12/30、昔の中庭の場所に立って北を見る。
今グラウンドになってしまったところには
・中庭を囲む北校舎(普通教室の他に、化学実験室や物理を受ける階段教室があった)
・薄暗い講堂(卓球やバドミントンの時も使った)
・天井にバレーボールが引っ掛かりそうな木造の体育館。細長い1棟が2つに分かれていた。
・1割しかいなかった女子のための更衣室、兼休憩室(男子禁制、お局と呼ばれた木造平屋)
・長野高校唯一の非木造建築、金鵄会館(1969年だから私が入る3年前の新築)
・空手道場(木造平屋)、プール、弓道場などがあった。
1965年ころ
みごとに何も残っていない。ふつう大規模新築工事でも、敷地の端の小さな小屋などは放っておいたり倉庫にしたりするものだが。
金鵄会館など十分使えたはずである。
このあたり金鵄会館のあったところ。
ごみの中に昔のものがないか見たが、あるわけない。
金鵄会館1階は食堂の他に、売店、体育の教員室があった。
売店の窓には映画のポスターが貼ってあった。
ベン・ハー(リバイバル?)とか、ゴッドファーザーやロミオとジュリエットとか思い浮かぶが、調べると年代が合わないものもあり記憶違いかも。
グラウンドの端にあった用具小屋脇のロッカー。
昔のものかもしれないと、
手掛かりとなる落書き探すも見つからず。
昔のグランドから北門を出てSBC通りに出るところ。
右側に野球班の雨天練習小屋があった。
野球班の監督は近所の老齢の開業医、広岡先生。
名物監督として内外に知られた。
当時すでに医業は引退されたのだろうか、毎日グラウンドにじっと座って見ていらした。はたから見るとその不動のお姿は神秘的ですらあった。
あるとき隣の柔道班で投げられたものが失神して、友人が広岡御大のところに走った。伝説の先生を近くで見たのは初めてだったが、普通の方だった。
北村弁護士も1年上だったからグラウンドにいたはずである。
高校に入った1972年は長野高校が珍しく強くて甲子園も期待されていた。その時のエース、有賀さんは、中野平中学の2年先輩。田舎の小さな中学から入ったばかりの私は後輩として誇りに思っていた。
彼は中学時代、野球部のエース、生徒会長、合唱コンクールの指揮者、長身で、しかも成績優秀という、まさにスーパーマンだった。話したことは一度もない。
1年生の海浜訓練で新潟の能生にいたとき、夕方宿に戻ると野球班が県予選で負けた知らせがはるばる長野から届き、皆がっくりした記憶がある。
あれ?
班ではなく部になったのかな?
長野高校は、新聞部と放送部だけが部で、あとは班だった。長野県は班を使う高校が多い。組織の統合整理が盛んだった戦前戦中に課外活動を統合し、運動部と文化部の二つにし、その下に各部活動のグループを配したかららしい。
裏に回ったら足元の掃き出し窓が開いていた。
私は入学してもすぐ入部しなかった。
3年生が北信(長野市?)予選で負けて引退した後、6月頃入ったから、先輩は2年生5人だけ。そのうち一人が漫画家の井浦秀夫さんである。
我々1年生は当初10人いたが最も強かった上原と神津がやめ8人になった。
私は中学の時からやっていたので、初めはAチーム5人に入っていた。ところが高校から始めた北原和夫や吉平敏行(東大ボート部主将から牧師になった)らが力をつけ、1年後にはBチームに降格。
Bチームは城下町松代の中学時代にやはり経験者だった関屋と、数学の天才、なぜ剣道に来たか分からない、ひ弱な高倉の3人に加え、1年生4人のうち、小池や松沢らを入れて5人そろえた。
顧問は老齢の土屋先生(数学)だったが、道場に来たのを見たことがない。
酒井博先輩が自分で探してこられたのだろうか、県警の小林さんという方が週1回ボランチアで指導に来てくださった。小林師範は、県警でも高い地位にいらしたのではなかろうか。技術だけでなく風貌、人格ともに優れ、ふだん道場で手ぬぐいボールを作り野球をしていたような、だらけた我々も、威厳があって穏やかで優しい彼の前では、神妙に行儀を正した。
夏の合宿も楽しかった。
