2019年9月21日土曜日

柳田国男の杏林舎はどうなったか?

田辺製薬図書室の閉鎖にともない、もらってきた廃棄古雑誌をみていて気が付いた。
いまもある「生体の科学」(医学書院)昭和26年12月
奥付をみると
日本医学雑誌株式会社
株式会社 学術書院
合同 (株)医学書院

本社 文京区本郷6丁目20番
分室 文京区駒込林町172番
とある

この林町172番をみてハッとした。
柳田国男が遠野物語を自費出版した杏林舎のあった場所ではないか。
1910年6月、350部がここで印刷された(印刷者今井甚太郎)
200部は柳田が買い取り知人らに寄贈、島崎藤村や田山花袋、泉鏡花が書評を書いた。芥川龍之介や南方熊楠は購入、半年ほどで印刷費用をほぼ回収できた。

柳田は播州の人だが次兄井上通泰の医院(下谷、御徒町)に下宿し、開成中学に編入、兄の紹介で早くから観潮楼に出入りし、郁文館に転校、一高、東大であったから、千駄木のこのあたりは馴染みある土地であっただろう。
御林稲荷のうら、林町173番地 2018年12月
杏林舎は172番地、撮影に立った場所の背中あたりである。

団子坂下には講談社があって、坂上には鴎外はじめ文化人も多く、林町172番のすぐ近くでは平塚雷鳥らの「青鞜」、石井柏亭らの「方寸」が創刊された。

今も続く『医学中央雑誌』は漱石「猫」の甘木先生のモデル尼子四郎が大観音通りを挟んだ千駄木50番で創刊した。昭和5年から印刷は杏林舎である。
1930年1月 

鴎外、漱石 千駄木57
鴎外観潮楼 千駄木21
尼子四郎 千駄木50のち 千駄木54
杏林舎 千駄木林町172
「青鞜」千駄木林町8番(番号は離れているが近い)物集髙見邸
「方寸」千駄木林町9番  

しかし戦時中、空襲に遭う。
1945年、付近の空襲
・1/27 13時~B29  76機、麹町、日本橋、荒川他 死者540、罹災4296
・1/28  22時~B29  1機、千駄木、谷中、本郷、浅草 死者15 罹災1916
  観潮楼、日本医大、尼子邸 焼失 根津神社被災
・3/4 194機 死者650 谷根千だけで200人
・3/10 325機 死者10万人
・4/13 高村光太郎アトリエ、千駄木小、金の星H、子規庵、田端文士村、   
・5/23-25 団子坂・光源寺

杏林舎も被災、戦後どうなったか?
医学書院の分室が杏林舎の場所と分かり、ひょっとしたら名前を変えて医学書院に吸収合併されたのではないか、と思った。

しかし医学書院の公式サイトを見ると、
1944年日本医学雑誌株式会社創立(8月18日)
1947年書籍部門として株式会社学術書院創立(10月16日)
販売会社としてメディカル・サービス・ステーションを分離独立(12月1日)
1950年上記3社が合併し株式会社医学書院と改称
とあった。
場所と施設だけ継承したのだろうか。

なお、現在、北区西ヶ原で医学関係の印刷をしている杏林舎というところがある。
1946年創立、杏林というのはよくある言葉だから関係ないかもしれないが。


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2018-12-20 林町3、町会と満足稲荷

2019年9月20日金曜日

コガネムシの幼虫が増える理由

1990年ころ、伊奈町で作って以来の苺。
ダメだった。
実が小さく、何者かに食われた。
もともと試験的に鉢植え。
2019-09-13
水やりが面倒だったから鉢ごと地面に埋めたのだが、その時点でやる気が見えない。
2019-09-18
シソ、ニラも花をつけている。
草の花は秋の季語

2019-09-18
もうナスは大きくならず腐りかけ?てるものもある。

2019-09-18 ひたし豆
莢は多く付くが実がふくらまず、栽培期間も長いため来年は作らない。
2019-09-20
虫害か葉が枯れて傷んでいる。
2019-09-13
テントウムシのような黒い虫がいる。カメムシの幼虫?
マラソン噴霧したが、効いたかどうか不明。

オクラの一本が萎れて傾いていた。
2019-09-16
多分コガネムシだろうとほってみる。
いたいた。
小さいのがどんどん出てきて9匹。
野生のスミレばかりを食べるツマグロヒョウモンの幼虫も一緒に撮影。

