薬学雑誌1903年度p413-430から
第85話で触れた大阪大会についてもう少し書く。
正式に決まったのは明治35年9月神田福田屋での評議会。
年が明けて1月、在京の岸田吟香(あの劉生の父)ら4名、大阪では道修町薬業界の武田長兵衛、田辺五兵衛、塩野義三郎、小野市兵衛など27名が準備委員に選ばれた。
2月からは委員長辻岡精輔のもと
「すでに学会において期日を広告なりし上は、当市において万一総会に不利なること出来する場合あるといえども、毫も変更せずして挙行すること」と準備に総力を挙げた。
明治の飛行機研究家として知られる二宮忠八はこのとき大日本製薬の社員であったが準備委員会ナンバー2の常務委員として大活躍した。
大会は学術講演会から始まった。
4月3、4の両日で12題。二宮も小学校卒でありながら田原、丹波の博士らに混じって大会講演に選ばれクレオゲストについて発表した。
5日夕方5時、中之島大阪ホテルでの大懇親会の様子が薬誌にある。
「表門に一大緑門、大国旗二旒を交叉し、階上より垂下して第23回薬学会総会宴会場と大書したる票札を掲ぐ。大広間は食卓に無数の挿花を散在し、正面の花瓶には高さ三丈に余る一大桜花を挟み、満室あたかも春野に逍遥するがごとし。(略) 用意の号砲しきりに開会を報ずるや車軸相並びて雲霞のごとく表門に蝟集し陸続として来る。(略)」
午後6時、陸軍軍楽隊の吹奏起こり、それまで別室で茶菓を供せられていた一同は宴席についた。
「光栄ある来賓と、服装態度実に社会の表に起つ親愛なる会員の綺羅たるこの一大光景は何たる盛挙ぞや。」
いったい何事かと宿泊中の西洋人も見物に来た。同ホテル開業以来の盛大な会で、和酒、麦酒、赤酒から料理までホテルの最も精選、吟味したものが供された。
宴会中、淀川中流につないだ煙船はしきりに妙火を大空に放った。しかし河中に仕掛けた長さ30間余の「日本薬学会万歳」と大書したる仕掛け花火は降雨のために、会員が見物席に移動してくるまで待てず、外の市民のみが楽しんだ。
初めて地方で開かれた総会参加者の内訳は、大阪113、東京38、兵庫25、京都15、石川11をはじめ、合計3府27県で273人であった。それまでの総会参加者は100人程度であったから成功と言えよう。
長井会頭はテレーゼ夫人、子息、日野九郎兵衛、溝口恒輔氏とともに8日難波駅を出発、和歌の浦の風景を賞し、続いて高野山に上った。空海大師の偉業を探り11日に帰阪したという。
今ここまで書いて、中之島のホテルが気になった。
国会図書館のレファレンス共同データベースに以下のようにある。
『川口居留地 1』(1988.5)p.23-26 自由亭ホテル/堀田暁生
『大阪春秋』51(1987.11) p.78-81 写真が語る自由亭ホテルと大阪ホテル/堀田暁生
この2点の資料によると、自由亭の概略は次のとおり。
明治元年 草野丈吉によって洋食屋として梅本町(現在の西区)に開業
明治14年 中之島に自由亭支店を新築開業
明治17年 自由亭の東隣にあった温泉場と清華楼を購入
明治19年 草野丈吉没
明治28年 草野丈吉の長女 草野錦が洗心館(もと清華楼)を改築して「大阪ホテル東店」を開業
明治29年 「大阪ホテル」(西店)開業
明治31年 11月に行われた陸軍大演習のため来阪した明治天皇の御膳部用命を拝する
明治32年 10月 大阪ホテルを大阪倶楽部に売却、「大阪倶楽部ホテル」
明治34年 火災で全焼
明治36年 大阪倶楽部により再建され、「大阪ホテル」として開業
大正13年 大阪ホテル 全焼
薬学会が行われたのは全焼して明治35年再建されたあとである。
堂島川左岸(淀川は大川といい、中之島の北を堂島川、南を土佐堀川という)、今の中央公会堂の東にあった。
当時、東京帝国ホテル、箱根冨士屋ホテル、京都都ホテル、日光金谷ホテルと並び、日本の5大ホテルと言われたらしい。
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