2019年2月24日日曜日

戸田公園駅2酔月園から転職まで

田辺三菱製薬を後に、駅に向かう。
よく考えると在職中、帰りは朝と違ってみんなが通る県道沿いの道だった。
正門出てすぐ前の戸田寮の横は戸田市の福祉センタ―。
遠くに中華「柳花」の看板。ここはよく使った。

川口からくる前新田循環のバスは、戸二小通りをきて、「川岸二丁目・田辺製薬前」をすぎ、今は東部センター通りというらしいが、通りにぶつかり北に曲がると「下戸田稲荷・スズキ布団店前」で止まった。
布団店が今もあるかどうか確認しなかったが、このご時世、たぶんないだろうな。

下戸田稲荷は交差点の向こう、ずっと先にあり、おそらく田辺の人も知らないだろう。
日露戦争の碑かなんかあったような気がする。
バス停近くの酔月園はまだあった。
82年から社内野球チーム「ビーグルス」に入った。
同じ敷地の東京工場の野球部は経験者ばかりであったが、こちらは研究所のチームだから親ぼくを目的として皆優しかった。婚約者とか新婚の奥さんを連れてくると先発メンバーに入れてもらえた。
休日の練習や、戸田市の大会などは午前中だから、終わるとたいていここ酔月園でビールと食事だった。
汗をかいた後の反省会、祝勝会で席を常に盛り上げてくれた高橋さん、倉部さんは亡くなられた。静かで優しかった島津さんも亡くなった。残ったものは孫とキャッチボールでもしているかな。

野球すなわち酔月園と縁がなくなって久しい1997年1月、長尾研にコロンビア大学からH.Mが研究に来た。長尾さんが会社の誰か(私の上司ではない)に頼んで、戸田寮に(無料で)滞在させてもらうことにし、私は彼から(私的に)世話を頼まれた。
思ったよりきれいな寮の部屋を見せた後、夕食はこの酔月園で食べさせた。会社の業務でもないし、私の友人でもないが割り勘というわけにもいかず、私が払った。ところが彼はそれが当然のように一言もお礼を言わなかった。
その後すぐ、東大に空きのパッチクランプ装置がないからと、実験を田辺ですることになり、私が自分の装置を貸し、カエルの卵母細胞を取るところから教えた。どんなテーマだったか長尾さんからもHMからも説明もされなかったし、こちらも聞かなかった。(今思えば当時は上司も一切関知せず私が勝手に外部の人に実験させているというおおらかな時代だった。)
帰国する前は家にも招待したが、もともと口数の少ないせいもあるが、とうとう何の感謝の言葉もなく、変わった男だった。これが酔月園の記憶。

酔月園まえの角を入ると、さつき通り商店街。
あれ、鈴木布団店があった。
昔から歩いていたのに気が付かなかった。

同期会を一度やった喫茶軽食パラダイスはまだあった。
しかし、よく会社の宴会で使った養老の滝(途中から違う居酒屋になったかもしれない)、寿司や、書店などはなくなっていた。

ところで、こんな何もないところに、なぜ商店街ができたか?
恐らく東京オリンピックで戸田ボート場ができて、競艇が始まり、その最寄りのバス停留所からボート場への途中だったからだろう。
実際、私も1977年、78年、薬学ボート部にいたとき、この「~スズキフトンテンマエ」で降りて、パラダイスや17号近くの食堂(とんかつ、うどん)で食事した。


さつき通りは17号にぶつかる。
このローソンはいつできたか忘れたが、食堂に行かなくなってから昼は指扇駅前で買ったおにぎりやパンであったが、朝買いそびれるとここに寄った。

そんなことより、17号の向かいが「すき家」になっていた。
ここに80年代後半、不二家系列のブロンズパロットがオープンした。
この辺りではオシャレなレストランで、86年、中原さんと食事したことがある。
当時は今のファミレスとは違い、子ども連れや中高生はいなかった。

となりにサーティワンだったか、バスキン・ロビンスだったかアイスクリーム店があった。今調べたら、同じ会社で日本では31、アメリカではBRというらしい。不二家との合弁会社が運営していることから隣にあったのだろう。