卵を産んだ成虫も相当いたはずだ。
2016-07-24 
3年前マラソン噴霧、一晩でネット内にこれだけの成虫が死んでいた。
おそらく今年もこのくらいの密度でいるのだろう。

なぜコガネムシがこんなに多いか?
落ち葉、枯れ草を埋めるからである。
2019-09-20
落ち葉だけでなく、ナスやトマト、豆類の茎をゴミで出してしまうと庭の栄養分(ミネラル)がどんどん失われる。
大して肥料を入れていないし、もし入れても市販肥料にない微量成分はどんどん失われてしまうだろう。植物が吸い上げたものは厳密には同じ場所に返すべきだ(連作障害を考えると別の場所がいいのかな)。

要するに私がケチであるから虫の餌になるようなものまで捨てず、コガネムシが増えるのである。
植物体有機物を庭からどんどん捨てていけば、ダンゴムシ、白アリなども増えないのだが、自分の性格はどうしようもない。


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20170909 命の大切さと毛虫


千駄木菜園 総目次

2019年9月18日水曜日

ハクサイ、大根は余計にまいて間引く?

9月は白菜、大根など冬野菜をまく時期。
大根は2014年秋から2018年まで5回
白菜は2016年秋から2018年まで3回、試みた。

しかし出来は今一つ。
大根(宮重総太り)は8月中旬~10月中旬にまいて11月上旬~2月下旬収穫
白菜(60日タイプ)は8月中旬~9月下旬にまいて10月中旬~1月下旬収穫
と袋に書いてあるが

大根は1月下旬にならないと大根らしくならないし、
白菜は球にならず、葉が広がったまま春になってしまう。
 
2018-12-15

これはひとえに成長が悪いせいだろう。

成長速度は一定ではなく、葉っぱの量に比例するだろう。
しかし気温はどんどん下がっていく。
遅れれば遅れるほど成長速度が遅くなる。
たとえば三浦ダイコンであれば、
最適な8月に播けば90日で収穫。
5日遅れて播けば、収穫まで105日。
15日遅れて播けば、150日。

夏野菜が終わった8月末から9月初めにまくのは決して遅くない。
そこで原因は時期でなく、
1.肥料を上げないこと
2.日当たりが悪いこと
と思われる。

肥料投与以外に策はないと半分諦めていたが、
種の袋をぼんやり見ていたら

白菜:
連続ポットに3~4粒まき、本葉2枚のとき一本立ち、
4~5枚のとき2株づつ地植え。
6~7枚のとき一本立ち。そのあと追肥

大根:
4~5粒づつまき、本葉1~2枚のとき3本にし、
本葉5~6枚のとき1本立ち。そのあと追肥、土寄せ。

今までも読んだことがあったが従わなかった。
発芽率が9割くらいだから、間引くのはもったいない。
1粒ずつまいていた。

しかし、細胞培養などは多数播いたほうが発育が良い。
成長因子を分泌し隣の細胞の助けているのかもしれない。

ひょっとしたら大根、白菜も、単独で播くより複数播いたほうがよく育つのだろうか?

そこで実験した。
白菜を3粒、1粒、3粒、1粒、、、とまいて比較する。
2019-09-12
3131 3 13 11111
白菜は3粒播いても1粒播いても差はない。
2019-09-15
大根も3粒1粒3粒、、、とまいたのだが虫害で何回もまき直し正確な比較にならなかった。
しかしこれも差はなさそう。

つまり余計にまいて間引くというのは、発育を促しているわけではなく、ただ優良苗を選ぶためだけのようだ。すなわち、3粒の中から1本立ちさせれば、倍率3倍で育ちのいいものを選ぶことができる。

しかし、種による苗の差はそれほどなく、1粒ずつ播いてもあまり変わらないようだ。

今の悩みは根が細くなって萎れる苗である。
病気だろうか?


2019年9月17日火曜日

宗林寺、岡倉天心記念公園、真島坂

9月16日午前中、田町で買い物。
帰路、ランチを団子坂下でしようと、日暮里駅で降りた。
七面坂を下りて六阿弥陀道を南へ。
1978~1981まで毎週通った道である。
途中、右(沢側)に宗林寺がある。
新しい石柱は「ほたる澤 はぎ寺」と書いてあるのだろうか?
右の石柱、ひげのように字の先を伸ばす南無妙法蓮華経、日蓮宗である。

