2024年6月24日月曜日

香川6 丸亀城からの塩飽諸島、讃岐富士

6月11日、朝、夜行バスが高松に着いたあと、高松城址を見てから電車に乗って讃岐国分寺を訪ね、そこから国府跡まで歩いて埋蔵文化財センターをみた。
そのあと、再び電車に乗って丸亀まで来た。
13:11
丸亀駅南口
だだっ広く、駅前の猥雑さがない。
香川県第二の都市(人口  107,830人、2024年)というが、あまり人がいない。
平日の昼というとこんなものか。
13:11
モニュメントは丸亀出身の猪熊弦一郎現代美術館。

お城に向かって南に向かう。
13:13
駅前広場から南に行くと(金毘羅街道)すぐ東西に、線路と平行なアーケード。
浜町商店街。
13:14
また並行するアーケード。本町商店街。

丸亀は戦災に合わなかったらしいが、商店街はなんとなく寂れている。
かつて、商店街は町の中心にあったが、いま東京近郊では駅ビルを中心として商業施設は駅に集中し、地方だと車でいけるバイパス沿いのモールが栄えている。
丸亀はどうなのだろう?

やがて官庁街に入り広い通りに出ると目の前にお城が見えた。
13:21
京極通り(県道21号)と丸亀城。

写真では分からないが、石垣が高い。美しい。
山の上にある西洋の城のようだ。
天守は現存木造12天守の一つだが、日本百名城に選ばれたのはこの石垣の存在が大きいと思う。
13:23
大手門

13:24
大手二の門
ここをくぐり桝形から大手一の門をくぐって城内に入る。
13:25
城内図を見て、高い石垣の理由が分かった。
濠は一重で、その内側、城の一番低いところ、裾に沿った通路がきれいな円になっている。
つまり、たぶん築城以前の地形は、等高線が円だったのだろう。
ということは、これは香川県に来て今までいくつも見てきた、円錐型の山、残丘(ビュート)の一つだったのだろう。頂上をならし、斜面を石で覆ったから、石垣が異常に高くなったと思われる。
三の丸、二の丸、本丸がほぼ同心円状に配置され(厳密には渦郭式)、下から見れば3重(2重~4重)の石垣が一つに見えるから、ますます巨大な石垣に見える。

天守を目指し坂を上がる。
13:25
見返り坂という。
けっこう勾配がきつく、疲れる。
どれくらい登ったかな、と私も思わず後ろを振り向いた行為が坂の語源だろうか。
13:28
三の丸の北石垣
角は直方体の隅石を大面、小面が交互になるよう積み上げ、崩れにくく、また美しくしている(算木積み)。安山岩なら、この円錐型の山の石だろうか?
ちなみに築城前は亀山と言い、標高66メートル。
丸亀の亀はこの山なのか瀬戸内の生きた亀なのか?
13:28
三の丸の石垣がずっと城の西端まで続く。
ここから下が土の山、石垣の上が三の丸である。
この石垣は単体では高さ22メートルだが、本丸まで全部の石垣を合わせると60メートルで日本一高い。

三の丸に上がる。
13:31
北東に瀬戸大橋が見えた。
右はやはりビュート(孤立丘)の青ノ山の半分。
13:31
北西は瀬戸内海の塩飽諸島(広島、本島)が見える。
ここも丸亀の市域である。
左の赤いクレーンは今治造船丸亀事業所のようだ。
塩飽は28島のうち14島に人が住む。合計2277人。
最大の本島、二番目の広島など、塩飽七島のうち4つが丸亀市、残りは坂出市、多度津町などに属す。

塩飽の島民は古くから操船にすぐれ、源平の合戦などで活躍した。倭寇、海賊としても活動したとされる。戦国時代は塩飽水軍として知られ、信長、秀吉、家康からも高く評価された。

江戸時代、北前船の西廻海運が確立すると塩飽の人々はそれに従事した。廻船は地元、琴平の金毘羅大権現の旗を掲げて諸国をめぐったという。
江戸時代初期は塩飽の廻船が各藩の年貢米の輸送をほぼ独占していたが、中期以降は各地に廻船業者が生まれ、塩飽島民は廻船だけで生計を立てられなくなった。
かわって造船に目が向けられ、当時の日本で最高技術の船を建造するようになった。
さらに一部の造船職人は寺社や家屋の建築なども行い(塩飽大工)、吉備津神社本殿、備中国分寺五重塔、善通寺五重塔などは塩飽大工がたてた。

幕末、日本の船(製造はオランダ)として初めて太平洋を横断した咸臨丸の水夫50人のうち、35人は塩飽の島民だったという。
13:31
三の丸から二の丸の石垣をみる。

13:31
三の丸の南東の隅。
讃岐富士(飯野山、422メートル)は美しい。

書き忘れたが、三の丸の石垣下に高濱虚子の句碑があった。
稲むしろあり 飯の山あり 昔今
65歳の彼は、ここからの眺めを詠んだという。

ところで、当初の計画では讃岐富士を見ながらうどんを食べる計画だった。
映画「うどん」でユースケ・サンタマリアの実家として出てくる製麺所は、丸亀城の南、宮池のほとりであったが、似たような場所に行きたかった。食べるテーブルから讃岐富士が見えるようなうどん店はなくとも、看板と山が一緒に写る店はないだろうか、とグーグルストリートビューで探すと、城の南にあることはあった。ただ、歩くと結構かかり、時間的に難しいかな、とは心配していた。