ブロンズパロットはいつしか不二家レストランとなった。
いつすき家になったのかは知らない。
17号で眼を戸田橋方面に転ずると、まだ銭湯が残っていた。

1977年、78年、実験をおえて翌朝の練習のために夜、戸田の艇庫に泊まりに来る。
合宿所の風呂が使えなかったのだろうか、ここの銭湯に入ったことがある。
銭湯の隣の「あたりばちラーメン」を食べたこともある。
歩道橋を渡って降りたところに「インディアン」みたいな名前の食堂にも何回か入った。

当時まさか田辺に就職するとは思わなかった。

「あたりばち」「インディアン」とも、田辺に入社した80年代以降も営業していたどうか不明。

銭湯の並びの「ぽんぽこ」は、ある時期から養老の滝よりよく行くようになった。いろんな人の顔と会話が思い浮かぶが、今あるかどうか確認しなかった。
17号を北に向くと、安楽亭。
両手にダンスの荷物を持ち小走りで駅に急いでいた時、安楽亭の前、横断歩道の真ん中で派手にころんだ。
その傷は今も手に大きく残る。

その交差点の西南の隅はマンションにでもなるのだろうか。
この場所、31アイスクリームの隣はゴルフ練習場だった。
パロットスポーツと言ったがブロンズパロットから来ているのだろうか、不二家がゴルフ練習場も経営していたか?と調べたら、「パレット」スポーツだった。

17号の交差点から西に歩けば埼京線の高架にぶつかる。
線路の両脇の空き地がいつしか細長い公園になったが、実際は道路と並行する歩道の役目をしている。

駅に着いた。
改札横の丸亀製麺は2013年当時、Vie de Franceだった。
イートインになっていてお茶も飲めた。

ここで転職先の人と面談したことがある。

昔の手帳を見れば、
2012年8月、裁判所の非訟事件手続きで1年以上かかった千駄木の家が決着、本契約。
9月からは、リフォーム会社4社と現地視察、さらに各社の間取り、予算などの提案を受けて、面談を繰り返し、リフォーム会社を1つに決め、プラザの家の売却にも手を付け始めた。
一方で毎日のようにダンスのレッスンと練習。
仕事は、相変わらず現場で、おもに自動パッチクランプ装置 Barracudaを使ってASIC, TRPA1, KCNQ4などの電流を測っていた。
翻訳は『サルファ剤』が終わり、最後となる渾身の力作『第四の大陸』の真っ只中。

その忙しい時期に、突然、転職の応募書類を出した。
薬科大学と文系の大学1つずつ。
定年まであと4年、今やらないと定年退職になってしまうからと。

10/24、薬科大学の方から連絡あり、面接したのがこのVie de France だった。
朝9時。
首尾よく終わり、そのあと出社するため改札で別れた。
少し歩いて振り返ると、Y氏はまだ別れた場所でこちらを見ていて、深々とお互いにお辞儀した。
行こうかな、と思った。

しかしその後大学で行われた2回の面接で想像以上に年収が下がることが判明、千駄木の家に金がかかることもあり、なかったことにしてほしい、と断った。

その後、仕事・リフォーム・翻訳に専念していたところ、Y氏から連絡あり、12/9、日曜15時、与野本町ゼフィールでレッスンを受けた帰りに、再びこのVie de Franceでお茶を飲んだのである。

今度はホームに一緒に上がり、挨拶して別れ、私はいつも乗る場所へ歩いて行った。
だいぶ歩いて振り返ると、彼は再びこちらを見ていらして、やはり遠く離れたところでお互い深くお辞儀した。
条件が変わったわけではなかったが、必要とされるならやっぱり行こうかな、お金はどうでもいいや、と思った。
そのVie de Franceは、むかいのショッピングモールBeansの中に入っていた。

コージーコーナーはVie de Franceに押し出される形で場所が変わっていた。
ホワイトデーのお返しはここの詰め合わせチョコを買った。


Beansのテナントは結構変わった。
1階はスーパーの安っぽい衣料品売り場のようであったのが、少しおしゃれになった。


惣菜店が新しく入っていて、めっきり増えたマンションの共稼ぎ、若夫婦の需要にこたえているようだった。
書店は昔のまま。
100円ショップとマツモトキヨシは場所が変わっていた。

書店の奥に、よく利用していたQBカットの看板が昔と同じようにみえた。

ここを歩いている人にとってはなんでもない景色でも、離れてしまった私には何十年分ものシーンが重なっていた。


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