江戸時代から一帯は新堀村蛍沢と言われていたが、萩は昔からあっただろうか?
40年前は寺に興味なく、見向きもせず歩いていたから記憶にない。

マメ科らしい葉。蕾の一部はほんのりピンクが見える。

なかなか入りづらかったが最近は観光客が入っていくので、今回初めて入る。
そうだ、ここは鐘楼がある。
我が家で聞こえる除夜の音はここか、吉祥寺か。
ご府内寺社備考によれば境内拝領地3750坪。200坪程度の塔頭もいくつかあった。
北はかき氷のひみつ堂から、南はもとアパートいまカフェの萩荘まで敷地は広がっていた。周辺は切り売りしたのか、地主として貸しているのかは知らない。

その六阿弥陀道ぞい、Hagisoの向かいに岡倉天心記念館がある。
天心旧居跡、日本美術院発祥の地である。
天心については以前書いたので略。
40年前、日暮里駅からアパートに帰る途中、トイレを使ったのかベンチかブランコで休んだのか、よく立ち寄った。
六角堂の中の天心坐像は平櫛田中作。
昔は関心なかったから覗いた記憶もない。


そのまま六阿弥陀道を南に進むと三崎坂途中に出る。
坂を途中まで下りて喫茶「乱歩」と伊勢辰の間の角を曲がると昔のアパートに向かうが、すぐ途中で左折、真島坂をあがる。

このあたりは三浦志摩守二万三千石の下屋敷であった。
領国は美作国真島郡勝山だったから、勝山藩と呼ばれたが、明治2年に真島藩と改称、廃藩置県では真島県となった。
そこから谷中真島町、真島坂、真島湯などの名前が生まれた。
 
江戸期の屋敷は坂下まで広がっていたから、この石垣は坂上に邸宅を構えた渡辺治右衛門が築いたものであろう。彼の名は南にあるあかぢ坂に残る。

1977年から79年ころ、この石垣の下、即ち写真の道路右側、谷中荘に中尾裕史がいた。
今、石垣の上、夕焼けのきれいな家にやはり同級生の田中靖夫、有子夫妻がいるはず。
 
写真右は谷中小学校。40年前はもう少し古かっただろうが記憶にない。
なぜなら、この真島坂を上がることがなかったからだ。
小学校裏の台東区出張所に2,3回来た時くらい。

今回来たら真島坂の一番風情ある家がなくなっていた。
たいてい広くて、ひと気がなくて、古くて、樹木が茂っていて、坂の魅力となっている家から順に消えていく。

坂上から

40年前、上野からアパートに帰るときは1つ南側のあかじ坂を下り、日暮里駅に行くときは1つ北の三崎坂をつかった。

しかし2013年に引っ越してからは、この坂を何回も下りた。すなわち上野公園から千駄木まで帰るには、谷中のヒマラヤスギから三浦坂上に出て大名時計博物館の東をまっすぐ北に歩いて、この真島坂上にくる。
何回も見たその家。写真を撮っておけばよかった。

この日のランチは菊見せんべい並びのRYU。
トマトソース煮込みハンバーグ、パン、スープ、ドリンク付き1000円はボリュームあった。

関連ブログ 
20181120 三崎坂、蛍坂、七面、岡倉天心
20181021 谷アパート~谷中荘、真島湯あと
20181023 あかぢ坂、三浦坂


千駄木菜園 総目次

2019年9月16日月曜日

延命院事件と七面坂

夕焼け段々をのぼり、諏訪台通りとの角にある延命院。
1979~1981は谷中のアパートから最寄り駅に行くとき、
2013年からは散歩がてら日暮里駅を使うとき、
何十回、何百回と前を通っていたが、入るのは初めて。

2019-09-16
今まで入りづらかったが、最近は門前でバザー?をやっていたり観光客が入っていく。
敷居が低くなった。
江戸末期の江戸名所図会にもあったというシイ。樹齢600年という。
樹高16メートル、幹回り5.5メートルだったが、2002年に南側の大枝が崩落、今や残った北側も鉄のつっかえ棒で支えられている。
シイといえば、食べられるどんぐりと聞き、スダジイの実を生でかじったことがある。
地面に落ちたもので病原微生物がいたらいやだから飲み込まなかったが。
日本に自生するシイ属には、実が細長いスダジイと、丸いツブラジイの2つある。
これはどちらだろう?

