12/30、日帰りで長野に帰省。
長野駅8:40着。
早く中野に行っても、コタツでテレビを見ているだけだから、高校に行ってみることにした。
卒業後行ったのは、
1977年 剣道班夏合宿 (→1977年の長雨)
と、
2007年8月15日 娘の宿題で信濃美術館に行った帰り。
30年ぶりに高校に寄ったら、古い校舎がすっかりなくなっていてショックを受けた。隣に新築校舎(1994)が建っていた。
ついで
2010年9月23日、亡き父の初彼岸のとき。
このときは「懐かしいもの」の大切さに気付いた頃で、カメラを持って行った。
しかし保存しないまま次々とシャッターを押したため写真が残らなかった。
それで今回2018年の暮れ、今度はしっかり写真を撮るつもり。
本郷駅 9:03出発、変わってしまった道を歩きながら(→通学路)
高校到着。
1972年4月から75年1月まで通ったところ。(2月は自宅学習だったからね)
上の写真の左、正門の前は一面田んぼだった。(下の写真)
私が通った頃の校舎
金鵄が台と呼ばれた。左端に図書館、右端に生徒ロッカー棟が見える
1991年10月 校舎改築のためのグランド埋蔵文化財調査始まる
1992年8月 校舎全面改築工事起工
1994年2月 新校舎完成
毎年桜のころ、この土手に並んでクラス写真を撮った。
松代の上野豊と中野の上田裕康がなぜか手をつないで写っていた。
かつての正門と南校舎の一部。
1994年にグラウンドに作られた新校舎で授業が開始され、その後、教室棟などすべて壊されたようだ。
教室棟は戦前、1940年築。
東側が生徒玄関と渡り廊下で開いていたが、ほぼ四辺あるロの字型。
そのうち正面玄関を含む南側部分のみを保存した。
保存後は金鵄会館と称し、同窓会本部などが置かれ、
2003年、国登録有形文化財に指定された。
(なお、我々の時代、金鵄会館といえば校舎の北にあった、かまぼこ型の新しい建物をさした。一階が食堂、売店、二階が柔道、剣道場だった。)
正面玄関の一番上が25番教室で生徒会専用室。
25番といえば執行部の代名詞だった。
このあたりは桜の老木が並び、美術の時間、その間から見える景色を写生した。
中学の時はいつも先生に褒められ、美術部にも入っていた。しかし、長野高校では他に上手いやつがごろごろいたのだろう。先生も私をとくに評価せず、私も絵を描くことが好きではなくなった。
90周年に出した信濃毎日新聞での広告(1989.7.8)
私の入学する7年前1965年ころの撮影という。
手前に図書館、西口自転車置き場がある。
一番奥に金鵄会館はまだないがプールが見える。
ついでに書いておくと
明治16(1883)上水内郡立中学校設立
明治17 県立長野中学校が長野に置かれ、上田、松本、飯田に支校設置
明治19 1府県1中学校制により本支校を合併。県立師範学校と県立中学を長野と松本で分けるため、本校を松本に移して長野県尋常中学校と改称。(長野に中学なくなる)
明治26 1府県1中学校制の廃止により長野(校舎は西長野町)、上田、飯田に支校を設置
明治32(1899) 松本から独立して県立長野中学校と称し、上田尋常中学校を支校とする
(この年を創立年とする)
明治33 上田支校独立
明治34 本校第1回卒業生50名を出す
昭和15(1940)現在地に校舎を新築移転
南校舎の東部分。
入学試験の合格者はここに張り出された。
当時の写真があった。
じっくり見るのは初めて。
今みると、けっこう知っている名前ばかり。へ~、彼らは割と近くで受験したんだ。
受験番号104番の周りを見ると、10人のうち2人は落ちている。
1972年3月は、定員8クラス360人のところ、465人が応募した。
倍率1.29倍で105人落ちる計算。
私立のない田舎というのは受験機会が1回しかない。
この前の年、木島平だか飯山だかの優秀な中学生が長野高校に落ちたが、中学浪人の最中に大検に受かった。こんな子供が落ちる高校入試というのは問題ではないか、と新聞に大きく取り上げられた。(当時の大検は今と違ってたいそう難しかった。彼は翌年私と同じ年に入学)
その私の年は蓋を開けたら1クラス分、45人余計に合格者を出した。「校長裁量」という言葉が(とくに校内で)流行語になったが、それでも60人は落ちている。
彼らは私立の長野中央高校(1988から長野日大)に行くか、翌年再受験するしか選択肢がない。私の中学でも5人受け(一人は浪人)、現役の一人が不合格となり、翌年再受験した。
この状況に県は動きを加速する。
「十五の春は泣かせない」という流行語にも押された。
私が受験した2年後には小学区制が導入される。学区内の定員を調整するため、長野東高校が新設され、女子高だった中野高校も共学化された。長野市は3つの通学区になるほど細分化され、平等にするため、つまりレベル格差を解消するため教員の大移動も行われた。富士山型より八ヶ岳型を目指すとした。
