2023年2月8日水曜日

新旧・国立競技場の航空写真と神宮外苑の歴史

立春2日後の2月6日。
1か月近く悪戦苦闘していた庭の切り株掘りが一段落した。
3月並みの陽気で暖かい。世間は月曜日。
このところ出かけるのは葛飾の畑バイトかダンスだけになっていたので、久しぶりに散策に出た。

ちょうど聖徳記念絵画館の入場招待券をもらっていたので、目的地は神宮外苑。

完成後行こう行こうと思っているうちにオリンピックも終わってしまった国立競技場周辺も見たかったから千駄ヶ谷で降りる。

千駄ヶ谷駅前の東京体育館はよくダンス競技会の会場になる。
2008年以来何回か来ていたが、春と秋に来た2017年が最後。
2023-02-06 10:51
体育館の南のデッキをぐるりと東に回ると、いきなり巨大な国立競技場が迫ってきた。

2017年のときは外苑西通りの向こうで工事中だった。
2017‐03‐11
東京体育館東のデッキから見る
2017‐10‐07

新しい国立競技場は近くなり、外苑西通りが狭い地下道になってしまったかのように、体育館と競技場のデッキが広い歩道橋で一体化されている。
競技場に近づくと、そのまわりは広い軒下のようになっていて、ジョギングする人がいた。
2023‐02‐06
周囲の壁面は2020東京オリンピックの全メダリストの名前がパネルになって貼ってある。
gymnasticsのところでD.Hashimotoが目に入った。
もう忘れている。
コロナという不運もあったが、盛り上がりに欠けた残念な五輪だった。
メディアのお祭り騒ぎと世間の感覚がずれていた気がする。

1年延期は仕方がないとしても、延期しても終息が見えず観客も入れられないほど開催に無理があるなら、中止すべきだったのではないか?
そもそも一般国民は東京五輪をマスコミがはしゃぐほど望んでいたか?
そりゃあ、始まればテレビを見るだろう。日本選手を応援し、活躍すれば心躍るだろう。
しかし、東京で開催することに強くこだわる人は、総人口からみれば少ないだろう。
IOC、JOCなど関係者のほかは旅行業者、イベント会社などで働く人々の一部ではないか。そこに政治家、メディアが乗っかる。

世間の批判をかわすため、わざと開催費用を低く見積もったところに、コロナで観客も入れず、延期、感染防止対策にともなう追加費用もかかり、莫大な赤字となった。反省はしたのだろうか? 札幌五輪招致関係者は何を考えているのだろう。
一部の利益享受者が税金を食い物にし、メディアがムードを盛り上げ、単純・素直な国民を誘導した。
ワクチン接種も同様。
こんなに簡単に国民を動かせるなら、戦争だって起こせるのではなかろうか?

2023‐02‐06 11:01
さて、新競技場は隈研吾らしく木材を並べた庇を作り、日本らしさを出そうとしたのか各庇の上にプランターを並べ小樹木が植えてある。しかし競技場と樹木のスケールが違い過ぎてデザイン的には意味がない。維持費がかかるだけのような気がする。私は北京五輪の鳥の巣スタジアムなんかが好きである。

個人的には新国立競技場の建設も反対だった。
1964年東京五輪に使われたクラッシックな旧国立競技場(1958年竣工)をそのまま使えば、いかにも先進国らしい。五輪が開催国の国威発揚の場であるからには(だから歴代各国は巨額の国費を掛ける)、新興国との格の違いを見せつけるとともに品の良さも見せられて、なんとかっこ良いことだっただろう。

大きく建て替えることで周辺樹木を伐採せねばならず、公園緑地が失われたことが心配だったが、実際来てみるとあまり気にならず、競技場も(幸か不幸か)おとなしくて、ちょっと安心。

以前の国立競技場を見てみよう。
2014 国土地理院
2019 国土地理院

おもに西の東京体育館側の緑地帯と明治公園、都営霞ヶ丘住宅が壊され、日本青年館(1925開館、1979改築)が南に移動した。

ついでに戦前の航空写真も見てみる。
国立競技場の場所には、学徒出陣の行われた神宮競技場(1924竣工)があった。
1936‐06‐11(陸軍、国土地理院)
右の黒塗りは青山御所。

1948‐03‐29(米軍、国土地理院)
絵画館の北西から千駄ヶ谷駅前を通って西に伸びる並木道は、明治神宮本殿のある内苑の北参道につながる。今や内苑、外苑は完全に分離しているが、かつてはもう少し一体感があった。

現在の神宮第二球場の場所の円形施設は相撲場である。
いまも新横綱が明治神宮に土俵入りを奉納するが、当時はここでやったのかな?