本来、別当寺というのは神社を管理するための寺(住職、すなわち別当は宮司より上)であるが、この説明では七面大明神は神ではなく仏とされている。最初は神であっても神仏習合時代で本尊になってしまったのだろう。
七面社は各地にあり、たいてい日蓮宗寺院で祀られている。
細長い諏訪台の上で空が広いせいか、普通の寺と雰囲気が違う。
新規区画分譲中という墓地はこの裏か。

延命院と言えば、延命院貝塚。
もともと上野台地、本郷台地は海、川にせり出した岬のようなものだから、新坂、領玄寺、天王寺、道灌山、弥生町、千駄木、動坂、と縄文・弥生遺跡の宝庫。
延命院も明治21年、斜面の土でも売っていたのか、貝塚が発見されたが、場所が分からなくなっていた。ところが1987年、夕焼けだんだんの下(奥)でビル工事をしていたら(パン屋のチロルだろうか)、手つかずの1メートル20センチの貝層が出てきた。土嚢袋に1600袋という。当時谷根千地区は再開発の真っ最中で、台東区、文京区側の工事現場では多くが破壊されたらしいが、ここ荒川区は工事をストップし、調査したという(谷根千14号)。

なお、この寺は崖下の六阿弥陀道まで敷地があり、七面坂で長明寺、坂下で宗林寺と接していた。つまり富士見ホテルはじめ夕焼けだんだんはすっぽり延命院の敷地内である。
そうそう、延命院でもっと有名なのは日潤事件。
家斉の時代、この寺に元歌舞伎役者という美男の僧侶、日潤がいた。参拝にきた女性たちと関係を持ち、その後、大奥、大名屋敷の女中など多数の女性が訪ねるようになり、他の僧も参加し淫行が繰り返された。日潤は死罪。

この石碑は明治時代に建てられた。
うえの説明文では幕府大奥の権力闘争によって捏造された事件というが、その証拠は知らない。

延命院を出て夕焼け段々を下りずに南の七面坂を下りる。

昔の人は寺名をいわずに拝む対象で呼ぶ。
延命院ではなく七面様とでも呼んでいたのだろう。

アルバイトに行くときなど電車に乗るときは、ここから駅に向かった。
キャンディーズの最後から二枚目、「わな」を聞くと、夜のこの坂を思い出す。発売日を調べたら1977年12月、本駒込から谷中に引っ越したばかりのころだが、それから2,3年、口ずさんで坂を上り下りしていたのだろう。

2019-09-16
昔はもっと狭く、急に広がった。
2012-10-15 七面坂
アパートと墓を削ったようだ。

彫刻家、挿絵画家の戸張孤雁(1882-1927)も七面坂下に居を構えた。
親友荻原碌山の死後、中原悌二郎と太平洋画会研究所彫塑部にはいる。
3人ともこの谷中日暮里で暮らし、結核で早世した。

この日は雨。
坂下のかき氷屋、ひみつ堂は行列もなくすいていた。

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2019年9月12日木曜日

ヒキガエルが生きていた

台風15号が2016年以来珍しく関東に直撃、文京区は風速20メートルという予報だったので、8日夜のうちに飛ばされやすいものを片付け、夜中も布団の中でたびたび目を覚まして外の気配をうかがっていた。
9日午前3時前に三浦半島を通過、5時前に上陸した千葉市では最大瞬間風速57.5mを記録した。

我が家はオクラやナスなどが倒れたくらいで、サクラの大枝も折れずにほっとした。

2019-09-10
8/29にまいた大根は本葉が2枚出てきた。
しかし発芽直後にダンゴムシだかコオロギだか何者かに食われ、何回もまきなおしている。
ハクサイは防虫ネットの中で育苗中。これも何者かに食われ、ベイト顆粒をまいているが、台風の雨で流れてしまった。

菊も風で倒れていたのを支柱でたてる

ナスは猛暑が過ぎたころから再び実をつけ始めたが、大きくならない。
苦くて硬くて、秋ナスは今一つ。

2019-09-10
豆の畑でヒキガエル発見。

生物種として安定に生息するには最低数十匹いなくてはならないだろう。
最近見かけなかったので絶滅したと思っていた。
うれしい。

ヒキガエルは、2011年は分からなかったが、2013年に住み始めたとき、庭で何匹もいるのに気が付いた。
山手線の内側、文京区でありながら奇跡的に残った昭和の環境。
すなわち、丈高い雑草が繁る土の私道、複雑な借地権のため建て替えられない古い家々。

2016年ころまでは夜帰宅すると土の道の真ん中でじっと座ってこちらを見ていたり、庭のナスやピーマンの木が揺れるから見ると2,3匹歩き回っていたり。
しかし狐坂の上で車にひかれた者もいた。
庭で悪臭がするからみたら猫にやられたのか、仰向けの死骸もあった。
2匹か3匹、庭で死んでいる。

