10月26日、次に行ったのは山本五十六記念館。
入場料500円。
200円だった河井継之助記念館よりスペースも展示品も半分くらいしかないのに、この値段設定はなんだろう。
展示は大部屋1つだけ。
年表、高野家の系図から始まる。
金曜の夕方、だれもおらず一人みていると、隅で静かに座っておられた年配の係の方に声を掛けられた。
彼女は丁寧に
「なぜ高野家からあるかといいますと・・・
名家山本家の断絶を惜しむ牧野公の意向で、将来有望な海軍士官であった高野五十六は31歳で継いだのでございます」
などと言われる。
面倒だなと思いつつ、うなづいていると、サービスは延々続き、仕方がないので戊辰戦争に参加した五十六の異母兄たちのことを聞いたり、こちらのペースにしようとしたら、なんとなく離れていかれた。
いちばんの見ものは、「持ち帰りプロジェクト」(何と直截な名前!?)で5回にわたる派遣(延べ36人)によってブーゲンビル島から回収した一式陸攻の残骸左翼。
1984年までジャングルの中にあったということが意外だった。
長門の軍艦旗もあった。
開戦時の連合艦隊旗艦、五十六との関係も深い。
戦後アメリカに接収され、核実験の標的にされ沈んでしまった。
軍艦旗がハワイの戦艦ミズーリ記念館から昨年2017年長岡市に寄贈されたらしい。
2.6x4.0m。
本物は迫力十分。
軍艦旗(旭日旗)にはいろんな大きさがある。
軍一巾(内火艇など)から軍八巾(戦艦の儀式用)まで。
一巾は昔の反物の巾で66.6cm(二尺二寸)。縦横は3:2。
ここにあったのは軍六巾、戦艦が戦闘時に掲げる旗であった。
見終わって受付の年配の男性に、この敷地は以前はなんでしたかと伺うと、職業安定所でした、と答えられた。なるほど。
山本家は城内、いまの北越銀行本店あたりだから無理としても、生まれた高野家はすぐ南の公園になっているから、なぜそこに建てなかったか。
などと話しをしているとき、先ほどの女性が奥にそっと入って行って、山本家などの屋敷がどこにあったか、日本画の鳥瞰図を持ってきてくださった。
見れば今年のカレンダーで、見入っていると
「もう終わりですが、よろしければお持ちになられて結構ですよ」と仰る。
ここで「ふつう鉄道というのは、町のはずれに作るものですが、ここはど真ん中、本丸をつぶすように作られています。これは何か、戊辰戦争と関係あるのでしょうか」
と聞いてみた。
同じ質問は、河井継之助記念館でも聞いたのだが、学芸員不在のこともあり、
受付の女性は
「一番標高が高かったからだと聞いたこともありますが、よくわかりません」
であった。
ここの方は少し考えて、
「焼け野原になって、食べ物もありませんでしたから、何も残っていない城内も畑になったと聞いております。ここは一部を除いて石垣もなく、土塁でしたから、そのまま崩して濠を埋めたのではないかと思います。大きな空き地があったということが一番の理由ではないでしょうか」
とおっしゃり、西軍の恨み、長岡市民の恨みなどと関係ないお答えで、納得した。
私が信州ということで、小諸の牧野家にも話が及ぶ。
話していると、再び彼女はそっと奥に行き、
「ここに書いてありますが、よろしければ」と小冊子をくれた。
長谷川泰を出せばすぐ済生学舎のことで話せるし、長岡病院の梛野直(良精の妹、保子の夫)のこと、石黒忠悳についても出身地を教えてくださる。長岡を何でも知っている方、二人を独占できる贅沢。
山本五十六記念館にいながら山本五十六の話はほとんどなし。
話題が変わるたびに、彼女は奥に入り、別の小冊子を持ってこられる。
4、5冊頂いたとき、「重くなりますが」と残りの号をすべて持ってきてくださった。
今年が長岡開府400年ということで、2016年5月創刊号からから今年5月の9号まで、平均2,3か月に1回発行されたROOTS400。A4版16ページ。
この夜、ホテルで広げる
「長岡中学の山本も、長野中学の栗林忠道も留学はイギリスやドイツでなく、アメリカでしたね。そういえば天下の三長中という言葉を長野高校で聞きましたが、あとの一つはどこでしょうね」
「どこでしょうね」
となり、
「長野県と言えば、山本五十六は兵学校入学時200人中2番でしたが、1番は長野の塩沢幸一という人です。養命酒創業者の家の出身で五十六の親友、堀悌吉と卒業まで首位を争ったようです」
と教えていただき、最後は五十六で終わり。
と教えていただき、最後は五十六で終わり。
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