2月19日、以前いた会社にいくため、戸田公園駅に降りる。
2013年、3/29(金)の通勤最終日、4/7(日)の代謝研同窓会で降りて以来、6年ぶり。
わずか6年間しか経っていなくとも、1985年から2013年まで、長い間毎日使った駅だと、ひどく懐かしい。
朝8:30すぎ。
知っている人がいないか少し緊張するも、あえて探さず。
改札内の日高屋
2013年のときは日高屋だったか、別の店だったか思い出せない。
右側はかつてVie de Franceだったが。
同僚に昼のパンを買っていく人もいたが、むさくるしい中年男性としては場違いな気がして一度も入らなかった。
会社の大部分の人は、改札でるとまっすぐ階段を下りて、線路の脇を東南に歩くが、私は反対の階段を下りた。
こちらは、社内の苦手な人と一緒になることもないし、交通量も少ないし。
1,2分しか違わない。
花壇も懐かしい。
この花壇、出来たばかりのころ、デリカシーなく斜めに横断する者が多く、踏み固められ小道ができてしまった。パンジーなど植えた係の人は、住民のモラルの低さを嘆いたことだろう。
その後、当局は仕方なく美観を犠牲にして花壇の中に大きな敷石を並べた。
ところが、すれ違うときに敷石では狭くて敷石をおりるのか、あるいは最初から乗らないのか、敷石の両側がやはり踏み固められて道ができた。
きちんとした身なりの人々が、何も感じていないように、花の脇を踏んで改札に急いでいた姿が目に浮かぶ。
いま、6年後に見ると木が育ち、柵もあり、入る人もいないようである。
住民も変わったのだろうか。
埼京線は1985年9月30日(月)(昭和60)に開業した。
1981年に入社して、最初は川口駅からバス(前新田循環)、その後は西川口駅から歩いて通っていた私も、この日以来この駅を使うようになった。
当時は結婚して1年5か月、上尾の瓦葺団地から東大宮に出て大宮駅で乗り換えた。
駅の開業初日は月曜。
菅原さんは会社が線路の東側ということで東方面にずんずん進んで戸田中央病院まで行ってしまったそうな。地図を見ると両方とも線路の東側だが、90度ずれている。
埼京線はもともと何もないところに通したから、このような農家のような家が駅の真ん前にある。
この場所に出ると、駅から大量に湧き出た人々もきれいに消え、同じ会社の人だけ2,3人歩いている。
仲のいい人だと追いついたり、待ったりして一緒に歩いた。
みんなが歩く線路の脇の道は、じきにうるさい県道沿いの狭い歩道になるから、
大塚さんは「この道の方が人間らしいな」と仰った。
彼は、同じ薬物代謝部門の主任研究員であったが、上司ではなかった。
まだ20代だった私に、道中いろんな話をしてくださった。
会社のことや前の夜に読んだ本のことなど。
私に合わせて長野出身の学者や有名人の話。
ときに
「液クロから出てくるアミノ酸の検出はどうしたらいいだろう?」
「あの空の雲は、どうして拡散してしまわないのだろう? なぜ白い塊でいられるのだろう?」
答えられないと、あとで調べ、翌朝この道で答えたりした。
ネットがない時代だからむしろ勉強になった。
大塚さんは一度も私の上司にならなかったが、斜め上からずっと暖かく見守ってくださった。
古本屋 倉野書店はまだあった。
その向こう、戸田南小学校の手前、中華キッチンtakaは、かつて居酒屋「まつしま」で、そのとなりにスナックがあり、92年の暮れか93年1月、工藤さんに連れて行ってもらった。中国人のホステスがいて、当時は中国人も珍しく、私もまだ中国語が少し話せた頃だった。そのとき文献の裏に落書きした中国の地図が引越しのとき出てきた。
たいてい同じ人と同じ場所ですれ違う。
90年代終わりだったか、中にきれいな人がいた。30歳前後の共働きの女性という感じ。
向うも当然私に気付いていたはずである。
それでも彼女は正面を見たまま表情を変えない。でもどうも意識しているような気がして、あるとき平野氏に「かわいい人がいるから」と一緒に歩いてもらった。
すれ違いざま、彼は驚いたように、そして嬉しそうな顔で、「間違いなく意識している」と言ってくれた。
次の関心はどのマンションから出てくるか?
少しずつ、すれ違い地点を彼女の家の方に近づけていけばよい。
埼京線は本数が少ないから1本前の電車でいって時間をつぶし、いつもの電車が着く時間が近づいたら歩き始めれば、出会い地点は早くなる。しかしそんなストーカーのようなゲームはしなかった。
私自身もっと遅い電車になってしまい、すれ違うことはなくなった。
今彼女はどうされているだろうか?
17号の手前、大熊撚糸という門柱がまだあった。
ロイヤルホストの駐車場だが、大熊撚糸が廃業した後、土地を貸しているのだろうか。
廃業後、一角に社長の家があったが、今はない。
社長は手打ちそばの修行をしていたという話を大塚さんだったか誰かから聞いたが、その店が、隣のマンションの一階にある「そば処・前新田」だろうか。
ロイヤルホスト。
中原さんから「九州ではロイヤルといった」と聞いたから86年にはあったと思われる。
ここは飲み会代わりに朝食をよく食べた。
飲み会はそんなに好きではなかった。
会社というのは40を過ぎると昔仲の良かったものも進路が分かれる。
同年輩のものは、出世コースから外れて転勤してしまうか、あるいは偉くなってヒラの私と話が合わなくなるか、どちらかだった。
夜はダンスのレッスンと練習で週5日は踊っていたし、それがない貴重な日は一人で翻訳をしたかった。飲みにいく理由はなくとも行かない理由はいくらでもあった。
そんなことで、不義理を何年も続けていたら、岡田さんから朝ごはん一緒に食べましょうと誘われた。
この近くの居酒屋「おけさ」で焼き魚、納豆、海苔、たまごで500円だったな。彼女と二人のときもあるし、山本達郎を入れて3人のときもあった。
その後おけさが飽きてロイヤルホストになった。
彼女は早期退職してエステサロンを開くのが夢で、そんな話をした。
仕事があるから8時から9時まで時間限定。1時間もあれば、たいていの話はすむ。夜延々と飲む必要もないし、食べ過ぎて朝食欲がなくなるということもない。
退職前、一緒に仕事した秋山さん、森村との最後の会食もここの朝定食だった。
秋山さんには夫婦茶碗と箸のセットをもらったから、最低2回は来ている。
国道17号をわたるのに、歩道橋の人と車道を突っ切る人と二種類いた。
突っ切るには右見て左見て、技術がいる。
そんなことに気を使いたくなかったので27年間のほとんどは歩道橋を渡った。
戸田は低地で、80年代はここも蓋をされた水路があり、
その両側が道路だった。
車道の真ん中が歩道になり、歩くとコンクリートの蓋ががたがた鳴った。
柳の並木はいつしかケヤキに変わり、それも大きくなると一部撤去された。
このあたり、ケヤキが切られている。
水路の歩道が終わるバス通り、角のコンビニがドミノピザになっていた。
この景色はほとんど変わっていないが、昔歩いていた人は誰もいない。
私に近い人は定年退職したし、度重なる早期退職の募集、横浜研究所への統合などで、知っている人は少なくなっている。
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