そのころから姿を見なくなった。
最後に見たのはいつだったか。

2017年3月には穴を掘って冬眠中のカエルを写真に撮ったので確実である。
2018-03-12 南側のザクロの切り株を抜いていたとき見た気もするが記憶があいまい。
だから今回生存確認できてうれしい。
関東では在来種のアズマヒキガエルと
西日本の二ホンヒキガエルが交雑しているという。

しかし最近小林照幸氏「朱鷺の遺言」を読んだから特に感じるが、10匹、20匹程度では絶滅するのは確実。
千駄木も代が変わるたびに家は売りに出され、小さく分割され庭のない家が立て込む。
ヒキガエルにとって年々住処が狭まり、今や隣の伊藤さん桜井さんと我が家の3軒しか住めなくなったのではないか。
3軒は道路によって隔たれているから、移動するのは今回のように台風や大雨の時だけだろう。こんなに目立つのに昨年見なかったのだから、このヒキガエルは隣家のものかも。

産卵は池や水たまりというが、繁殖はもっと困難な環境。

寿命は10~15年と言われるから、今いる個体は昔生まれたものかもしれない。
ジャングルだった我が家の庭を、私が開墾し始めて7年経つ。


関連ブログ
2017-03-17 切り株の下にヒキガエル
2018-09-25 土の道と古い家々
2017-06-24 6年前の庭との比較


2019年9月7日土曜日

品川神社から御殿山へ

9月1日、いつも使う日暮里のダンス練習場が休みなので、大崎まで来て品川保健センターのパーティ会場で軽く体を動かした。

練習が終わって御殿山経由で品川駅まで歩くことにした。
品川神社
頼朝が1187年、海上交通安全、祈願成就の守護神として、安房・洲崎神社から天比理乃咩命を勧請して品川大明神としたのが始まりという。
来るのは初めて。
拡大すると鳥居に竜が巻き付いている。

第一京浜(国道15号)、京浜急行の向こうに旧東海道が走っている。
その先は海。
この神社の特徴は、独立峰であり、相当見晴らしがよかったこと。
神社以前に物見の丘であっただろう。

家康が関が原出陣の折、立ち寄って戦勝祈願したことなど、交通の要所にあったから、社格以上に目立つ存在であっただろう。
境内に登ってから思いだした。
品川神社は富士塚が有名。

わざわざ富士山から溶岩を運んでくる意味は何か?
できるだけ本物に近づけようとしたのだろうか。しかし、でこぼこして外見はまったく似つかない。運んで来いと言われ嫌々ながら持ってきた人もいるのではないか?

境内でバーベキューをしていた。
これだけ多人数だと堂々としている。
神主さん承認?

品川神社って、字面が現代的というか都会的。

頂上(神社境内)から鳥居が中腹に下がっていて、その先に稲荷。
穴稲荷という形式があるのだろうか。

御殿山に行くため西側に降りたい。
おりる階段を探して本殿の裏に回ったら、階段はなかったが墓があった。
板垣退助(~1919)の墓。
なぜ寺でなく神社にあるのか?

そもそも品川神社の西南一帯は東海寺だった。
寛永15年(1638)家光が沢庵宗彭を招聘して開山。境内地4万7000坪。
しかし明治6年 寺領が新政府に接収され衰退。道路や鉄道、宅地などになった。
板垣の墓は塔頭高源院の墓地であるが、いまは区立品川学園などができて、品川神社からしか入れない。
なお、目黒川と山手通りに挟まれ現存する東海寺は旧塔頭の玄性院の場所。

品川神社をふたたび第一京浜に下りて、すぐ北側を西に歩くと山にぶつかる。
そこを切り開いて線路が通っている。
品川駅方面からくる線路は、京浜東北、東海道線は直進、山の手、新幹線は左(西)に曲がっていく。
上の写真の跨線橋(御殿山通り)をわたると御殿山。
すぐ右に立派な公園があった。
木々の向こうに高層ビルがある。
御殿山ヒルズの一部なのか、区の公園なのかよく知らない。
練習後でくたくた。
降りたら上がってくる自信がなかったこともあり、上から眺めるだけ。

御殿山ヒルズ一帯は、実業家・原六郎(1842 - 1933)と娘婿・原邦造(1883-1958)の屋敷だった。原邦造は東京ガス会長、日本航空会長、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)総裁などを歴任した。
森ビルが1990年原家の敷地に御殿山ヒルズを建設。2006年御殿山ガーデン、2013年に御殿山トラストシティーと名前が変わった。マリオットホテルも中にある。