この神宮競技場は連合軍に接収されたが、1952年に返還、再び一般に開放された。1958年のアジア大会と国体の会場となることが決まったことで、1956年、明治神宮から文部省に譲渡され、解体、同じ場所に同じ向きで1958年3月初代国立競技場が竣工した。

ちなみに国立競技場と千駄ヶ谷駅の間にある東京体育館の場所は徳川宗家(16代家達系)の屋敷だった。1943年に東京府が徳川家から買収、「葵館」の名称で錬成道場とした。連合軍の接収、返還の後、1956年体育館が完成、1958アジア大会、1964東京オリンピックに使われた。老朽化のため1986年解体、1990年今の東京体育館が竣工した。ちなみに、設計した槇文彦は丹下健三門下の東大工学部1952卒、幕張メッセなどを設計した。母方の祖父は竹中工務店会長だった14代竹中藤右衛門である。
10:59
南側の広場
タイトルの字体が変だなと思ったら、縦に多数の棒を並べて白く塗って文字にしている。
それが二重になっているため歩いて動くと、文字が立体的に変化する。

周りには幼稚園児の集団がお散歩に来ていた。この周囲に住んでいる金持ちの子どもかな。色んな歴史のある神宮外苑も今はのどかな時間が流れる。
むこうに見えるネットは神宮第二球場。

第二球場の横を突っ切ろうと思ったが工事中で入れなかったので、神宮球場と日本青年館の間の道を青山通りまで歩く。

11:10
神宮球場。南西のこちら側がホームベース。
所有者は明治神宮。
1926年竣工だからナイター照明は球場とは別の構造物として設置されている。

ちなみに、この写真を撮っているところは、神宮外苑のある新宿区(霞ヶ丘町)と、神宮球場向かいの国学院高校のある渋谷区(神宮前)、秩父宮ラグビー場のある港区(北青山)、という3区の境界点である。
いまや文句なしの都心だが、戦前の昭和8年まで、この道の西側は東京市外の豊多摩郡だった。(だから渋谷区は墨東の墨田区や江東区より序列が後である)

11:14
秩父宮ラグビー場
「西の花園・東の秩父宮」という日本ラグビーの聖地

神宮球場の老朽化もあり、青山通りの伊藤忠本社も含めこのあたり一帯の再開発計画がある。まず、第二球場を解体し、ラグビー場を新設する。ラグビー場を解体した後に野球場を作り、完成後に現・神宮球場を解体してラグビー場の観客席を増設するという。新・神宮球場の南には伊藤忠本社やスポーツ団体などが入る高層ビルを建てるらしい。

11:21
青山通りに出て伊藤忠本社の前を通って銀杏並木の南端に来る。
この角のロイヤルガーデンカフェは、テラス席が撮影にも使われるお洒落な店。それほど高くはなさそうだが、デートでもない限り入ろうとは思わない。皇家飯店の閉店後、2008年オープンした。
となりはフランス料理のキハチ青山本店。
この2店が入る建物は明治神宮外苑青山休憩所という。
11:24
奥の正面に絵画館が見える。
左はハンバーガーのシェイクシャック。

ほとんど人が来ない(後述)忘れられたような絵画館が、なぜ都内一等地の、この有名な並木道の突き当り正面にあるか?

