2017年11月6日月曜日

「開運のまちおやま」と小山評定

11月5日、秋晴れ
ダンススポーツ関東甲信越大会に出るため、栃木県小山にやってきた。
赤羽から快速で54分、大宮から38分である。体育館までのバスに乗ろうと西口に降りると目についたのが駅前ロータリーというか植え込みに立つ2本の高い看板。

一つはユネスコ無形文化遺産・結城紬のもの、もう一つは「おやま評定・開運のまちおやま」というものだった。最近、自治体のこの種の看板にうんざりしている。ユネスコ登録は結城紬関連のパンフレットに記せばいいだけで、わざわざこんなに大きな看板を駅前に作る必要があるか? 何か自分の自治体をアピールしないと自分の職がなくなるとでも思っているのだろうか。

開運のまちおやまにいたっては、何のために看板にするのかわからない。針葉樹でも一本植えて季節にイルミネーションするくらいで良いのであり、あえて美観を損ねる看板洪水に税金を使って加担することはない。

さて、おやま評定。
家康が秀忠と会津の上杉征伐に北上、途中小山で三成挙兵を知り、ここで協議、会津進軍を止めて反転し、江戸にもどり関が原に向かったことを、バスの中、ダンスパートナーに聞かれたので説明した。
それにしても、平成の今、誰も知らないであろう、そんなマイナーなものが観光資源?になるのだろうか。小山市はいったい何を考えているのだろう? 市のホームページを見たらこうある。

 徳川家康は、慶長5年(1600)7月24日、上杉景勝を討伐するために会津(福島県)に向かっていた途上、下野国小山に本陣を置きました。その時、石田三成挙兵の報が入り、翌25日、急遽家康は本陣に諸将を招集して軍議を開き、「このまま上杉を討つべきか、反転西上して石田を討つべきか」を質したのです。これが世に言う「小山評定」です。家康に従う諸将のほとんどは豊臣家譜代の武将で、大坂に妻子を残してきており、その去就が家康にとっては興亡の境目だったのです。
 このとき、尾張国清洲(愛知県)城主の福島正則が家康のために命を投げ出すことを誓い、続いて遠江国掛川(静岡県)城主の山内一豊が、「家康に城を明け渡してまでもお味方します」と進言しました。一豊らの建議が諸将の気持を動かし、家康支持で固まったのです。家康は特にこの時の一豊の建議を、「古来より最大の功名なり」と激賞しました。
 こうして家康率いる東軍は、石田三成討伐のため西上することに決したのです。

小山評定での家康の決断が、天下掌握への運を開いたから、小山は開運の街というのである。
しかし家康は三成に挙兵させるため、わざと会津に向かい、今か今かと待ち望んでいたと言われる。それなら小山市のいう「幸運」というより、予定通りといえる。小山でも古河でも宇都宮でも関係ない。

関ヶ原の合戦は有名である。西軍は120万石毛利輝元を総大将にしたが中心となったのは人望のない19万石の三成であり、一方東軍は250万石の家康が圧倒的に大きく、よくまとまっていたということは、誰でも知っている。戦闘では様子見や、裏切りがあったこともいろいろな話になっている。

しかし、意外と知られておらず、また忘れてならないのは、各大名がどうやって関ヶ原に集結したかである。そして東軍は早くから一つになって臨戦態勢だったということである。つまり、会津征伐軍が小山で引き返し、東から西に向かって、そのまま関ヶ原の東軍になってしまったのである。

1598年8月の秀吉死後、五大老筆頭の家康は、三成の心配をあざ笑うように、勝手気ままに振る舞いはじめた。武断派大名を懐柔したり姻戚関係を結んだり、秀吉がなくなる寸前に五大老五奉行で結んだ誓書を反故にした。

一方、前田利家が亡くなった1599年閏3月、三成は武断派大名7人(加藤清正、細川忠興、蜂須賀家政、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、浅野幸長)に命を狙われるほど、嫌われていた。秀吉恩顧の大名たちは、敵の敵は味方ということで家康につくのである。

1600年3月、家康にとって幸運にも、会津の上杉景勝が城郭の修理をしたり、新城を作ったりした。これは豊臣家の掟に背くとして、上洛を命じたが上杉は応じない。6月6日、家康はますます喜び、それまで自身の勝手な振る舞いを棚に上げて、五大老筆頭の立場を利用して、大阪城に諸将を集め、(豊臣家のために秩序を守ろうとの建前で)上杉討伐を提案、三成を嫌う武断派の大名たちを中心に諸将八十余名、5万8千の兵を集めるのである。

6月16日、家康、諸将を率いて大阪をたつ。前日、秀頼母子を訪ね挨拶し、はなむけをもらい、大義名分を明らかにすることもわすれなかった。
7月2日江戸城到着。
同7日各大名に動員令を下し、自らは7月21日、江戸出発、24日小山着。

ここで三成挙兵を知り、ほくそ笑む。
戦争に最も重要なのは大義名分である。小山の本陣に客将をあつめ、何もわからぬ幼い秀頼をないがしろにし、秩序を乱す奸臣石田を豊臣家のために討つという。秀吉恩顧の各大名に、大阪に帰るものは帰っていいと優しい面を見せながら、石田嫌いの福島正則にまっさきに賛意を示すよう工作した。その結果、池田輝政以下の諸将が先鋒として出陣することを申し出、遠州掛川の山内一豊の提唱によって東海道に城を持つ者は家康に明け渡す(自由に使わせる)ことにもなった。

家康は8月5日に江戸城に帰着、さらに勝たねば意味がないから彼らを先発させ、自身は26日間も江戸に滞在し、情勢を分析して9月15日の合戦を迎えるのである。

関が原の合戦で最も重要であったのは、どっちに着いたら決めかねている諸将を、できれば隠密に、領国から戦場まで、どうやって出陣させるか、その多数化工作である。
家康は会津征伐という大義名分で兵を堂々とあつめることができ、小山評定でゆらぐ諸将の気持ちを自分に傾かせ、実にうまくいったといえる。
確かに家康はここ小山で良いことがあった。

さて11月5日のダンス。

ラテン種目はあと一歩で昇級を逃し、スタンダード種目は1回戦で負けた。私には幸運の町ではなかった。

栃木県立体育館の横は思川。
演歌のタイトルみたいだが、そんな風情はなく、消防職員が訓練をしていた。人数からして栃木全県から集まったのかな。合戦のロケに使えそう。

思川というのは不思議な名前だ。
日光のあたりから流れ、渡良瀬遊水池に流れ込む。
寒川郡胸形神社の主祭神である田心の媛にちなみ田心川と書かれたのが、いつしか思川となったと伝えられるが、本当だろうか。今この神社は思川ではなく巴波川のほとりにある。昔の川筋は違っていたのかもしれない。
江戸時代になると水運にも使われたという。
家康もこの川を見ただろうか。

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