滝をあとに、通りをすすみ、城南五山の一つ、高級住宅街の御殿山に入る。
まず原美術館
1938年建築の原邦造の邸宅であった。
戦前の原家本邸は、森トラストシティーの中心あたりにあった。


御殿山の御殿は因州池田の御殿ではなく、徳川将軍家の鷹狩に使われた品川御殿から。
むしろ線路の東の北品川3丁目、品川女子学院や郵政宿舎のあたり。
しかし、八ツ山とともに幕末のお台場つくりや埋め立てで崩され、さらには鉄道ができ、今の地形からは山の範囲が分からない。

なお先の写真の御殿山ヒルズの滝は、埋め立て用の土をとるため御殿山を削ってできた崖にある。

さて、品川御殿がなくなり、山も削られた明治以降、御殿山というのは、ふつうヒルズや原美術館のある北品川4丁目からその西の5丁目にかけての住宅地をいう。
2019-09-01

この御殿山には1980年の正月ころ、2か月ほど家庭教師のアルバイトに来た。
白百合学園の高校3年生。名前も住所も何のメモも残っていない。
たしか神田の田中貴金属の重役の家。

週1回、英語ということで何をしたらいいか生徒も私も分からず、とりあえず本屋で大学入試の問題集を買ってきて与えた。
夕方、実験室を出て御徒町のロッテリアで腹を軽く満たしてから電車で品川、そこから歩いて12分くらい。
国土地理院地図1979-83
山手線、U字の底
左が大崎駅、右下に品川神社、中央上部が御殿山の住宅街

大体の場所が分かっていたから現地に行けば思いだすと思ったら大間違い。
それらしき家どころか、記憶にある家並みすらなかった。

記憶では三菱開東閣の南縁に沿って坂を上がったら2つ目くらいの道を左(西)に入り、右折(北へ)する。(北品川5丁目)
ところが記憶と実際は90度ずれていて、入る道は 南にむかい、右折は西だった。

記憶では道の右側(東側)にその家があり、敷地西側に玄関、南に庭があった。
ところが、実際は道の右側の家々は、道の北側だから玄関も庭も道に面している。

記憶の家、家並みなどどこにもないのだ。

記憶にある家の外観は品川駅から到着した時の姿でなく、行き過ぎて反対の方から見た図だろうか?
それなら南北の通り(北品川4丁目)の家を南側から見たことになる。
40年で家々が小さくなってしまったのは仕方がない。

その家は、玄関の三和土を上がると屏風か衝立をおくような取次の間があった。
そこで畳に座る母親に迎えられ、取次の間を過ぎると廊下があった。
手前右手が洋室、そこを過ぎると廊下は縁側になっており、左側に和室の障子が続いていた。
取次の間の裏に当たる洋室は本来応接室だったのだろうが、彼女の部屋になっていて、そこで教えた。
私の中で品の良い和風の家というと、このときの記憶が浮かんできていたのだが、現実世界にはもはや存在しないようである。

御殿山にはもう一軒記憶のある家があった。
門柱と洋館。
その数年後、テレビドラマの背景に出てきたほど。
2019年、探したがやはりなかった。
このような門柱があったが、家は全然違う。
本来の表札がはがされ紫雲荘という板がかけられていた。
40年で門柱以外建て替えられたのだろうか。

練習のあと歩き回ってすっかり疲れ、品川駅に向かった。
1980年、教えた高校生は品川駅でなく大崎におりて新宿周りで九段の白百合に通っていた。可愛らしい子だったが、どうなったか、全く知らない。

新八ツ山橋、八ツ山橋を右に見ながら坂を下りていく。
これらの橋はそれぞれ第一京浜、八ツ山通り(東海道)が線路を乗り越えるのにかけた橋。
八ツ山というのは、すなわち、これらの橋の山側、つまり三菱開東閣のある高台である。
御殿山ヒルズも出来て、御殿山もだいぶ変わった。
しかし三菱開東閣だけは昔のまま。
ここは、どういう人が入れるのだろう?
三菱グループの社員も入れないのだろうか。
品川駅そばまで来て道路を渡り振り返る。

そうだ、つばめぐりるは1980年もこの辺りにあった。
うしろは品川プリンスホテルらしい。1976年ごろオールナイトのスケートセンターにきたことがあるが、こんなビルはなかったと思う。1986年、94年、2002年と順次高層ビルが建ったようで、景観は大きく変わった。