明治45年(1912)の天皇薨去の後、その遺徳を記念するため、絵画館のほか葬場殿址記念物、憲法記念館、陸上競技場の4施設が計画され、それらを納める敷地として、青山練兵場が選ばれた。やはり明治天皇を記念する神殿が明治神宮として代々木に作られることから、その外苑という形で公園が整備されたのがここである。

1924年に計画が変更され、絵画館、陸上競技場のほかは野球場、水泳場、相撲場が作られることになった。つまり絵画館は、神宮外苑を作るきっかけとなった建物である。また明治天皇を最も具体的に顕彰する施設である。それを思えば、神宮外苑の中心で、今では不自然なほど巨大な姿を見せている理由が分かる。

ちなみに青山練兵場の訓練機能は神宮外苑造成計画の出た1918年に代々木練兵場に移転し、土地を明け渡した。

神社の置かれる内苑は国費で整備されたが、外苑施設の建設費、整備費は全国からの寄付金で賄われた。(予算を立て、全道府県に割り振った)。

11:35
ようやく目的地の聖徳記念絵画館についた。
千駄ヶ谷駅からぐるりと50分くらい歩いた。

聖徳は聖人(明治天皇)の徳だからセイトクと読むのだが変換されず、仏教用語など呉音のショウトクと入れたら一発で出た。確かにセイトクなんて、ここ以外で聞いたことがない。ちなみに京王線の聖蹟桜ヶ丘は明治天皇の行幸を記念した多摩聖蹟記念館(1930年開館)が近くにあるから命名された。

この絵画館は明治天皇の誕生(1952)から崩御(1912)までの60年間を80枚の絵にして展示してある。画題は天皇の人生を描いたのではなく、この時代を表す歴史的場面をしっかりした時代考証で描いたもの。だから二条城での大政奉還宣言や江戸城明け渡し会談(勝・西郷)、憲法発布式、旅順開城(乃木・ステッテル)をはじめ、日本史の教科書などに使われる有名な絵も多い。

1枚1枚の絵に歴史的意味があるから近代日本史が好きな人によい。
いつもガラガラに空いていること、入場500円と安価なこともあり、私は記録にあるだけで1996年(一人で、画集購入)、2004年(小川さんと)、2014年(今中さんと)少なくとも過去3回は行っている。今回は2023年だから10年に1回程度来ていることになる。もちろん絵の入れ替えはないから、どの絵も見たことがある。画題、画家に関する知識が前回より10年間でほんの少しだけ増えていることに気づく。

11:37
玄関ホール

建物は1919年着工、1926年(大正15)に完成したが、肝心の絵画の搬入は遅れに遅れ、この時点では80枚のうち5枚しかできていなかったらしい。
そもそも、画題の選定は当時進められていた国史編纂事業の委員らにゆだねられ、さらに関係者への取材をもとに、洋画家の二世五姓田芳柳が構成も考えた画題考証図(第二成案、80題)を大正10年に完成した。
ついで、画家、奉納者の選定に入ったが、構図がすでに決まっていたことなどへの反発から画家の選定が難航する。その後「壁画調成委員会」が設けられ、川合玉堂、横山大観らがメンバーに加わり、担当画家が選ばれたが、80枚の絵が納められたのは、なんと1936年(昭和11)という。
12:16
展示室は暖房が入っていないのか、冷えたので階下のトイレに立ち寄った。

ここは人がほとんどいないと書いたが、入館から退館までの45分ほどの間、館内で見た客は男性一人だけだった。窓口で聞くと平日は4,50人、休日でも7,80人くらい入るというが本当だろうか。

帰りは国立競技場を一周したかったので、信濃町駅ではなく千駄ヶ谷駅に戻った。
12:26
途中、国立競技場の北東の端に「出陣学徒壮行の地」という記念碑があった。

昭和18年10月21日、文部省主催の下に東京周辺77校が参加して出陣学徒壮行会が神宮外苑競技場で挙行され、学徒を中心に7万人が集まった。冷たい雨の中、銃を肩に、東条英機首相の前を行進する学生らの映像がネットで見られる。この碑はその50周年を記念して1993年に作られた。
最初は競技場のマラソンゲート付近(このあたりか?)にあったらしいが、工事中は秩父宮ラグビー場のほうに避難し、競技場を含む一帯の工事が完成してから再び設置したようで、まだ足元が新しい。

ここは色んな歴史が詰まった土地である。


20170311 国立競技場と絵画館の駐車場

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