葉っぱ20枚に1個くらい生らすように摘果しないといけないのだが、そのままにした。
その結果、大きさはバラバラだが数はふえた。
光合成の糖分が分散されるならば味が心配だったが、例年と同じく、市販品と比べても甘み、酸味とも十分よかった。
2020年に初めて5個生って、2021年64個、2022年は77個だから、飛躍的な豊作である。
収穫の終わった温州ミカン
今年は柿がなくなったころから鳥害が著しく、1月になって遅ればせながら
1.5メートルx5.0メートルの防虫ネットを2枚縫い合わせ、上からかぶせた。
しかし縫い方が雑であちこち隙間すなわち穴があった。
ある日、鳥が入ってバタバタしていた。瞬間的に捕まえようかとかいろいろ考えたが、とにかく急いで写真を撮ろうと思った。家に駆け込みスマホを手に戻ってきたがまだ暴れている。しかし枝葉の陰になったりして、なかなかいい写真が取れない。そうこうしているうちに穴を見つけて飛んで行ってしまった。
2024-01-23
この日はパプリカもとった。
ミカンや柿と似たような色をしているが、鳥は食わない。
もし嘴で突いてもいないなら鳥は賢い。

ミカンを食っていた鳥は何だろう?
スズメより大きい3種類が考えられる。
画像はすべてwikipediaから
上からムクドリ、ヒヨドリ、ツグミ
いずれもスズメ目に属するが、その下位分類である科では独立し、3つの科の和名はその名を冠している。

外見で区別するとき、分かりやすいのは一番上のムクドリ。嘴と脚が黄色。
ヒヨドリは頭髪がトサカのように立っていて、ほほに褐色部分がある。
ツグミは目の上の眉毛の部分が白い。

ムクドリは地方によってはモズとかツグミとか別種の鳥の名で呼んでいるところもある。北信濃ではリンゴなどを食べる、こういう鳥を総称して「モクドリに食われる」と言っていた。
雑食性で、植物の種子やミカンなど果物、地面に降りて歩いて虫などを探すこともある。
群れをつくり夜は一か所に集まってねぐらを形成する。東上線の朝霞などのロータリーの樹木に集まってうるさく鳴いていたのを思い出す。

ヒヨドリは秋には国内暖地に移動する「渡り」が観られる。糖分を好むから花の蜜や果実を食べる。

ツグミはシベリアで夏繁殖し、冬になると日本にやってくる。夏にはいなくなり鳴き声がきこえなくなるから口をつぐむと思われ和名になったとされる。雑食で、昆虫、果実などを食べる。

我が家に来たのはどれか、写真をとれなかったから記憶で判断するしかないのだが、なんとなくヒヨドリのような気がする。

来年度はちゃんと防虫ネットを縫い合わせ、食われないようにしたい。
しかしその半面、あの鳥が何であったかはっきりさせるため、防虫ネットに穴を残し、ミカンを犠牲に捕まえたい気持ちもある。

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