しかし、進学校に慣れた教員は低学力校の生徒生活指導ができなかっただろうし、低学力校の教員は進学指導が苦手だったであろう。
その結果、長野高校からの東大合格者は、3年連続30人を超えていたのが(私の年は35人)わずか一桁に激減した。
八ヶ岳の一峰として期待された周辺の須坂高校からは一人か二人、飯山北、屋代などはゼロだったのではないか。
おりしも始まった共通一次試験の県別平均点は、沖縄に次いで下から2位だった。
その2,3年前の1975年は、長野と深志で東大に60人入り、上田、諏訪青陵、飯田、伊那北、野沢北、と全県で100人以上、人口当たり合格者数は全国トップクラスだったはずである。
教育県というのは学力が高いということではない。
江戸、明治以来、単に教育への意識が高かったという意味である。
その教育に熱心という県民性はマイナスに働き、伝統というものを壊し、県内高校生の学力を著しく低下させた。
その高校卒業から44年。
図書館跡地
図書館ではソファで週刊誌を読んでいたことを思い出す。桜田淳子、山口百恵らはデビューしていたが、天地真理と小柳ルミ子の記憶のほうが強い。
かつて図書館があった西南の隅は弓道場になっていた。
NHKドラマアニメ「弦音(つるね)」はここがモデルというが、見たことない。
西側は通用門と自転車置き場、そして図書館、保健室に行くときの廊下があった。
(現)金鵄会館の閉まっている扉のガラス越しに写す。
南校舎の西の端。
ここがホームルームだったことがある。
しかし写真左の窓側は西校舎につながり、二階に上がる階段もあったはず。
コの字型の一部を独立させるため、だいぶ修復したようだ。
池田満寿夫ギャラリーという文字が見えた。
南校舎の裏に回る。
ここはかつての中庭にあたる。
正面の校舎裏口から降りるコンクリートの階段が残っていた。
1年のころ、雨の日以外はここで弁当を食べた。
小布施の関信和は、いつも紙パックの牛乳を飲みながら弁当を食べていた。
当時はもちろんペットボトルはない。お茶はどうしたのだろう?
私は何も飲まなかった気がする。
弁当箱はアルミ製でたまに汁が漏れていた。
豚肉生姜焼き、卵焼き、(身の小さい冷凍の)エビフライ、キウリ、赤いウィンナー、それから農作業の合間に作ってくれた母親のことなど思い出す。
一面、芝生(草?)が生えた中庭には、ベンチや、花壇の淵に腰かけて食べているグループがあちこちいた。それぞれ場所は決まっていた。
2年生以降は柔道場の畳で食べた。
もちろん冬はストーブのある教室しか食べるところはない。皆、朝来るとストーブの横の温飯器(ただの下駄箱のようなもの)に弁当を入れ、昼まで放射熱で温めた。
日新鐘?
ずいぶん立派になって、別物のよう。あまりありがたみがない。
信濃毎日新聞での広告(1989.7.8)(卒業後14年)
かつては中庭の東端にあった。倒れそうな木造の櫓だと思っていたが、写真をみるとしっかりした鉄製だったようだ。
家で見つけた、この新聞広告にはこんな写真もあった。
神聖なるピアノ
松本の県立尋常中学校本校から独立した明治32年(1899)、三好校長以下、音楽教育にはピアノが必要と考えたが、お金がない。
そこで全校生徒の申し合わせのもと、ひと冬暖房を絶ち、薪代を貯めた。
風の入る木造校舎に信州の極寒。手が凍え鉛筆が持てない日もあっただろう。
全国どの高校も立派な校訓をもつだろうが、それ(質実剛健)を実践したところは少ないのではないか?
(我が家にはエアコンがなく、「夏の暑さ、冬の寒さは他のものと比べたら大した悩みではない」という私の口癖は、この実話を源の一つとする。)
旧制長野中学はこうして貯めたお金でフランス、プレイエル社製のピアノを購入。
しかし、いつしか故障、戦後には使われなくなり、私のころは倉庫に入ったままだった。
私が卒業した1975(昭和50)年、(旧)金鵄会館に展示室ができたらしい。
だから私は見たことがない。
この日は年末の日曜。もちろん見られない。
(現)金鵄会館(南校舎)の東側入口から覗く。
廊下の真ん中あたり左側から、ちいさなカウンターが張り出している。
ここで国鉄の学割証がもらえた。
見上げると偉人か誰か有名な書家の額かと思われるものが掛かっており、古文書のように変色していた。
達筆を解読すれば、ただ証明書発行のための手続きについて記されていただけ。
しかし箇条書きではなかったから、詩文のように見えた。
こんなところも好きだった。
元のグラウンドに作られた現校舎
学んだ校舎が異なれば、思い出が異なり、先輩後輩の関係は生まれないのではないか。
同窓というのは文字通りだと思った。
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