2月19日(火)9:00 田辺三菱製薬戸田事業所に行った。
6年ぶり。
出勤してくる人に知った顔はいない。
寂しいような、ほっとしたような。
戸田事業所 正門
左に見える一番立派なビルは、田辺三菱ではない。
旧研究所2号館、3号館などの跡にできたマンション「ビィオルド戸田公園」。
私が退社する10年前の2003年7月にできた。
14階建て、総戸数366戸。
ここで戸田事業所の変遷を整理する。
1960(昭和35) 埼玉県戸田に東京工場建設。
世田谷区代田(小田急梅が丘)にあった東京研究所もここに移転。
戸田ボート場が作られ会場となった東京オリンピックの4年前である。
「田辺製薬330年通史」から
本館(研究所)、工場2棟、道の手前は戸田寮?
荒川と菖蒲川が流れ、周囲はほとんど何もない。
鉄道もなく土地は安かったであろう。
本館はあるが研究2号館はまだない。
水害で道路が水没したこと、
スモン訴訟問題で原告側が守衛所に押しかけ、出社時に玉子を投げつけられたこと、
など、先輩が教えてくださった。
1981年、入社した。
ちょうどスモン問題が、キノホルムの因果関係が明らかでないまま、政治的決着で「和解」しつつあるころである。
データで考える研究者たちは悔しい思いをしたであろう。
サイエンスを主張すれば新聞、メディアに叩かれ、会社がつぶれるという状況だった。
患者(=弱者)こそ正義、白と信じているものを自ら黒と言わねば極悪人とされた。
しかし和解が済んでも因果関係の欠如を主張してきた田辺はしぶとかった。
入社したころの社内報は、社長が海外の薬局に行って笑顔で箱を手に「キノホルムはこんなに安全でいい薬です」というシリーズものが掲載されていた。
あれだけ論争があって何も解決しなかったのに、今はどんな教科書、サイトを見ても「スモン=キノホルム」が「事実として」確定している。
当初反論していた科学者たちが世間的に形勢不利と見るや、全員口をつぐんだからである。
事実は科学でなく多数決で決まり、多数決はムードで決まる。
私は薬害に少しは興味があり、雑誌『諸君』の大論文、宮田親平『田辺製薬の抵抗』などを読んでいた。中立の大学院生の立場からデータを見れば、田辺に同情こそすれ反感はなく、就職に迷いはなかった。
ちょうど自社製品のホパテ、ヘルベッサーが売れているころで、研究所の拡大が進められた。
まず、
1983、 アニパックでは足りず、本格的な動物舎(研究3号館)を作った。その結果、グランドがなくなる。そこで西の端にあった駐車場を食堂側に移動し、そこを新たなグランドとした。野球でレフトに打つと商品管理部の壁に当たった。
1984(85?)、 研究1号館竣工。
それまで有機化学研究所は、本館に図書室、工場総務課などと同居していたが、独立して入った。
ちょうど下の写真である。
1991 西(上の写真左)のグランドの場所に研究4号館竣工。
薬理研(生物研)が2号館から4号館に移動。
グランドは北に移動し、古い食堂はなくなり、駐車場は縮小された。
1994 能力成果主義の新人事制度導入。
このころから暗くなっていく(少なくとも私は)
私は薬害に少しは興味があり、雑誌『諸君』の大論文、宮田親平『田辺製薬の抵抗』などを読んでいた。中立の大学院生の立場からデータを見れば、田辺に同情こそすれ反感はなく、就職に迷いはなかった。
「田辺製薬三百五年史」から
私が入った1981年はほぼこんな感じ。
配属先の2号館は右(東)の端、北にグランド、東は戸田第二小学校だった。
昭和35年から20年で周囲はびっしり工場と住宅で埋まったわけだ。
しかしまだ工場、小学校など以外は木造二階建て一般住宅。
「田辺製薬三百五年史」から
薬理研と微生物研がはいった研究2号館の2階北側は動物室であったが、それでは足りず、アニパックというプレハブの動物小屋がグランドとの境に並んでいた。
私は研究所の野球チーム、Beaglesに入った。
まだのどかな時代で、例えば数人で順にノックを受けていても、午後の始業合図の音楽が鳴ってから「ラスト~」となり、エラーすると「もう一丁~」となるから、なかなか終わらない。終わったら実験室で泥だらけのTシャツを洗ったりする。残業手当というものがない代わりに時間管理が緩かった。
まず、
1983、 アニパックでは足りず、本格的な動物舎(研究3号館)を作った。その結果、グランドがなくなる。そこで西の端にあった駐車場を食堂側に移動し、そこを新たなグランドとした。野球でレフトに打つと商品管理部の壁に当たった。
1984(85?)、 研究1号館竣工。
それまで有機化学研究所は、本館に図書室、工場総務課などと同居していたが、独立して入った。
ちょうど下の写真である。
「田辺製薬330年通史」から
このころが一番明るかったころだろうか。
古い食堂はまだある。
道路を挟んだ戸田寮と軟式テニスコートもある。
薬理研(生物研)が2号館から4号館に移動。
グランドは北に移動し、古い食堂はなくなり、駐車場は縮小された。
1994 能力成果主義の新人事制度導入。
このころから暗くなっていく(少なくとも私は)
東京工場閉鎖。
2000年ころ?
工場閉鎖のため敷地の一部売却決定。
道路を挟んだ北側のテニスコートも売却された。
2001 研究2号館竣工。(工場跡地、4号館の東に旧2号館のスクリーニング部移動)
研究3号館竣工。(4号館の北、グランドに旧3号館から動物飼育、実験施設移動)
グランド消滅、土地売却、
2003 会社の敷地ぎりぎりに迫る14階建て巨大マンション立つ。
洗濯物を落とせば、風がなくともテニスコート、あるいは草地に着地するだろう。
2000年ころ?
工場閉鎖のため敷地の一部売却決定。
東の半分近くを売却することが決まっていたので記念のテレカが配られた。
このあと2号館、3号館、液剤工場などを解体
2号館は入社以来1981-1991、1995-1999と最も重要な時期を過ごした。
2001 研究2号館竣工。(工場跡地、4号館の東に旧2号館のスクリーニング部移動)
研究3号館竣工。(4号館の北、グランドに旧3号館から動物飼育、実験施設移動)
グランド消滅、土地売却、
2003 会社の敷地ぎりぎりに迫る14階建て巨大マンション立つ。
洗濯物を落とせば、風がなくともテニスコート、あるいは草地に着地するだろう。
建蔽率、容積率さえクリアすれば、こんな建て方が許されるのか、と思ったものだ。
2007 三菱ウェルファーマと合併
2007 三菱ウェルファーマと合併
2018 今。
一番古い建物、昭和35年以来の本館
2階北側の図書室で「化学」や「ファルマシア」でセミナーのネタを探したな。
2階北側の図書室で「化学」や「ファルマシア」でセミナーのネタを探したな。
数年前から横浜青葉区、旧三菱化成の敷地で横浜研究所と移転統合の話がある。
実際少しずつ動いており、研究所内は人が少なかった。
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