いつもどおり学校の道場で練習し、となりの柔道場の畳でごろ寝するだけだから、旅行気分はないが、何も準備はいらないしお金もかからない。
いま長崎大医学部教授の由井克之は南佐久の川上村からきて下宿していたが、穏やかで非常にまじめな性格を買われて主将になった。ところが、腕立て伏せ、素振りなど基礎から実戦形式まで、分単位の緻密な計画を作り、我々は音を上げた。朝など筋肉痛で便所に行っても座れず、階段も上がれないほどだった。
食事は自炊。
裏の田んぼのあぜ道を通って買い物に行き、隣の空手班の道場にあった竈と流しを借りて飯をたき、炒め物や汁物も作った。先輩からの差し入れのスイカも切った。12人のうち3人ずつ調理当番になり、当番になれば厳しい練習を半日そっくり堂々と休める。
そしていっぱい作った。
一人暮らしの由井はもったいないと言っていつも無理して食べた。その結果、動けなくなり、午後が軽目の練習、あるいは自主練になって、彼以外みな喜ぶという漫画のようなこともあった。
練習の休み時間になると、することもない高倉や関屋は一階の自動販売機のあたりをうろうろして、取り忘れられたお釣りがないかと、指を入れていた。ビンの取り出し口にも手を入れると冷たくて気持ちよかった。
そこでひらめいた。
合宿は厳しく、暑くて汗をかき喉が渇くが冷蔵庫はない。自動販売機でジュースを買うお金ももったいない。
そこで空き瓶に水をいれ、機械の下から差し入れて冷やして飲んだ。
あるとき誰かがお金を入れてボタンを押した。すると上からジュースのビンが下りてきて、すべての重さが途中の水のビンにかかり止まってしまった。
業者に怒られると思って、必死に水のビンを抜こうとするが、全く取れない。ついに水の空き瓶を割って取り出そうとしたのだが、口の部分だけ引っ掛かったまま、残ってしまった。
業者に正直に言って怒られたか、知らんぷりして逃げたか、記憶にない。たぶん後者だろう。
こんなゆるゆるの剣道班は、昇段試験にも関心がなく、増田と由井以外は受けなかった。それでも初段、二段ばかりの他校のチームと戦って勝ったりした。
だから最終学年、3年生の5月か6月、県大会出場をかけた予選で負けたときも(少なくとも私は)悔しくなく、もう練習しなくていいという開放感のほうがまさったのではないか? その日、みんなで防具を担いで入った町の食堂で食べた昼飯はうまかった。
そんなことを思いながら周囲を回ると
やはり剣道「班」だった。
かつてのグラウンドには近代的な校舎が建つ。
体育も面白かった。一クラス4人ほどいた女子も着替え時以外全く差別せず男と一緒にプレーする。サッカー、バスケットでは竹村さんなどが果敢に突っ込み、男の集団の中でもみくちゃになっていた。
先生が怒らなかったから(というか、同じ空間にいらした記憶がない)、自分の番でないときは皆あちこちでふざけていた。
1年のとき、国語が非常にできた松沢くんは、とても太っていた。相撲みたいにじゃれているうちに上下赤いジャージの腹の部分が目いっぱいめくりあがり、下着がきれいに出たまま、仰向けにひっくり返った。肩と手足だけ赤、胴体が真っ白、パンダそっくりだった。ちょうど上野にパンダが初めて来たとき(1972)である。
走り高跳びなども、みんないろんな飛び方をした。
中野の青木屋呉服店、上田は背が小さいのに「忍者飛び」で誰よりも高く飛び喝さいを浴びた。
グラウンドが残っていればもっと思い出したかもしれないのだが。
生徒玄関をのぞくと、
校歌「山また山」の額の向こうに、佐久間象山の肖像画があった。
大正8年(1919)卒業生一同が、やはり卒業生の河野通勢(1895- 1950)に描いてもらい寄贈したもの。図書館に飾られたというのだが私は記憶にない。修復完了が1974年とあるので、ちょうど外してあった時期なのかもしれない。
校舎の中はとてもきれいだった。
私のころは、土足のままだったような気もするほど、木造の床は砂ですれて真っ白だった。
今の生徒は、校舎同様、我々のころとは大きく違うのだろう。
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