ところが、讃岐国分寺から国府跡まで歩いたりしたことで、丸亀到着が1時間遅れてしまった。パンを食べてしまったこともあり、計画はさっさと諦めた。しかし、この石垣からの讃岐富士は予想以上に素晴らしく、虚子のようにしばらく眺めた。

三の丸、二の丸、本丸は高さが少し違うだけで同心円なので、それぞれが距離的に近い。
13:33
二の丸。
ほとんど観光客はいなかったが、丸亀城にも中国語のグループがいくつかいた。
13:35
本丸。
丸亀城は現存12天守の一つである。

この城は、1597年生駒親正が讃岐17万石に入封したとき、高松城を本城とし、亀山に支城を築いたことに始まる。1602年、 6年の歳月を要し、ほぼ現在の丸亀城が完成したが、1615年、一国一城令により廃城となる。
生駒氏がお家騒動のため出羽に転封のあと、1641年山崎家治が肥後天草から5万石で入封。丸亀藩が成立、石垣など修復した。その後、3代目が8歳で夭折、お家改易、そのあと、1658年京極高和が播磨龍野から6万石で入封した。

当時、武家諸法度や一国一城令の発布により、天守の存在しない城が多かったが、1660年、
京極氏は大手門から見上げる石垣の端に、現在の3層3階の御三階櫓をたてた。幕府に配慮して天守とは言わなかったが現在は、天守に含めている。この小型天守=御三階櫓は、江戸時代になって建造した、水戸城、落雷消失後に再建した金沢城、弘前城など他にも多い。
本丸から北西方向

南西方向
善通寺、琴平の山々を臨む。
斜めの道は県道33号(高松―善通寺線)

北東
塩飽の本島、瀬戸大橋がみえる。
13:37
天守は入場料400円。
内部はどの城も似たようなものなので入らなかった。
13:38
三の丸より高い本丸からもう一度讃岐富士をみる。

お城から降りて、西の麓の丸亀市立資料館にいった。
13:46
丸亀市立資料館。
いかにも1972年築という形。
入場無料だがここも誰もいなかった。
13:49
城を修復した山崎時代の丸亀城
内堀の外に侍屋敷が置かれた。
江戸後期、1802年ころの丸亀城下
城の石垣、内堀、外堀の四角は、山崎時代の図面と比べ、傾いていない。
昔のほうが実測的であったか?
内堀の中、城のふもとの北西に御殿があり、内堀の外の侍屋敷には家臣の名前がある。外堀(今はすべて埋められた)の外は海側に町人町が作られ、他は田んぼだったようだ。西南に伸びるのは金毘羅街道。

讃岐圓亀蓬莱城図(内堀の中)
昔の図面を大正時代に写したもの。
多くの櫓、御殿の間取りなどが描かれている。
蓬莱城とは、亀山を蓬莱山に見立てたのだろうか。

歴代城主の生駒、山崎、京極氏

生駒氏については高松城のところで書いた。

山崎氏は宇多源氏・近江佐々木氏の支族で近江衆として信長に仕えた。山崎家治は新田開発の能力が幕府に認められ、島原の乱で荒廃した肥後天草の復興を期待され4万石で封ぜられ、さらに復興の功績から讃岐丸亀5万3000石に加増転封され、丸亀藩初代となる。
入国当時は寺院を宿所としていたが、翌1642年には廃城となっていた丸亀城の修復を計画し許された。幕府も瀬戸内の要所として築城の必要性を感じていたため、家治に白銀300貫を与え参勤交代を免除した。嫡男山崎俊家は2代藩主となり、石垣や堀などの修築を続けたが、35歳で死去、3代目は8歳で夭折し、山崎家は改易された。

京極氏も山崎氏と同族の宇多源氏近江佐々木氏の支族。佐々木信綱の4男、氏信が北近江を領したが屋敷を京都の京極高辻にあったことから京極氏と呼ばれるようになった。関ヶ原のあと、京極高次が若狭小浜9万石を得て、その子、忠高のときに出雲松江26万石となった。しかし忠高に跡継ぎがなかったため改易されかけ、甥の高和が播磨龍野に6万石の所領をえて、さらに丸亀に転封され、以後この家は明治維新まで続く。
13:53
西の橋を渡り丸亀城を後にする。
内堀の外は侍屋敷が撤去された後、善通寺第11師団の丸亀歩兵第12連隊、裁判所や小・中学校などが建てられた。連隊跡地は市役所などになり、大手門の前、丸亀市民広場に連隊跡地記念碑が立っている。写真の背後は市立城西小学校。

このあと14:08発の電車で善通寺に向かった。
発車メロディーは瀬戸の花嫁だった。この昭和の名曲は他の駅でも使いたいだろう。
調べたら高松、坂出、多度津はじめ、多くの駅で使われていた。

(続く)




 

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